すべてはあなたがたを造り上げるためです[Ⅱコリント12:11-21]

コリントの信徒への手紙二
スポンサーリンク

最後に、パウロはしるしや不思議、奇跡に用いられているという点で、自分が確かに使徒であることを説明しました。パウロが手紙を書いた目的は、コリントの信徒たちを造り上げるためでした。

すべてはあなたがたを造り上げるためです[Ⅱコリント12:11-21]


YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
パウロはコリントの信徒たちがこれ以上偽使徒たちに惑わされないように、いかに自分が偽使徒たちよりも優れているかを誇った。まず、キリストのゆえに受けた苦難のリストによって、次に、第三の天に行って帰ってきた神体験によって。しかし、そのように自慢することは、愚かなことであると知っていたので、パウロは嘆く。
11節。本来なら、コリントの信徒たちに対して自分の優れている点を説明する必要なんてなかったはずだ。コリントの信徒たちは、パウロから牧会されたのだから、パウロが多くの点で大使徒たちよりも優れていたことを知っていたはずだ。むしろ、コリントの信徒たちは積極的にパウロの権威を認め、尊敬して、推薦して然るべきだった。そうしなかったのはなぜだろうか。コリントの信徒たちの霊的識別力の暗さにある。霊的に見る目がないということ。また、偽使徒たちのパウロを貶める言葉にだまされてしまった。ここに人の弱さがある。サタンの嘘を聞くと、人は、最も信頼すべき神に対してすら、疑心暗鬼になることが多々ある。ましてや人については言うまでもない。どれだけその人が優れた人であっても、どれだけ恩義を受けた人であっても、ちょっと誰かからその人についての悪い噂話を聞くと、すべてを簡単にふいにしてしまうところがある。私たちは誰からが誰かを非難する言葉には、簡単に耳を傾けないようにしよう。そういうことを聞いたら慎重になろう。本当に不義を訴え、危険性を指摘する声の場合もあるが、サタンの分裂工作に乗らないように気をつけよう。

パウロはコリントの信徒たちが実際に見聞きしたパウロの使徒性を立証する事柄を思い出させる。12節。パウロは、しるしや不思議な業や奇跡によって、自分が使徒であることを実証した。しかも、一度や二度ではない。パウロは忍耐強く、何度も何度も実証してきた。奇跡は、一度でも起これば十分だろう。手放しで使徒だと認めてよいだろう。しかし、コリントの信徒たちがなかなか納得しなかったので、パウロは彼らの不信仰に対して忍耐強く対応したのだ。人の不信仰さは侮りがたい。私は、最初出エジプト記や民数記を読んだとき、「なぜイスラエルの民は毎日のように奇跡を体験しているのに主なる神様を信頼しなかったのだろう」と不思議だった。今ではわかる。人は目の前で奇跡が起きても感動すらせずに疑いの目を向けることすらあるし、一時的に感動したとしても次の日には何もなかったかのようにほとんど忘れてしまうということがある。奇跡の効果は長続きしない。だから、残り続ける御言葉による悟りと聖霊様の内住が重要だ。私たちは心がにぶくならないように、御言葉によって、聖霊様によって、日々諭していただき、いつも霊的に目覚めた者となろう。
ところで、この箇所は使徒の条件の一つを教えてくれる。使徒は教会の中の最高の役職だ。権威がある。使徒を自称する偽者が現れたら厄介だ。それだけに、本当に主から使徒として召されているのか判断する基準が必要だ。ここからわかるのは、本物の使徒はしるしや不思議な業や奇跡に用いられるということだ。他にはどんな条件があるのだろうか?Ⅰコリント9:1。「主イエスを見たではないか」とある。本物の使徒は、何らかの方法でイエス様を見た者だ。絵画で見たとか、映画で観たという次元の話ではなく、主イエス・キリストが肉体を持って現れたのを見たということだ。パウロの場合は、そういう経験を何度かしているだろうが、第三の天に引き上げられたときには少なくとも見たに違いない。使徒の条件はどちらも、神様が良しとしない限り与えられないものだ。もし、使徒だと名乗る人がいたら、自分の経験や相手の外見で判断するのではなく、まずはこれらの条件を満たしているかどうかで判断しよう。そうでなければ、コリントの信徒たちのように、本物の使徒をないがしろにすることになりかねない。
13-15節。パウロが大使徒と呼ばれる人々と比較して、使徒として、教会の指導者として、有資格者なのかどうかということは十分語り尽くされた。そこで、ここではパウロが軽く、コリント教会が他の教会と比較してどうなのかということが問われている。「だれも、一人を持ち上げてほかの独りをないがしろにし、高ぶることがないようにするためです」と第一の手紙でも書いてある通り、他の人たちのことを比較して評価しようとすることは御心に適わない。そういう者たちは自分たちが評価される側になることも覚悟しなければならない。私たちも御心に逆らって偉そうに人を評価することはやめよう。
コリントの信徒たちはパウロが報酬を受け取ろうとしなかったことをかなり気にしていた。そのことについて、負い目を感じ、自分たちが他の教会よりも劣っていると感じていただろう。パウロはそれに同意した上で、謝罪をする。パウロが報酬を受け取らなかったのは、コリント教会があまりにも未熟で、まだ負担をかけるわけにはいかない状態だったからだ。この決意は三度目の訪問が実現しても変わらない。自分の生活を支えるための献金は受け取らない。パウロはこのこだわりを良い目的から来るものだと説明する。「わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。」伝道の目的がここからわかる。伝道は、ただの職業のように信者から献金を募ってお金を稼ぐためにするのではない。パウロは、コリント教会がキリストに勝ち取られ、さらには、成長し、成熟した者たちになることを目的としていた。そのことが実現するまでは、生活の支援を求めるべきではなかった。伝道の目的は人々をキリストに勝ち取ることだ。キリストはガリラヤの漁師たちを弟子にするとき、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。狙いは人間自体にある。神に似せて造られた人こそが貴い宝物なのだ。伝道によって、一人一人の人間が神様の御目に貴い宝物なのだと示す私たちになろう。
さらに、パウロはコリントの信徒たちを自分の霊的な子供として愛していた。霊的親子関係が成立していた。子供が小さい内には、親は子供を愛して、子供を養うために経済的な犠牲を喜んでする。子供が親を養う番になるのは、子供が大きくなってからだ。それで、パウロは喜んで未熟なコリントの信徒たちを愛して犠牲を払っていたのだ。このような霊的親子関係が成立していたからこそ、パウロが持っていた賜物がコリント教会に分与された。アブラハムがイサクを祝福して自分と同じように祝福されたものとし、イサクがヤコブを祝福して自分と同じように祝福されたものとした。そのように、霊的親が持っているものは、すべて霊的子が受け継ぐことができる。コリント教会の場合、パウロの持つ権威に対する尊敬が薄かったことによって、部分的な祝福しか受けることができなかったようだ。あなたには霊的親はいるか。いるなら幸いだ。霊的親からの愛と豊かな霊的遺産を受けて、まっすぐ成長でいる。麗しい霊的親子関係を築いていく者になろう。

