特別な神体験の証しはどのように受け取り、何に気をつけるべきでしょうか。また、第三の天はどのような場所なのでしょうか。
第三の天の楽園に引き上げられる[Ⅱコリント12:1-10]
【ノート】
コリントの信徒たちはユダヤ人の律法主義を掲げる偽使徒によって惑わされそうになっていた。偽使徒たちはパウロを公然と非難した。コリントの信徒たちの中でもそれに同調しそうな人が出てきていた。そこで、パウロは自分がキリストに仕える上でどれだけ大変なところを通ってきたか、苦難のリストを挙げて対抗した。キリストのゆえの苦難は勲章だ。キリストに仕える者として優れていることを証明している。
さらに、パウロは別のことを誇り始める。それは、特別な啓示だ。1-6節。2節ではキリストに結ばれていた一人の人というふうに、第三者であるかのように語っているが、これはパウロのことだ。6節にそのことが触れられている。このようにパウロが自分の特別な神体験を誇るのは、13巻のパウロ書簡の中でもただここだけだ。唯一の記事なのだ。しかも、内容は非常に控え目だ。イエス・キリストと見える形で出会ったという証し、聖霊のバプテスマを受けた証し、壮大な幻が与えられた証し、臨死体験の証しなど、聞いたことはあるだろうか。私はある。たいていそれらの体験については、克明に語られている。いつ、どのような経緯でそれを体験し、何を見て、何を語り、何を聞き、何を感じたのかということが詳しく語られる。しかし、パウロは自分のとっておきの体験をほんの数節で説明している。しかも、おそらくは14年間もの間、このすばらしい体験について口外しなかったようだ。そして、その他のパウロ書簡の内容は、教えに終始している。これはいったいどういうことか?もしパウロがこの体験について証し本を書けば、大ベストセラーになっていたはずなのになぜこんな少ししか説明してくれていないのか。パウロはどうして控え目にしか語らず、しかしここであえて語ったのか?
私たちは、自分が経験したことのないような神体験について聞くと、衝撃を受ける。神体験についての証しにはそれだけのインパクトがある。場合によってはショックを受け、一気に信仰が引き上げられるということもある。そして、その証しをする人に対しては、誰もが一目置くようになる。その人を尊敬するようになるし、信頼するようになる。神が認めてくださっている人をぞんざいに扱ってはならないと。パウロがあえてここで語った狙いはそれだった。しかし、その一方で、副作用が生じることもある。まずはパウロが6節で言及しているように、過大評価する人がでてくるかもしれない。パウロも、人間であり、弱さを持つ被造物なのに、場合によって崇拝のような扱いを受ける可能性がある。パウロとしては、いつも自分ではなく、主イエス・キリストに人々の注目が行くことを願った。また、神体験の証しはインパクトを与えるが、あまりにもそれまでの自分の信仰生活での体験と乖離がありすぎて、参考にならない。むしろ、冷めた目で見るようになってしまうかもしれない。「あれはパウロ先生だから体験できた話であって、私には縁遠いことだ。」人によっては、そこまでの神体験の起こらない自分の信仰生活をなんだか、空しくて、無価値で、祝福されていないかのように落ち込んでしまうこともありうる。その点、パウロ書簡で語られている教えは、誰でも理解できる。受け取ることができる。実践できる。常に、一人一人の信仰を建て上げる上で有益だ。
私たちはこういう神体験の証しを聞いたとき、どういう反応をするのが理想的だろうか?まず、そういうすばらしい体験を人間にさせてくださる神様を賛美しよう。自分のことのように感謝と賛美をささげよう。次に、そのような体験を、自分も必ずすることができるに違いないと信じよう。「イエスの証しは預言の霊なのだ」と書いてある。誰かのイエス様に関する体験の証しは預言として働く。つまり、私たちが信仰をもって聞くなら、自分にもこれから起こることの預言として受け取れるのだ。あなたも第三の天まで引き上げられるのだ。
神体験というのは、本気で神様を知ることを熱望して日夜過ごしている人には多かれ少なかれ与えられるものだ。パウロのような体験をする人は少なくない。ペトロ、ヤコブ、ヨハネにとっては山でイエス様の姿が変貌する様を見たことが、同様の体験だった。ある人は信仰生活の初期に、ある人は長年の探求の末に、すばらしい体験をすることになる。いずれも神様の恵みによるものであり、天国のすばらしさを私たちに前もって教えてくださり、私たちの信仰を奮い立たせるためのものだ。そういう体験のある人は強い。ガラテヤ3:4。とはいえ、最後におさえておきたいところとしては、神体験はブースターのようなものであり、あくまでも御言葉こそが私たちを建て上げる。Ⅱペトロ1:16-19。新改訳では19節を「私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています」と訳している。聖書の御言葉の方が、変貌山でのイエス様の栄光に輝く姿を目撃することよりも、確かだということだ。体験は絶対ではない。しかし、御言葉は絶対であり、御言葉を信じて守り行う者は絶対に祝福される。
