私たちはすでにキリストの油注ぎを受けています。
後は日々の訓練を欠かさないことです。
つまり、誰も見ていないところで良い習慣を続けることによって、誰の目にも明らかな驚くべき御業に用いられるようになります。
神の成長戦略+良い習慣を確立する【後編】
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【ノート】
池袋マナ教会に与えられた神様からの成長戦略を覚えているだろうか?二週間前の日曜日に神様に「マナ教会が人数的に成長するにはどうすればよいですか」と聞いたら、ミカ5章が与えられた。これは神様が与えてくださったことだ。神様はマナ教会の成長戦略を与えてくださった。間違えないでほしい。これが私たちの戦略であって他にない。実際に読んでみよう。
ミカ5:1。いと小さき者とはまさにマナ教会のことだ。人数的には少ない。しかし、神様は小さい、人口5百人程度のベツレヘムでイエス様が生まれるようになさったように、マナ教会で、イエス・キリストの栄光が現わされることになる。神様はこの小さな群れを注目しておられる。
ミカ5:3。ここを見ると神様がマナ教会に与えてくださった成長戦略がよくわかる。それは、闇雲に伝道をして、とにかく人数的に増やそうとすることではない。伝道集会を開いたり、文化活動やバザーといった人を呼び込む企画を開いたりすることではない。「群れを養う。主の力、神である主の御名の威厳をもって」と書いてある。群れ、つまり、今いる私たち一人一人が養われることが神様の御心だ。イエス様は主の御力と御名の権威によって私たちを強められる。外に人を探しに行く前に、私たちが強められることだ。私たちが主の御力とイエス・キリストの御名の権威で強められたら、御言葉を守り行うようになれば、イエス様が愛してくださるように互いに愛し合うようになれば、御名の権威で悪霊を追い出し、病人を癒すようになれば、神様の恵みがあふれて一切の罪を完全に締め出すようになれば、そして、もちろん生活の現場で家族や友人知人を伝道するようになれば、人数的に自然に増えるようになる。つまり、主が私たちにお与えになった戦略は弟子訓練だ。今年の1月から火曜日の集会で弟子訓練のテキストを使って学びをするようになった。御言葉を守り行う者となることに本気で取り組むようになった。神様はその戦略を継続するようにおっしゃっている。
ミカ5:4。イエス様が七人の牧者と八人の君主を立ててくださると書いてある。牧者は、牧師も含まれるが、そうでなくても、教会の群れを導く良い指導者のことを牧者という。イエス様は良い羊飼いは羊のために命を捨てると言われた。羊のことを思って、犠牲的な献身することができるかどうかが問われる。マナ教会では主がそのような牧者を豊かに立ててくださるようになる。君主は王だ。クリスチャンは王の系統を引く祭司だとⅠペトロ2:9に書いてある。みなさんは王だ。王としてイエス様の愛の支配を拡張する。霊的戦いに勝利する。御国を拡張する働きをする。そういう者を主はマナ教会に豊かに立ててくださる。
ミカ5:6-8では私たちがどの程度強くなるかが書いてある。ヤコブの残りの者と書いてあるが、ユダヤ人は大国の間にいて翻弄されるような国だった。残りの者というのは、特に戦争で大部分が滅びてしまいかろうじて生き残った者、捕囚先でわずかに生き残った者という意味で使われている。ところが、弱そうな彼らが若獅子のように強い。ただ進むだけで敵を踏みつけ、敵をすべて倒すことができる。私たちは、異教徒に囲まれて、一見弱い立場だ。しかし、ヤコブの残りの者のように、主は私たちを若獅子だと呼んでくださっている。私たちは若獅子のように強い。私たちはただ普通の生きているだけで敵を踏みにじり、悪霊どもをすべて撃退できる。
私たちは、今、すでに若獅子である。そのことを自覚して、日々の訓練を怠らなければよい。御言葉に基づいた良い習慣を身に付ければ、私たちは霊的にぐんぐん成長することができる。どういうことか。ダビデはゴリアトを倒した。サムエルから油注がれたときに、イスラエルの王としての神からの力が与えられていたからだ。しかし、ダビデはいきなりゴリアトを倒したわけではない。ダビデは日々、良い羊飼いとして羊のために命をかける訓練を受けていた。サムエル上17:34-36。羊を襲う害獣を倒してきたのだ。それは日々の生活の中で、誰も見ていない中で行われた。そうやって訓練されていたからこそ、大勢の人々の前でゴリアトを倒してイスラエルに大勝利をもたらすという実が結ばれた。私たちには、誰の油注ぎが イエス・キリストと同じ聖霊様による油注ぎが与えられている。ダビデが受けたものよりも強力な油注ぎだ。もうすでに権威は与えられている。後は良い習慣を維持することによって、誰も見ていないところで神様から訓練を受け続けることだ。そうすると、誰の目にも明らかな勝利の証しが生まれる。人々が救われ、癒され、悪霊が追い出され、変えられていく。ハレルヤ。