16-18節。エルサレム教会の貧しい聖徒たちのための献金をパウロたちが横領したとするでたらめな告発があったことについて言及している。この告発は別の告発と矛盾している。一方ではパウロの教えは無価値なので無報酬で働きをしたと告発され、一方ではパウロは貪欲だから献金を横領したと告発されている。告発をする人々にとって、告発する内容に一貫性があるかとか、真実かどうかということはどうでもよいのだ。とにかくパウロを攻撃できればよいのだ。サタンのような動機だ。だから、私たちも人から身に覚えのないことでいろいろと言われることがあれば、サタンの攻撃だと理解すればよい。そういうときは、ひるまずに断固とした態度で反論しよう。
17-18節では、誰がそんなことをしたのかと問い質している。つまり、告発の内容は、誰がどうやって横領したということについてすら曖昧な、なんとなくの告発だったのだ。噂話というのはただ人の意地の悪さから出るものであり、そこには何の根拠もない。実際には、パウロも他の兄弟たちも皆、聖霊様に導かれ、同じ主イエス・キリストの十字架を模範としていた。そこには偽善が入る余地がない。こういうくだらない噂話が流れることがあれば、それはありえないことだとはっきりと否定し、こういうものを不用意に真に受けないように厳しく戒めるようにしよう。

19-21節でこの手紙を書いた目的を明かす。19節。コリントの信徒たちは、パウロが言い訳を並べ立てているだけだと思い込んでいた。それは、大きな誤解である。何のためにこういうことを述べてきたのか。パウロは「神の御前で、キリストに結ばれて語って」いた。つまり、パウロが語ることは真実であって、パウロはキリストが語るように真理の御言葉を語っていた。「すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。」もしパウロの権威を否定し、偽使徒の惑わしを信じてしまったら、クリスチャンとして築いてきた信仰を失い、滅びてしまう。そうならず、コリントの信徒たちがそれまで受けてきた健全な教えを保って、霊的に造り上げるため、つまり霊的成長のために語ったのだった。自分の教会の指導者を信頼することは霊的成長と密接に結びついている。それは自分の祝福になる。教会の指導者に対して、その言動を穿った目でとらえたり、陰で噂話をしたり、弱みに付け込んだりすると祝福を失うことになる。指導者を信頼し、執り成していく者になろう。そうすれば、祝福され、霊的に成長することになる。

20-21節。パウロはコリントの信徒たちと手紙や人の派遣によってやり取りをしていた。テトスからはコリントの信徒たちが変えられた、悔い改めたと聞いていた。しかし、実際に訪問してみると、思っていたのと違っていた、期待外れだったということにならないか懸念した。そういうことはパウロの宣教の中で何度もあったのだろう。何度裏切られても、決して見捨てない、あきらめないキリストの愛が、伝道者には求められている。20節には「争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動」と書いてあり、21節では、「不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行い」と書いてある。これらの罪は第一の手紙から第二の手紙のこの箇所に至るまでコリント教会の問題として指摘されてきたものだ。これらのことはすっかり解決済みだと思いきや、実は全然悔い改めていないということがあるかもしれない。手紙や人の派遣の時だけ調子よく取り繕っただけかもしれない。こんなことをあえて書くのは、「ぜひともそうならないようにしてもらいたいものだ」という意向を含んでいる。なぜなら、もしコリントの信徒たちが期待外れならば、パウロも彼ら期待通りの柔和な姿で行くことはできないからだ。これは一種の脅しだ。厳しい態度を取ることを望むわけではないが、必要とあらば、容赦はしないのだ。もし、これを読んで刺されるところがあれば、コリントの信徒たちは今からでも急ピッチで悔い改めなければならなかった。そうすれば、パウロが次回の訪問で嘆き悲しまなくても良い。あなたは、人前では「この問題は解決済みだ」と取り繕っておきながらも、実はまだ継続している問題はないか。もしあれば、今こそ悔い改める時だ。イエス様が来られる時に、主の御前であなたが期待外れだということのないようにしよう。主をがっかりさせ、嘆き悲しませることのないようにしよう。主の御前に正直になろう。ありのままに見られているようにありのままの自分をさらけ出そう。たとえ至らない点があっても、私たちが誠実であれば、憐みを受けることができる。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました