アイデンティティーを清める

福音&主題メッセージ
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サタンは私たちが神の子として権威をもって歩めないようにするために、嘘のアイデンティティーを吹き込もうとします。

アイデンティティーを清める


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【ノート】
私たちは、自分が何者であると認識するかによって、何をするかが決まる。自分が何者であるか、アイデンティティーが何をするかを決める。神様は私たちに御言葉を通して、私たちが何者であるかを教えてくださる。創世記1章を見ると、神様が御言葉で天体を造り、植物を造り、動物を造った。神様が仰せられると、そのようになった。そのようになった。何の訓練もセミナーも受けていないのに、御言葉が語られると、造られた物は創造され、デザインされた通りに動くようになった。アダムは神の子として創造された。神に代わって地に満ちて地を支配する者として祝福の命令が与えられたので、そのように生きるはずだった。しかし、アダムの場合はすぐに罪を犯して、神様との関係が断たれてしまい、自分が何者であるかわからなくなってしまった。アイデンティティーを失った。生まれた時から自分が神の子だと悟っていた人はいるか?いない。人間は自分が誰で、何のために生きているのかわからずに、空しい人生を生きて、その先には滅びが待っているしかないものになった。

しかし、良い知らせがある。イエス・キリストの十字架の贖いを信じて、罪赦された者は、神様の御言葉を聞いて、本来のアイデンティティーを回復することができる。神様は私たちに言われる。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者。」聖書を通して、聖霊様を通して語られるその御声を聞いて私たちは神の子として生きる。「あなたは聖なる者だ」と聞いて聖なる者として生きる。「あなたは王だ」と聞いて、御心に基づいて支配する者になり、「あなたは祭司だ」と聞いて執り成して祈る者となる。「あなたは地の塩だ」と聞いて塩気を出し、「あなたは世の光だ」と聞いて光を放つようになる。神様は私たちに多くの良いアイデンティティーを与えてくださり、それに聞いて私たちは生きる。

それでは、私たちが与えられたアイデンティティーの内、人生の根幹となる最も重要なものが一つあるとするなら、何だろうか?それは神の子だ。イエス・キリストがそうだった。神の子としての権威をもってこの地上を生きられた。私たちはキリストと結びつき、一つの霊とされているのだから、キリストと同じように神の子として生きることが最も大事だ。神の子であるということの中に、私たちがすべてを可能にすることができる根拠が詰まっている。私たちはキリストのように愛し、キリストのように力強く生きることができる。このことを悟るとき、クリスチャンはどんな召命にもこたえることができる。天地を揺り動かすほどのダイナミックなムーブメントで用いられることができるようになる。この国を、この世代を、イエス・キリストのもとに勝ち取ることができる。
サタンもそのことを知っていて、脅威に思っている。そこで、サタンはクリスチャンが神の子としてのアイデンティティーにしっかりと立つことができないようにしたい。そこでサタンが取る作戦は何か?嘘をつくことだ。常套手段だ。実はそれしかできない。たとえ、サタン、あの悪霊どものトップに君臨するサタン張本人であっても、私たちが神の子としてのアイデンティティーに堅く立つなら真っ向勝負では勝てない。そこで頭を使って嘘をつく。サタンが憐れに思うだろう。ただ、厄介なことに、多くの人がその嘘を信じてしまい、サタンの目論見通りに神の子として歩めず、無力化された状態があるということだ。その嘘の内容は、汚れたアイデンティティーを吹き込むことだ。汚れたアイデンティティーは救われる前に持っていたものの場合もあれば、残念ながら救われた後にだまされて植え付けられたしまった場合もある。
今日は、その汚れたアイデンティティーを大きく2種類お伝えする。私たちは今日、この2種類が嘘だと知る。嘘の性質は、それが嘘だとばれた瞬間にもう信じなくなるということ。嘘だとわかっていることにとらわれる人はいるか?誰もいない。巧妙な詐欺師の罠も、暴かれた瞬間ひっかからなくなる。安全になる。つまり、私たちは汚れたアイデンティティーが嘘だと知って今日捨てることができる。そして、ただ神様の御言葉によって、神の子として堅く立つことができるようになる。