第一に、収入の十分の一を続けてささげよう。私たちは経済について神様に信頼できるかによって、信仰が最も試される。なぜなら、経済は最も現実的だからだ。生活に直結する。生きていくことに直結する。そして、現実的なことについて神様を信頼していないなら、心から信じていると言えるだろうか。言えない。私たちは経済についても含めて全面的に神様に信頼しようではないか。神様は私たちが経済についても全面的に御自分に信頼することを望んでおられる。私を信頼しなさい、私が日毎の糧を与える、マナをふらすと主は言われる。マラキ3:10。十分の一は、律法ではレビ人が神殿での奉仕に集中できるようにするために献げられるものだった。今で言えば、牧師や宣教師が伝道牧会に集中するためにささげられる。つまり、人々が救われ、養われ、御国の拡張のために使われる。天に朽ちない富を積むことにつながる。はっきりとした約束もある。「必ず天の窓を開く」と書いてある。まさにマナが天から降ってくるように、主は天の窓を開き、あらゆる経済的必要を満たしてくださることを保証している。ささげた以上の祝福が必ずあるということだ。それであれば、御言葉を信じてさえいれば、躊躇なくささげられる。神様は私たちが御自分を信頼して、十分の一をささげることを求めておられる。これは創世記14章によると、アブラハムがいと高き神の祭司メルキゼデクに十分の一を贈ったことに由来する。新約の私たちにあてはめるなら、アブラハムの霊的子孫である私たちが、メルキゼデクと同じような大祭司イエス・キリストに十分の一をささげるという構図だ。十分の一は新約でも行うべきものなのだ。これをささげることによって私たちは、「自分の経済のすべて、つまり十分の十は神様からいただいたものです」と告白することになる。すると、ささげなかった十分の九に至るまで神様の御手による祝福と御守りを受けることができるようになる。さらに言えば、お金を偶像したり、金銭欲にとらわれて堕落したりすることを避けることにもつながる。マタイ6:24。Ⅰテモテ6:10。ささげることでこれを防げる。十分の一をささげることは多くの点で有益だ。
第二に、ディボーションを毎日しよう。私がディボーションを完全に習慣化できたのは2年半前だ。救われてまもないころからディボーションはやったことがあったし、昔から取り組もうとチャレンジしたことは何度もあったが、いつも途中で頓挫していた。ディボーションが絶対に不可欠だと悟っていなかったからだ。2年半前にウェイン・コデイロ先生のDVDの学びでディボーションについて何度も強調されているのを火曜日の学びの時間に見て、初めて毎日できるようになった。
マタイ4:4。神の子は御言葉で生きる。御言葉なしには生きていけない。そして、ディボーションは他の活動で埋め合わせることはできない。聖書通読だけでは、聖書全体についての知識や構造は深まるが、神様からの語り掛けを聞くほどの深みがない。今日、神様は御言葉を通して私に何を語っておられるのか、ということまでは通読ではわからない。そして、神の子は神様の指示なしに何かの活動をすることはできない。ヨハネ5:19-20。「子は、父がなさることを見なければ、自分からは何事もできない。」何事もだ。ということは、朝起きて、仕事や家事など、ほかのすべての活動に優先してすべきことはディボーションだとわかる。そうしないと何事もできない。ディボーションの仕方はいろいろあるが、共通して言えるのは、御言葉を読むことと、何らかの内容を書くことだ。ノートでもブログアプリでもよい。必ず書く。書きことは、私たちが神様の語り掛けをキャッチする上で有益だ。ハバクク2:2。主は書き記せと言われる。最高の啓示である聖書は人の手によって書かれたから存在する。私たちも語られることは書く。ディボーションの仕方としては、私は二種類の方法を実施している。一つはSOAP式だ。Scripture聖書箇所。Observation観察、Application適用、Prayer祈りの四項目を書き出していく方法だ。まずScripture聖書箇所を書く。続いて、観察では、その聖書箇所を繰り返し読んで、そこから読み取れることを書いていく。内容について自問自答すると書きやすい。適用は観察した内容が自分にどうあてはまるかを書く。決心したことや目標を書いても良いし、自分に与えられている恵みや約束をただ書いて神様を賛美してもよい。最後は神様に祈る内容を書く。もう一つのディボーションはもっと直接的に御声を聞く方法だ。もし、神様に聞きたいことがあれば、質問を設定してから始める。続いて、神様からどの章を読めばよいか示していただく。神様は二十四時間365日いつも私たちに語りたいお方だ。