執り成す者となる

福音&主題メッセージ
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すべてのクリスチャンが執り成す者として召されています。

執り成す者となる


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【ノート】
最も大事な働きは執り成しである。
最も多くの時間とエネルギーを注ぐ働きこそが、その人が最も大事にしている働きだ。イエス様が最も大事にしておられる働きは何か?イエス様は地上におられ、キリストとして活動しておられたとき、諸会堂や野外で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や煩いを癒された。また、3年間くらい弟子たちを訓練された。これらの活動にイエス様は多くの時間を割いておられた。だから、私は宣教や癒しや弟子訓練がイエス様の最も注力した大事な働きだと思っていたがそうではなかった。イエス様が地上におられた期間よりも、天に昇られた後の期間の方がはるかに長い。その期間イエス様がずっとなさっていたのは執り成しだ。つまり、執り成しこそが我らの主イエス・キリストが最も長い期間取り組み、大事になさっていた働きなのだ。ローマ8:34。クリスチャンはキリストに倣う者として、執り成す者となるように召されている。Ⅰペトロ2:9。祭司の働きを一言で表すなら、執り成しだ。イエス様は大祭司として全能の父なる神様の右の座で執り成しておられる。私たちは祭司として執り成すのである。すべてのクリスチャンが執り成しの祈りをするように召されている。

執り成しとは何か?
それでは、執り成しとは何なのか?聖書でいう執り成しとは、神と人との間に入って仲裁することだ。普通、執り成しをする場合、神様に誰かのために祈ることになる。旧約聖書で、単に祈ると書いてある場合、たいてい執り成しとも訳すことができる言葉が使われている。創世記20:7。命を救うための執り成し。創世記25:21。新しい命の誕生のための執り成し。民数記21:7。災いを去らせるための執り成し。執り成しは祈ることによってするのであり、祈りは必ず執り成しを含むものなのだ。仮に他の人のために祈ることがなかったとしても、クリスチャンの祈りはすべて執り成しの祈りだ。クリスチャンはイエス・キリストの御名で祈る。ということは、祈りはすべてキリストの執り成しによって祈る執り成しの祈りなのだ。聖霊様も私たちが祈るとき、執り成してくださる。ローマ8:26-27。これは直接的には異言の祈りを指すが、異言だけに制限されるものではない。私たちは祈ることができる。聖霊様とイエス・キリストの執り成しによって父なる神様に祈ることができる。「私は祈れない」ということはありえない。クリスチャンは皆、祈る力、さらには執り成しの祈りをする力が与えられている。執り成しは、祈っている相手が罪に定められないように、祝福されるように祈る。イエス様が今も私たちのために執り成してくださっているので、私たちは決して罪に定められず、祝福を体験できる。ヘブライ7:25。私たちが執り成しの祈りをすることは常に御心に適うことであり、神様は喜ばれる。イエス様と聖霊様が怒り狂う父なる神様をなだめておられるのではない。イエス様と聖霊様を遣わしておられるのは父なる神様御自身だ。父なる神様も執り成しを喜んでおられる。三位一体の神様は一致して執り成しを喜ばれる。だから、執り成しの祈りは聞かれる。聖書を見るなら執り成しの祈りをしても聞かれないというのはほとんどない。旧約の時代でごくごく限定的な状況だけだ。アブラハムのソドムのための執り成しの祈りを見てみよう。創世記18:23-33。アブラハムは値切り交渉のようにどんどん必要な正しい人の人数を減らしている。アブラハムはさすがに怒られるかもしれないと思い恐る恐る祈っている。しかし、主は一度もアブラハムの執り成しに嫌な顔をしない、怒らない。全部について聞き入れている。しかし、ソドムはそれでも滅びてしまった。なぜか、正しい者が10人いなかったからだ。アブラハムは何と祈ればよかったのか?
「一人正しい人がいたら滅ぼさないでください」と祈れば良かった。そうすれば、ソドムは今に至るまで存在しただろう。今や、正しいお方、イエス・キリストがおられるがゆえに、そのイエス・キリストを内に宿している義人たちがたくさんいるがゆえに主は裁きをなさらない。執り成しの祈りは必ず聞かれる。