悪魔の嘘のアイデンティティーの第一に、犬。あなたは犬ではなく神の子だ。フィリピ3:2。黙示録22:15。ある時ディボーションでこの二つが同時に示された。犬どもに警戒しなさい、犬のような者は天国にいけないと書いてある。犬の何がいけないのか?神様は犬が嫌いなのか?犬のような顔をしていたら天国に行けないのか?犬も、神様がお造りになった。犬も神様から愛されている。ここでいる犬とは、汚れたアイデンティティーのこと。自分が汚れたものだと思い込む。それは思い込みだと今日私たちは悟る。アイデンティティーが汚れていると、どうしても汚れたことをするようになる。Ⅱペトロ2: 22。犬は吐いた物のところへ戻る。吐いた物とは体がうけつけないものなのに、またそこに戻って吐いたものを食べてしまう。これは罪をいつまでも繰り返し続けることを指している。私たちはもし汚れたアイデンティティーを持つならば、汚れた生き方をするしかない。一時的に罪を告白して清めていただいても、罪を吐き出しても、本質は犬なので、何度も何度もその罪にまた舞い戻ってしまう。
だから、私たちは自分のアイデンティティーを罪に位置付けてはならない。自分を罪人だと認識してはならない。ローマ5:8。罪人であった時と書いてある。罪人だったのは過去のことである。「でも、パウロは自分を罪人の頭だと言ったではないか」と考える人もいるだろう。確かにそう書いてあるが、それはどんなひどい状態から救われたのかを示すために書いたものだ。Ⅰテモテ1:13-15。「以前」と13節に書いてある。以前はこんなアイデンティティーだったということだ。救われる前は、自分が繰り返す罪が自分を表していたかもしれない。しかし、それは過去のことであって、イエス・キリストを信じた後、私たちはどんな行動をとっていようとも、信仰によって義とされている。罪人ではなく、義人である。もし罪人なら、おとなしく地獄に行かなければならない。救われたので、もう義人である。
そう、行いによってアイデンティティーを決めてはならないのだ。行いによってアイデンティティーを決めるなら人は必ず犬になってしまう。フィリピ3:2。ここでいう「犬ども」とは律法主義者のことだ。律法主義者は、自分の良い行いによって義と認められようとするが、それは不可能なので、必ず犬になる。律法は「私は汚れています。私は汚れています」と叫ぶことを要求する。律法主義に立つなら汚れたアイデンティティーを持つようになる。せっかくイエス様の十字架の死によって、恵みによる救いが与えられているのにもったいない。しかし、犬はすばらしい教えが与えられるとどうするか?マタイ7:6。足蹴にしてしまう。ヨハネ3:5-6。肉から生まれた者は肉であると書いてある。つまり、罪人から生まれた者は絶対に罪人である。犬はどこまでも犬であり、犬が急に神の子になることはできない。行いで頑張って犬が神の子にはなれない。生まれ直すことでもできない限りできない。そして、すばらしいことに生まれなおすことができる。イエス・キリストを信じる者は、聖霊様によって新しく神の子として生まれる。もう聖なる者とされている。清い者とされている。行動に関わらず、いつでも神様に受け入れられる者にされている。
そして、神の子は全く別の生き物とされているので、その人を恵みが義によって支配して、罪を犯さない者となる。Ⅰヨハネ3:9。がんばって罪を犯さないようになるのではなく、そうさせていただく。あなたは犬ではなく、神の子だ。

