ペトロは自分の力や信心によらず、イエス・キリストの御名の権威を借りて、生まれつき足の不自由な人を完全に癒しました。イエス様が再臨される時には、癒しに見る回復が、万物に対して起こります。
万物の回復の時が訪れる[使徒3:11-26]
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【ノート】
11節。生まれつき足の不自由な人が歩き出した。すると、民衆が皆、ペトロとヨハネの周りに集まってきた。その数は4:4によると男だけで5千人だ。東京国際フォーラムで最大のAホールが約5千席。それが満員になる人数だ。ペトロとヨハネはどうやってそんなに人を集めたのか?ペトロとヨハネは、福音を聞く聴衆を集めるために、チラシ配りや戸別訪問やSNSでの告知をしなかった。実際、ペトロとヨハネは人を集めるために何の努力もしなかった。にもかかわらず、5千人もの人々が周りに集まってきたのだ。 なぜか?イエス・キリストの御名の力が炸裂したからだ。私たちがイエス・キリストの御名の権威を用いるなら、主が証しの舞台を整えてくださる。主が人を送ってくださるようになる。
12節。ペトロはまず、「なぜこのことに驚くのですか」と言っている。驚くにはあたらないことだからだ。イエス・キリストの御名の権威を私たちが用いるならば、どのような御業でも起こりうる。どんな病も怪我も精神病も癒され、死人は立ち上がり歩き出し、食べ物は増え、経済は満たされる。ペトロはそのことを確信していた。むしろ、イエス・キリストの御名の権威で宣言するのに、何も起こらないことはありえない。癒しが起こらないことはありえない。奇跡が起こらないことはありえない。皆さんはイエス・キリストの御名で願っていることはあるか?願っている通りのことが必ず起こるということを信じているか?奇跡が起こることは確実だし、起こらないことはありえないと信じているか?そこまで徹底的に信じるところまで、約束の御言葉を思い巡らすようにしよう。そうすれば、奇跡は普通に起こるようになる。奇跡が起こらないことはありえない。
ペトロは次に、自分の力や信心によるものではないと断言している。これは、栄光を神様に帰する点で重要だ。自分の力ではない。私たちは生まれつきの霊能力や超能力のようなものがなければしるしと不思議に用いられないのではない。そういうものは全く必要ない。信心によるものでもない。信心というのは敬虔さと言い換えてもよい。私たちは禁欲的で、世俗のことに無関心で、祈りと断食の日々を過ごすことによってはじめて、しるしと不思議に用いられるようになるのではないのだ。勝手に「こうこうこういう人だけが奇跡に用いられる」などと条件をつくらないようにしよう。そんな条件は存在しない。私たちは恵みにより、信仰によって救われた。同じようにしるしと不思議は恵みにより、信仰によって与えられる。私たちがすごい必要はない。イエス様がすごい。ただ、そのイエス・キリストの御名の権威を借りればよい。
そう注目すべきは使徒たちや私たちではなくただ、イエス・キリストである。では、イエス・キリストはどのようなすばらしいことをなさったのか?イエス・キリストのなさったどんな御業ゆえにその方の御名によって癒しが起こるのか?13-16節。癒しの力の源は、イエス・キリストの十字架の死と復活だ。癒しを体験するとき、私たちはイエス・キリストの十字架の死と復活にあずかる。イエス様のお受けになった傷は、私たちの傷、私たちの病気、私たちの精神病の身代わりに受けたものだ。その傷によって私たちは癒された。そして、私たちはキリストが死者の中から復活した力を体験する。死んでいても癒されるのだから、どんなひどい状態にあっても、完全に癒される。イエス・キリストの御名での宣言を聞くときに、信仰によってこのことが私たちに適用されて、完全な癒しが起こるのだ。山を動かす信仰が要求されているわけではない。この生まれつき足の不自由な男性は、何か良いものを期待していただけで癒された。その程度の信仰でも十分だ。イエス・キリストの十字架の死と復活にあやかるとき、完全に癒される。