執り成しの対象は誰か?
それでは、執り成しの対象は誰なのか?エフェソ6:18-20。すべての聖なる者たちのため、特に教会の指導者のためだ。ローマ10:1。同胞のため。ヤコブ5:14。病人のため。ルカ23:34。罪人のため。罪人の罪の赦しを願うということは、救いを願うということだ。マタイ5:44。敵や迫害者のため。Ⅰテモテ2:1-4。すべての人のため、特に政治的指導者のため。4節からすべての人の救いを願う執り成しが必要だとわかる。ということは、あらゆる人々のための祈りが必要だ。
これに取り組むなら、祈りの時間は自然と長くなるし、特定の時間に限らず、絶えず祈りなさいとある通り、聖霊様に助けられてすべての時間が執り成して祈り続ける心で過ごす時間になっていく。

執り成す者の特徴は何か?
最後に執り成す者の特徴は何かを確認しよう。執り成しはただ朝や夜に祈る時間にだけ現れるものではない。私たちは朝や夜に祈る時だけでなく、どんなときも主の祭司であり、執り成すものである。そして、絶えず執り成して祈り続ける心を持つ。それであれば、執り成す者の特徴は、祈る時にだけでなく、生き方全体に現れて来る。生活全体、その人の言動のすべてに執り成す者としての特徴が現れて来る。もう一度Ⅰペトロ2:9を確認しよう。あなたは執り成す者である。このことを悟っている時、次の特徴があなたに現れてくる。

第一に、執り成す者は決して裁かない。執り成しは、人が罪に定められないように祈ることだ。裁くとは、人を罪に定めることだ。だから、執り成す者は絶対に裁かない。裁こうとすること、告発しようとすることはサタンの役割であって、私たちの役割ではない。これは、裁かないとは、クリスチャンが罪を犯しても戒めないということではない。クリスチャンが罪を犯し、それを戒めるときは、正面から戒める。相手を罪の赦しにあずからせ、罪から解放するためだ。裁こうとすることは、戒めにはならず、心の中で相手のことを憎んだり、本人のいないところで陰口を言ったり、正面から言う場合にも事情を聞かずに相手に対して一方的に攻撃するように言ったりすることだ。そのように裁く人というのは、必ず祝福されず、不幸になる。人を裁くと、裁いた罪にとらわれてしまい、自分も同じことをするようになる。マタイ7:1。人を裁く人は霊的に目が全く見えなくなっている人だ。神様のことも、自分自身のことも、相手のことも見えていない。私たちは、御言葉に照らして自分自身を吟味して、自分自身がイエス様の執り成しを必要としている者だと認識しよう。そうすれば、他の人のことを悪く言う資格が全くないことに気づく。むしろ、神様がご覧になるように人を見ることを学ぶなら、その人たちがいかに優れた人たちなのか気づくようになる。

第二に、執り成す者はその人の立場に立ち、その人の最善を想像する。もし、嫌な人々、自分に敵対する人々のために執り成すとすれば、どういうことを考える必要があるか?表面的に見えるその人の悪いところばかり見ても、執り成すことはできない。
そういう部分を見たらヤコブとヨハネのように「主よ、天から火を降らせて彼らを滅ぼしてください」と祈らざるを得ない。そうではなく、もっと奥深いところを見る。なぜその人がそういう言動を取るのか?「極悪非道の大罪人だからだ。」ではなく、「きっと暗い過去があり心に大きな傷があるに違いない。」「たくさん苦しんできたのだろう。」「本当の愛を知らないからだろう。イエス様を知っていたらこの人も変えられるだろう。」そのように考える。そう考えると相手に対する怒りや憎しみがきれいさっぱりなくなり、逆に憐れみの心が出てくる。そして、その考えはほとんどの場合、真理だ。執り成す者は自分の敵こそ、嫌だと思う人こそ、最も執り成しの必要な人たちだと気づく。執り成す者はより深く考えるのだ。イエス様はそうなさった。ルカ23:34。イエス様は相手の立場に立ち、相手が無知ゆえに罪を犯しているという状況を理解し、自分が何をしているのか知っていたら、福音を知っていたらこんなことはしなかっただろうという想定のもとで、神様に罪の赦しを求めた。まず愛に基づいて考える。相手の置かれている状況を理解し、同情する。次に福音の力に対する信仰に基づいて考える。相手がどれだけ深刻な問題を抱えていたとしても、福音の力はこの人の問題を完全に解決してあまりある。

