選ばれているかどうかは、選ぶ側が提供する情報によって知ることができます。神から選ばれているかどうかは、聖書を通して知ることができます。
選ばれた者の生き方
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【ノート】
私は選ばれているのか?
神に選ばれた者として生きているか?神に選ばれた者として生きるのは、神に選ばれた人だ。そこで問題となるのは、私は選ばれているのか、という点だ。私たちは何によって、自分が神から選ばれているのか、それとも選ばれていないのかということを知ることができるだろうか?なんか、そういう感じがするのか?誰かから言われたらそうなのか?なんかそれっぽい出来事があったら選ばれているのか?すばらしい武勇伝や語り継がれる伝説を残したら?あるいは、天使が現れるのを待たなければならないのか?合格発表であれば、自分の受験番号が掲示板に書いてあるかによって知ることができる。お年玉付き年賀はがきなら、くじ番号が一致しているかによって知ることができる。企業の面接なら、内定通知書によって知ることができる。それぞれ、選ぶ側が与える情報によって知ることができる。それでは、神からの選びは?神が与えてくださっている聖書の御言葉を通して知ることができる。それ以外にない。聖書には、選びについて何と書いてあるか見てみよう。
エフェソ1:4-5。私たちが選ばれていると書いてある。私たちとは誰のことか?第一義的には、パウロやこの手紙の宛先のエフェソの信徒たちのことだ。しかし、新約聖書の書簡は、特定の教会や個人のためだけに書かれたものというよりは、すべての時代のすべての聖徒たちやすべての読者たちにあてたものでもある。コロサイ4:16。ということは、エフェソ1:4-5でいうところの「私たち」とは、すべてイエス・キリストを信じる者にあてはまる。あなたはイエス・キリストの十字架の死と復活が私のためだったと信じ、その方をわが主、わが神、わが救い主と信じているか?それであれば、あなたは選ばれたものである。神はいつあなたをお選びになったのか?天地創造の前だ。私たちはまだ誰も存在しない。パウロもエフェソ教会の聖徒たちも存在しない。しかし、神はその計り知れない知恵によって私たちの存在するようになることを、世界を造る前から計画し、予知され、その上で私たちをお選びになった。そのような人知をはるかに超えた知恵を持ち、すべてを見通しておられる神様から選ばれているということは私の選びは間違いないものだとわかる。どのような動機による選びか?愛だ。こき使ってやろうとか、支配してやろうというものではなく、私たちを愛して神はお選びになった。何のための選びか?聖なる者、汚れのない者にしようと書いてある。そして5節には神の子にしようと書いてある。聖なる者=汚れのない者=神の子だとわかる。神の子とするために選ばれた。神はあなたを神の家族の一員に加えるべくあなたを愛して選ばれたのだ。何による選びなのか?キリストによる選びだ。キリストがあなたを選んだから、あなたはキリストを信じるようになった。
なぜ私が選ばれたのか?
それでは、なぜ私なのか?なぜ私が選ばれたのかということに疑問を持たれるだろうか。あの人の方がもっと性格が良いのに、能力があるのに、なぜ私なのか。キリストが選んだのなら、キリストが使徒を選ぶ箇所について読んでみるとなぜなのかということが見えてくる。ルカ6:12-16。まず、イエス様は独断で使徒を選んだのでも、何となく選んだのでもないことがわかる。イエス様は山で、徹夜で祈られた。これから御自分がどういう人々を選ぶことになるのかわかっていた。つまり、イエス様の十字架の死と復活を全世界に宣べ伝える上で鍵となる12人を選ぶということだ。間違いがあってはならない。そこで、イエス様が選ばれたのがこの12人だった。教育を受けた人はほとんどいない。
かろうじてイスカリオテのユダと徴税人のマタイくらいか。特別な能力がある人たちでも、すでに脚光を浴びるような活躍をした人たちでもない。言ってみれば普通の人たちだ。なぜイエス様はあえて普通の人たちを選ばれたのか?それは、イエス様と一緒にいることで、普通の人たちが並外れた人たちに変えられることで、神様の栄光を現すためだ。神様は普通のお方ではない。並外れたお方だ。この方は普通の人を並外れた人に変えることで栄光を現される。私たちは普通の人として召されるが、普通の人、ただの人のままではいられない。
Ⅰコリント1:26-31でも同様のことが書いてある。イエス・キリストを信じる前、無学な者、あるいは無力な者、無に等しい者、見下げられている者だったという方はいるか?「私はずっとつらくて苦しいところを通ってきた。死んでしまいたいと思うことが何度もあった。人生は何をやってもうまくいかなかった。ずっとお先真っ暗だった。一人ぼっちだった。」そういう方はまさに神に選ばれた人だと知ってほしい。あなたはその大変なところを通ってきたことで、神の栄光を現すための準備が整っている。神はあなたを通して無から有を生み出す創造の奇跡を再現なさる。無に等しい者が、有力な者、有能な者、有望な者、有名な者になることを通して、神様は栄光を受けられる。
選ばれた理由は、実のところ、私の側にはないということを知らなければならない。私がすばらしいからではないのだ。神は変わらないお方だ。神がイスラエルを選ばれた基準とクリスチャンを選ばれる基準は同じだ。申命記7:6-8。選びは神の恵みのゆえだ。神様はあなたの何かのゆえではなく、あなたを一方的に愛して選ばれた。
選ばれた者の特徴は何か?