パウロは第三の天にまで引き上げられた。天は複数存在する。そのことは創世記1:1ですでに明らかにされている。「初めに、神は天地を創造された」とあるが、原語のヘブライ語を見ると地は単数形なのに対して、天は複数形なのだ。第一の天は地球の大気、すなわち対流圏だ。第二の天は星と銀河の存在する領域だ。第三の天は神の支配される霊的領域であり、神の御助けなしには行くことができない。その第三の天にパウロは引き上げられて、また戻ってきた。そのパウロが、天国や地獄について語っている。見てきたからわかるのだ。天国は存在する。もし、このいま目に見える世界がすべてだとするなら、希望はない。幸い、私たちがまだよく知らないすばらしい世界が存在するのだ。イエス・キリストを信じる者は、そこで永遠に住むことができる。そのときにはすべての労苦が報われる。あなたは天に積まれた財産やあなたの伝道によって永住権を得られた人たちを見ることになる。
パウロはあるとき、引き上げられて第三の天に行った。2節と4節で2回「引き上げられた」と書いてある。この引き上げられたにあたる言葉はハルパゾーというギリシャ語が使われているが、ハルパゾーは携挙について語られている箇所でも使われている。Ⅰテサロニケ4:17。私たちも引き上げられる。神様の御もとには努力によらず一方的に連れていかれることになる。生きたままか、死んで復活してかは別として、私たちは皆このことを経験することになる。
パウロは、第三の天での滞在を二度も、「体のままか、体を離れてかは知りません」と語っている。このことから、霊が体を離れて存続することは普通にあるということがわかる。もしその可能性がないのであれば、「体を離れてということはありえない」と書くはずだ。実際には、人が死んだら、霊が肉体から離れる。その人が未信者であれば、霊が陰府で苦しみ続け、その後には永遠の地獄が待っている。その人がクリスチャンであれば、霊が第三の天の楽園に行き、やがては復活の体を得て新しいエルサレムの住民になることができる。霊は体を離れても存続することができる。これはあまりにも当たり前すぎて何をいまさらと思われるかもしれないが、しっかりと認識することは大事だ。中には霊魂消滅説という異端の教えを信じてしまっている人々がいる。また、唯物論者は、霊など存在せず、人間の思考力や五感は脳に宿るものであり、意識とは脳の反映に過ぎないと信じる。実際には、人は霊、魂、体で構成されており、霊は体を離れて存続するだけでなく、脳を置き去りにしても、それとわからないくらい独自の知情意を持ち、五感を持つ。むしろ、不完全な体の中にいるときよりも、霊が持つ思考力や感覚の方がずっと鋭く、優れている。パウロの体験がそのことを証明している。
では、第三の天はどのような場所だったのか?パウロの短い話から二つのことがわかる。
第一に、第三の天は、神様と親密な交わりを持てる場所だ。そのことは、4節の楽園という言葉からわかる。ギリシャ語ではパラダイスという言葉だ。この言葉は、ペルシャ語から来た言葉で、壁に囲まれた庭園を意味した。ペルシャ王が、特に大切な人間に特別な名誉を与えたいと思うとき、彼はその人間を指名して、彼に王宮の内苑を王と共に親しく散歩する権利を与えた。あのイエス様と共に十字架にかけられた強盗が死ぬ間際に約束されたことはこのことだった。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」パウロもまた、いまだかつてなかったほどイエス様と親密な交わりを持つ権利が与えられて、パラダイスにて御そば近くに召し出されたのだ。私たちにもパラダイスで主と交わる権利がすでに与えられている。それがどれだけすばらしいことか、今、この地上での主との交わりの中で体験しよう。祈りの中で、聖書を読む中で、日々内なる聖霊様とのたえざる交わりの中で体験しよう。忙しい日々に終われるだけの生活にならないようにしよう。主と園を楽しく歩く時間を必ず持とう。そうすれば、私たちの地上の歩みはパラダイスのようになり、また、パラダイスに行くことは私たちの熱望となる。
第二に、第三の天は、言語化できないほどすばらしい言葉を聞ける場所だ。パウロはたぶんほかにもパラダイスの中で多くのすばらしいものを見聞きしたに違いないが、彼が天国のすばらしさを表すものとして一つだけ挙げたのは「言い表しえない言葉」だった。私たちが読む聖書は、すべて言語化されているものだ。私たちが礼拝で聞くメッセージもまたすべて言語化されているものだ。それらは、私たちに感動を与え、涙を流させ、喜びと希望を与える。私の考えを変え、人生を変え、生きる力を与える。神の言葉には力がある。そのように、すでに私たちに与えられている御言葉だけでも十分すばらしい。ところが、4節を見るなら、どうやら私たちが聞いたことのある御言葉というのはまだまだ一部らしい。「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした」とある。天国でも、やはり私たちに力を与え、喜びを与え、インスピレーションを与えるのは、御言葉なのだ。天国は静かな園ではなく、御言葉による啓示が少しもあますところなく、隠れることなく滝のように、洪水のように注がれ続ける。それらが私たちの内で実を結ぶことを邪魔するサタンや茨や無知や不信仰というものはもはや何もないので、私たちは常に100倍の実を結び続けることができる。