第三に、執り成す者は人に律法的な要求をしない。執り成しは人が背負ってしまっている余分な重荷から自由するものだ。律法的な要求は、人に重荷を負わせて奴隷にすることだ。ガラテヤ5:1。だから、執り成す者は人に「あれをしなさい。これをしなさい。そうでなければ、駄目だ、失格だ、地獄行きだ」と律法的に要求をしない。勧めの言葉はするけども、律法的な要求はしない。勧めと律法的な要求は違う。律法的な要求というのは、それをしなければ裁かれるという裁きがそこに入っているものだ。勧めは、他の人が霊的に成長する上で役に立つことを推奨するものだ。誰かから要求されて何かをするのではなく、自主性が大事だ。御言葉を悟り、御言葉の恵みですることが大事だ。律法的な要求は恐れに基づくものであり、悟りがないので、長続きしないし、嫌々することになり、苦しくなる。御言葉を悟り、御言葉の恵みでする場合、神様を愛して喜んで行い、悟りがあるので長続きし、豊かに実を結ぶことができる。

第四に、執り成す者は神様との親しい交わりの中にある。執り成しのすばらしい点は、物理的にどこにいてもできる活動だということだ。祈っている相手が近くいる必要はない。イエス様を見ればわかる。イエス様は癒しや弟子訓練については、本人と一緒にいないとできなかった。しかし、執り成しであれば、天におられても、相手からはるかに離れた場所にいてもすることができる。私たちも相手が遠く離れた場所にいても、執り成しの祈りでサポートすることができる。ただし、霊的にはどこまでも神様と近しい場所にいなければならない。イエス様は父なる神様の御そばで執り成しておられる。イエス様の執り成しは、父なる神様との近しい関係に基づいていたのだ。アブラハム、モーセ、ダニエルなど、執り成しの祈りで知られている人々はみんな、神様との密な交わりがある人々だった。祭司は、日ごとに献げ物をささげ、聖所に入り、年に一回至聖所に入って、贖いの儀式を行うことによって執り成しをする。私たちも、神様との親密な愛の交わりが豊かにあるという前提で、執り成しの祈りをする。マタイ7:7。ヘブライ4:16。

第五に、執り成す者は自らの犠牲を厭わない。モーセはイスラエルの民が金の子牛を造って偶像崇拝の罪を犯したとき、執り成しの祈りをした。出エジプト32:31-32。
「もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」と言っている。この神様の書物とは、命の書のことだ。命の書から名前が消されるということは、天国に行けないということ、滅びるということだ。モーセは自分が永遠に滅びることになるという犠牲まで覚悟して執り成しの祈りをささげている。自らを犠牲にすることによる執り成しはイエス様に通じる。イエス様は十字架で御自分の命を犠牲にしてまでも、私たちの罪が赦されるように執り成してくださった。私たちも執り成す者として、犠牲を厭わない心を持つ者になろう。ガラテヤ2:20。幸い、イエス様が十字架で死んでくださったので、私たちの犠牲は大したことではない。自己中心を捨てる。自己中心だと、執り成すことができない。自分の損得勘定ばかりするのはやめて、本気で神様のこと、隣人のことに目を向けるのだ。そして、時間をささげる。執り成しの祈りを続けるには毎日ある程度まとまった時間をとることが必要だ。この最も重要な活動だと言える執り成しのために特別な時間を持つというのは、価値ある犠牲である。イエス様の十字架を思って、喜んで犠牲を払う私たちになろう。

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