それでは、選ばれた者にはどのような特徴があるのか?常にみられる特徴について、マタイ22:1-14に書いてある。14節で「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」と書いてある。ということは、ここに書かれている何用は選ばれる者についてだとわかる。ここから選ばれし者の特徴を大きく二つ挙げることができる。第一に、招きに応じる。招かれたのに応答しなかった人がたくさんいた。その中でも、招きに応じた人は宴会に行くことができた。つまり、今でいえば伝道されて、イエス様を信じて受け入れた人のことを指す。イエス様の招きに応じて、イエス様を信じたのだから、応答する者と言ってもよさそうだが、聖書はそういう人のことを選ばれた者だという。選ばれた者だけがイエス様の招きに応答できるのだ。第二に、婚礼の礼服を着ている。礼服を着ていない人は追い出されてしまった。ドレスコードにひっかかった。天国にはドレスコードがあるらしい。ここでいう婚礼の礼服とは、どんな服であり、どうやって手に入れて、身に付けることができるのだろうか?この礼服を着ていない人はどんな服を着ていたのだろうか?おそらく普通の服、普段着を着ていた。普段着ではまずい。ゼカリヤ3:3-5。大祭司ヨシュアは汚れた服を着ていた。ここでいう4節にある通り、罪の汚れだとわかる。私たちは自分の行いによって義とされようとするなら、つまり、律法主義に陥るなら、必ず汚れた服を着ていなければならなくなる。なぜなら、自分の力、行いでは義とされることは不可能だからだ。自分の義で神様の御前に立つなら、汚れているので追い出されてしまう。では、晴れ着はどうやって手に入れたか?ヨシュアが自分でがんばって手に入れたか?それとも一方的に与えられたか?一方的に天使から、つまり神様から与えられた。恵みによって晴れ着は与えられた。これはキリストの義の衣を指している。ローマ13:14。私たちは信仰によって義とされる。それはキリストの義が私たちに転嫁され、私たちはキリストが義であられるように義とみなされるということ。いわば、キリストの義を着ている。
キリストの義を着る人は、神様の御目に常に義人とみなされる。いつも神様に受け入れられている者として歩む。選ばれた者は自分の義ではなく、信仰によって与えられるキリストの義に頼って神様の御前に立つ者のことだ。しかし、律法主義になって、「選ばれた者となるためには自分の力で頑張らなければならない」とするのは、自分の義で神様の御前に行く人なので、危うい。追い出されてしまうかもしれない。
選ばれた者は何に励むのか?
Ⅱペトロ1:5-11。選ばれていることを確かなものにするように努めるのはなぜか?選ばれているからだ。選ばれていなければ選ばれていることを確かなものにはできない。選ばれている者は、成長する。前進していく。やがて選ばれている者にふさわしい実が結ばれていく。そのことによって、選ばれているということを確かめて、確信を深めることができる。では、具体的に何に努めるのか?ここではいろいろなことが書いてあるが、出発点に注目しよう。出発点は信仰だ。ローマ10:17。信仰は御言葉を通して始まる。御言葉を学び、思い巡らし、悟っていくときに、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛というものが付与されていく。その過程で、主イエス・キリストを知るようになり、実を結んでいくことになる。選ばれた者はイエス・キリストを個人的に知るようになる。その歩みの中で、いつもイエス・キリストと共に歩むからだ。
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