悪魔の嘘のアイデンティティーの第二に、いなご。あなたはいなごではなく神の子だ。イスラエルはカナンの地に侵入する前に、12人の偵察隊を派遣することにした。そのうち10人は、偵察した土地について悪い情報を流した。バッドニュースを流した。民数記13:31-33。バッドニュースを流した人たちは自分たちのことをいなごと言っている。残りの二人ヨシュアとカレブはグッドニュース、福音を語ったが、イスラエルはみなバッドニュースを信じて自分たちをいなごだと思い、カナンの地征服を断念してエジプトに帰ろうとした。その結果、ヨシュアとカレブ以外の何百万人もいたその世代のイスラエル人は全員荒れ野で死んでしまい、だれ一人約束の地に入ることができなかった。いなごは弱者のアイデンティティーのこと。いなごは自分のことを弱いと思い込む。いなごは御言葉で命じられていることはできないと思い込む。それらは思い込みだ。いなごは臆病者だ。勇気がなく、神様の約束が山ほど与えられているにもかかわらずいつまで経っても信仰のチャレンジをしようとしない。一歩を踏み出そうとしない。そして、いなごは一歩を踏み出すようにチャレンジする指導者を退けたがる。いなごは救われる前、あるいは生ぬるい信仰生活をしていたころを懐かしく思う。肉的なことに惹かれる。その結果、神様が約束しておられる豊かな人生を少しも体験することがないまま、神様の召命に少しも応えることがないまま、むなしく地上での生涯を終えてしまうことになる。もったいない人生だ。
神の言葉は、私たちをいなごではいられないようにする。弱い者に対して御言葉は何と言っているか?ヨエル4:10。弱い者も「私は勇士だ」と言えと命じられている。私は弱い、足りない、できない、無理だと思う時、私たちの口から出てくるのはそれとは逆の言葉。「私は勇士だ。私は勝利することができる。」そういう言葉が口から出てくる。「でも、どんな人でも弱る時はある者ではないか?」それはそうだ。そういう人に同情することは必要だ。しかし、御言葉はこのように私たちを励ます。Ⅱコリント12:10。弱い時こそ強い。弱い時、肉の力に頼れないこと、私たちの内にある神様の御力が現わされる絶好の機会となる。いなごは敵である悪霊どもを必要以上に恐れる。しかし、御言葉は私たちが悪霊を意のままにすることができることを確約している。マルコ16:17-18。まず、悪霊を追い出す。家にいる人を追い出そうとしたら、普通なかなか苦労する。これができるのは、私たちと悪霊とでは圧倒的な力の差があるからだ。新しい言葉、異言は悪霊どもには解読できない秘密の言葉で神様とやり取りする通信技術。手で蛇をつかみ、毒を飲んでも害を受けずも悪霊から害を全く受けずに一方的に蹂躙できるということ。病人に手を置いて癒せるのはなぜか?多くの病は悪霊によるものだが、その悪霊を撃退できるからだ。ルカ10:19。私たちが霊的戦いをする場合、ノーダメージであり、相手を一方的に踏みにじれると約束されている。それなのに戦うことを恐れる必要はあるか?全くない。使徒1:8。あなたは聖霊のバプテスマを受けたか?それであれば、あなたは力を受けている。ダイナマイトのような破壊力のある力を持っている。神様は励ましてくださる。Ⅰヨハネ4:4。ヨシュア1:9。イザヤ41:10。

Ⅰコリント15:57。神の子、イエス・キリストは勝利者だ。どんな悪霊でも追い出すことができたし、どんな試練も乗り越えることができた。最後の敵とも言える死にすら勝利した。私たちはそのイエス・キリストと同じように神の子とされている。どんな敵が相手でも全く恐れる必要がないということだ。霊的世界であなたの上に君臨する存在は神だけだ。試練は、イエス様が歩まれた道をあなたも同じようにたどっている証しだ。正しい道を歩んでいると確信しよう。死は、天国の入口、イエス様と対面できる待ち遠しい瞬間でしかない。恐れるな、神が共におられる。あなたはいなごではない。あなたは神の子であり、圧倒的勝利者だ。勝利して神様の約束の実現を体験しよう。

最後に、神の子はどんな霊を受けているか確認しよう。Ⅱテモテ1:7。私たちがいただいたのは誰の霊か?キリストの霊だ。つまり、私たちはキリストの力をいただいている。聖書には多くの御霊の賜物が登場するが、キリストはその全部を持っておられた。そのキリストの霊を持っているなら、私たちは求めさえすれば、聖書に書いてあるすべての賜物を用いることができる。私たちはキリストの愛をいただいている。御霊の9つの実というものがあるが、キリストはそのすべての実を結んでおられた。そのキリストの霊を持っているので、私たちは求めさえすれば、罪を犯すことなく愛に満ち溢れた完全な人格を持って歩むことができる。私たちはキリストの思慮分別をいただいている。これは原語を見るとセルフコントロールという意味の言葉だ。キリストは力や愛を乱用したり、加減や用い方を間違えたりすることなく、完全にコントロールしておられた。そのキリストの霊を持っているので、私たちは求めさえすれば、いただいた権威と愛を100%神様の栄光になる方法で使っていくこともできる。私たちはキリストのように生きられる。

サタンの嘘がばれてしまった。もう私たちに通用しなくなってしまった。サタンに言ってやろう。お前の嘘はもう見破った。私たちはお前が何と言おうと、神の子としての歩みをやめない。お前はもはや指一本私たちに触れることができない。イエス・キリストの御名によってサタンよ、退け。アーメン。

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