ところで、ここで語られている内容は、聴衆のユダヤ人たちにとってショッキングな出来事だった。ユダヤ人の先祖の神がイエス様に栄光を与えようとしていたのに、そのイエス様を殺してしまった。ローマ人のピラトすら法を犯してはいないから無罪放免にしようとしていたのに、聞き入れずに殺してしまった。命への導き手であられる方を殺してしまった。とんでもない罪を犯してしまったということだ。どうしてそんなひどいことをしたのか?イエス様を信じていなかったからだ。イエス様を信じないこと自体が罪であり、あらゆる神様に対する罪につながる。ヨハネ3:18-20。そして、彼らの目の前で起こった生まれつき足の不自由な人の癒しは、イエス様の御名には力があるということ、イエス様が確かに復活されたということ、イエス様が確かに神様から遣わされたメシアだったということを証明している。そうでなければ、イエス様の御名によって癒しが起こるわけがない。癒しの御業は、イエス様を信じないことは罪であること、イエス様を信じなければならないことを示している。私たちがイエス・キリストの御名で癒しに用いられるために、私たちは証ししている福音が真実であることを証明することができる。Ⅰコリント4:20。主の御力によって、福音の正しさを証明しよう。
17-19節。ペトロは、聴衆たちにはイエス様を信じなかったことについて、情状酌量の余地があることを示している。それは、指導者たちと同様に無知だったという点だ。これはイエス様が十字架上で執り成した言葉にも似ている。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」「無知なので、こういうことをしているのです。憐れんでください」ということだ。ユダヤ人は聖書に精通しているはずなのに、宗教指導者たちも民衆たちも等しく無知だった。18節にある通り、すべての預言者の口を通して予告していたのに、だ。どうしてすべての預言者の口を通して予告していたのにわからなかったのか?書いてあっても、神の啓示がないとわからない内容だからだ。頭がよいか悪いかの問題ではない。ただ、弟子たちだけがその啓示を受け取った。ほかの人たちは、どれだけ知識があっても、頭がよくても、福音については無知だった。それが不信仰の原因だった。それでは、日本の場合はどうか?当時のユダヤ人よりもはるかに高いレベルの文明を築き、高度情報通信社会で必要な情報を容易に入手でき、最高レベルの教育水準の人々が多くいるこの日本でキリストを信じる人々が少ないのも、無知のためか?そう、無知のためだ。多くの人々が福音を聞いたことがない。仮に福音を聞いたことがあったとしても、何かの宗教や哲学、あるいは神話や伝説の類かのように聞いている。福音の真理を聖霊充満のクリスチャンの口から語られているのを聞いたことがない人々ばかりである。あまりにも無知なのだ。そして、ここでいう無知とは、見下したり自分の知識を誇ったりするために言っているのではなく、執り成すためだ。無知ゆえに憐れんでくださいと。私は日本で長いこと伝道してきた。その経験から言おう。日本人がかたくなで、イエス様を信じようとしないと思い込むことはやめよう。そんなことはない。ただ、多くの日本人が一度も福音を聞いたことがないだけだ。それだけ、可能性が豊かにある。福音を宣べ伝えよう。悔い改めて、イエス・キリストを信じるなら、罪を消し去っていただくことができる。
20-21節。20節で、「イエスを遣わしてくださる」と書いてある。未来形だ。将来の話だ。将来イエス様が遣わされてくるというのは再臨のことだ。では、再臨とはどういう時なのかといえば、20節では「慰めの時」と書いてあり、21節では「万物が新しくなるその時」と書いてある。これは、どちらも回復の時と訳すことができる言葉が使われている。再臨は回復の時である。
生まれつき足の不自由な人が歩けるようになった。これは回復である。足の本来の機能が回復された。そのように、私たちが失ったすべてのものは、再臨の時に完全に回復されることになる。神様はキリストの再臨によって失った時間を回復してくださり、時間は永遠となる。神様はキリストの再臨によって失った健康や若さを回復してくださり、朽ちない体を持つようになる。神様はキリストの再臨によって失った命を回復し、アイデンティティーを回復し、ビジョンを回復し、人生の目的を回復し、財産を回復し、清さを回復し、力を回復する。すべてはその時に完全に回復される。だから、私たちは過去に失ったものをいつまでも悔やむ必要はない。主がすべてを贖ってくださる。