御言葉は何の妨げもないのですべて勢いを失うことなく、100%の威力を発揮して実現していく。また、この体にあるときには記憶力や情報を処理する能力に制限があるので、一気にいろいろなことを悟ることができない。しかし、霊において私たちは無制限にあらゆるすばらしいことを一気に知り、体験することができる。現代人はインターネットの世界に夢中になり、没入しがちだが、所詮人間がつくった世界であって、狭く、暗く、嘘に満ちていてその情報量に限りがある。天国はいわば祝福の光に満ちており、真理だけが語られる、無限の広がりを持つ情報網が存在する場所だ。想像力を働かせてみよう。天国がいかにすばらしいか、御言葉に基づいて想像力を働かせてみよう。そして、私たちがそこにつながっていて、そこに行く権利が与えられている幸せを喜び楽しみ、感謝しよう。
すばらしい神体験をした場合の副作用としては、思い上がりがあげられる。体験がすごいと、自分がその他大勢の人々よりも急に偉大な存在になったかのように思い上がりかねない。実際にはすべて神の恵みなのだが、人は勘違いしやすい。そこで、神様は布石を打たれた。7-10節。
パウロの身にとげが与えられた。それはサタンから送られた使いだと書いてある。使いというのは、天使とか御使いとも訳すことができる言葉が使われている。サタンから送られたものなので、これは闇の天使、つまり悪霊であり、しかも、かなり位の高い悪霊だろう。この使いにはパウロを痛めつける権能が与えられていた。パウロはこの使いが離れるように三度主に願った。たったの三度かと思うかもしれないが、三度ということの中には、「絶え間なく、連続的に、繰り返し」という意味合いがある。イエス様がゲッセマネの園で祈られたのは三度、ペトロがイエス様を否定したのは三度、ピラトがイエス様の無罪を主張したのは三度だった。また、イエス様は「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と三段階の約束をしておられるのも、絶え間なくそうするように強調しておられる。パウロは何度となく主に願ったが主の答えはある意味ノーだった。何度も願ったのに使いは去らせてもらえない。
この使いによって痛めつけられるというのが具体的に何を表しているのかについては、かなり諸説がある。私は聖書を教えてくれた先輩クリスチャンから「パウロは癲癇とか眼病を患っていたのだ」と教わった。それで、私もYouTubeでそのように語ったこともあったと思う。私は霊的父からの学び、自分でも調べた上で、その考えを訂正したい。パウロはそういう病気で苦しんでいたわけではない。そういうことは一言もここに書かれていない。とげということが病気とは限らないことについて民数記33:55で確認しよう。ここでは、カナンの地の住民が「とげとなる」と書いてあるが、病気という意味ではないことはよくわかる。そもそも、病気で苦しむ人に対して主が「あなたを癒さない」と言われ、病気であり続けることが御心ということはありえない。イエス様は神様の御心を体現されるお方だ。イエス様が病気の人に対してそんなことを言ったことが一度でもあるか?ない。病の癒しは、常に御心だ。
それでは痛めつけるとは具体的な何のことか。パウロは11章で迫害や窮乏をずらっと挙げて、30節で「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と言っている。そして、12章でとげについて語った後にも9-10節で「自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています」とある。ということは、パウロがサタンの使いに痛めつけられたのは、絶え間ない苦難と迫害によってであるということがわかる。パウロはそれを去らせてほしかったが、神様の答えはノーだった。サタンの使いは、パウロが思い上がることのないように、神様の許しのもとでパウロに与えられたものだった。それは、パウロの召命と堅く結びついていた。使徒9:15-16。パウロの召命についてアナニアに語られた御言葉だ。苦しみということがその中に含まれている。苦しみによって福音の光を輝かせ、神の栄光を現すのだ。
使いを去らせてほしいというリクエストに対する答えはノーであっても、そこには肯定的な約束を伴うものだった。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」私たちには、あらゆる苦難を乗り越えるのに十分な恵みが、与えられている。苦難の分だけ恵みが与えられている。そして、弱さに直面するときこそが、恵みによる力が働く機会となる。人は、平穏無事であれば感謝なことだが、そこまで信仰を働かせる機会を持つことができない。迫害され、追い詰められた時、人間としての限界にぶつかったとき、私たちは自分の力に頼ることを放棄せざるを得なくなり、ひたすら、内なるキリストの御力に頼るようになる。そういうときにだけ発揮できるキリストの御力がある。いままさに苦難の中にある者たち、神様を信頼しよう。「私の恵みはあなたに十分だ」と主は言われる。あなたは御力によって乗り越えられる。
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