では、回復はすべて、再臨の時まで待たなければならないのか?それまでは全く回復を望めないのか?そうではない。生まれつき足の不自由な人が歩けるように回復したのは、再臨の前のことだ。私たちは、今日、イエス・キリストにあって回復を体験し、回復のプロセスを歩むのだ。あなたが失ったものは、今日、キリストにあって回復される。その回復が完全な形に仕上げられるのが、再臨の時だ。
再臨はいつなのか?再臨は、神の教会が、主にあって回復のプロセスを誠実にたどった先に迎えるものでもある。初代教会の時、クリスチャンたちは、神の教会に必要なあらゆる種類の教えや賜物を持っていた。ところが、ローマでキリスト教が国教になることをきっかけに教会が急速に堕落して、中世の千年間の暗黒時代のうちに、教会は聖霊様の賜物を失い、救いの基本的な真理を含めて健全な教えをほとんど失ってしまった。それが、宗教改革、ホーリネス運動、聖霊運動などを通して次々と回復し、今に至る。神が教会に与えておられるあらゆる賜物と奥義が回復し、教会が成熟した時こそ、キリストが再臨される時だ。ということは、今はかなりそれに近い時期であると言える。私たちマナ教会は、神の教会に与えられているあらゆる教えと賜物を完全に回復した教会となろう。
22-26節。主に三人の人物を通して、イエス様が聖書に書いてある通りに来られたことが説明されている。旧約聖書とキリストの結びつきを理解しよう。まずは、モーセだ。モーセは自分のような預言者を主が立ててくださることを予告していた。モーセは特別な預言者であって、彼のような預言者はそれ以後イスラエルに現れなかったと申命記に書いてある。このモーセのような預言者とはまさにイエス・キリストのことだ。イエス様とモーセはどこが似ているのか?モーセにはイスラエルをエジプトの奴隷状態から救う使命があった。イエス・キリストは全人類を罪の奴隷状態から救う使命が与えられた方だ。モーセによって律法による古い契約が与えられた。イエス・キリストによって恵みと真理による新しい契約が与えられた。モーセはほかの預言者のように幻や夢を通して語られるのではなく、口から口へ、直接語り合った。イエス・キリストは御子として御父と永遠の昔からいつも語り合っていた。生まれてすぐに殺されそうになったところを神様の摂理によって生かされたことも似ている。23節では、「この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる」と書いてある。イエス・キリストに耳を傾けよう。イエス・キリストの御言葉に耳を傾けよう。
サムエルが、イエス様の時について告げていた。それは、ダビデの子孫から永遠に王座に君臨し続ける王が出るという預言を指しているだろう。厳密に言えばこれを預言したのはサムエルではなくナタンだが、サムエル記のサムエルが油注いだダビデについての預言であり、これを表しているものと考えられる。西暦に終わらずに今も続いていることがまさにこのことを表している。キリストの支配は終わることがない。あなたはキリストの支配に服しているか?この方を王として仰いでいるか?それともなんだかんだ理由をつけながら、その方を支配から逃げているか?キリストの永遠の支配に服する者となろう。いずれはその方がすべてを支配するようになるから。
アブラハムに与えられた預言はどれだったか?創世記22:18。これは、アブラハムがイサクをささげる後に、約束されたことだ。アブラハムが独り子イサクを惜しまずに与えようとしたので、神はそれに報いて御自分の独り子イエス・キリストを惜しまずに与えて、すべての民を祝福することにされたのだ。26節では、キリストが来られた理由を「それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした」とある。これが、キリストを受け入れる者に起こる。私たちは内住するキリストによって悪から離され、祝福にあずかる。私たちは祝福の源であり、誰も私たちを呪うことができない。
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