あなたがどこを読めば御心が書いてあるか聞けば必ず答えてくださる。示された章を読みながら印象に残った言葉をすべて書き出していく。書き出した内容が多すぎる場合は特に印象に残った言葉にしるしをつける。そこから、神様が何を私に伝えようとしているか解釈を加える。すぐに解釈が出てこない場合もある。一日の終わりまで見返そう。語られたことがその日に実現したり、解釈が分からなかったところがわかったりする。SOAP式と一緒にやると内容に不思議な一致が与えられ、さらに確証が深まることもある。ディボーションは、一日や二日やってもよくわからないこともある。そういうものだ。それでも毎日続けてほしい。本気で取り組むなら、いつかすらすらと神様の御心がわかるようになっていく。箴言25:2。神様は隠す。それは誰かが探し出すことを前提にしている。聖書には奥義が隠されている。イエス様がたとえで語られたのも、奥義として語っておられるのだ。ディボーションをしても神様が何を語りたいのかよくわからないことがあるのは隠されているからだ。それは神様の誉れになる。御言葉は誰でもわからない部分があるからこそ、価値が輝く。誰が探し出すのかといえば王だ。それは王の系統を引く祭司である私たちだ。探し出すことは、私たちの誉れとなる。そして、本気で霊的な耳を研ぎ澄ませて探すなら、必ず見つかる。「探しなさい。そうすれば、見つかる」と約束されている。私たちはディボーションの中で私たちの人生を豊かにする貴重な宝を探し出すのだ。そして、ディボーションで何かするように神様から指示されることがあれば、必ず従順しよう。そうすれば、祝福される。ディボーションを毎日する者になろう。
第三に、御言葉を毎日暗唱し、思い巡らそう。特に思い巡らすことが有益だが、暗唱もしてしまうとさらによい。これをすると、他の習慣を簡単に身に付けられるようになる。超高速スピードであらゆる祝福がやってくるのを体験できるようになる。ヨシュア1:8。
この律法の書というのは今で言えば聖書だ。昼も夜も口ずさみと書いてある。これは原語見ると思いめぐらすという意味もある。思いめぐらし、口でも宣言する。そうすれば、私たちの信仰が強められて聖書の御言葉が実現するようになる。マルコ11:22-23。ここでは、宣言がなされている。御言葉に基づいて望んでいる事実を宣言する。そうすれば、山すら足が生えて海に飛び込むようになる。未信者は救われ、病気は癒され、死人は生き返り、悪霊は追い出され、罪は根絶され、経済は祝福され、愛は満ち溢れる。ハレルヤ!神様は私たちの思いをはるかに超えてすばらしいことを考えておられる。それは御言葉を通して実現していく。イザヤ55:8-11。神様の思いは私たちと異なる。天地くらいの差がある。私たちが乞食のように「できればこのくらいのものを恵んでください」などというのが地だとすれば、神様の御心はその人の想像が全く及ばない天だ。では、御心は天だから届かないのか?手に入らないのか?そうではない。神の言葉を通して、御心は実現していく。雨や雪は御言葉を指している。実を結ぶ大地は私たちを指している。御言葉を思いめぐらし、口ずさむとき、これが起こっていく。具体的なやり方はこうだ。聖書通読やディボーションの中で、毎日思い巡らすべき聖句を見つけよう。これぞマイ聖句という聖句を見つけよう。その御言葉の内容を、100円ショップにある単語カードか暗記アプリなどに書く。もう片面には、自分に対する適用を書く。それを夜寝る前と朝起きた後、さらには日中の移動時間、あらゆる待ち時間に見つめる。思い巡らす。宣言する。必ずそうなると、しつこく、しつこくやり続ける。もしどの御言葉が良いかわからない人は通読をすればいいが、とりあえず万能な御言葉としてはフィリピ4:13、ローマ8:1がよい。そのほか、家族の救いなら使徒16:31、福音伝道なら使徒1:8やローマ1:16、結婚なら創世記2:18、経済的祝福ならマラキ3:10やルカ6:38、清いアイデンティティーに身に付けることであればローマ8:15、ヨハネ1:12、Ⅱコリント5:17、罪を断ち切ることであればガラテヤ5:24などがある。
さらに余力があれば、御言葉を暗唱しよう。暗唱してしまえば、聖書を開かなくてもすぐに御言葉を使うことができる。つまり、何かの試練、何かの誘惑、何かの御言葉が必要なシチュエーションに遭遇したときにすぐに御言葉を思い浮かべ、宣言できる。さらには、人に教えるときにも、聖書を開かなくてもすぐさま語ることができる。イエス様や使徒たちがメッセージを語っていた時代。今のように印刷された聖書はなかった。巨大な御言葉の巻物があった。自分の聖書を持ち運ぶということはできなかった。では、彼らはどうやって御言葉を引用していたのか?全部暗記していたのだ。御言葉を暗記し、唱えることが暗唱だ。では、どうやって暗記するのか?私たちは自分が思っているよりもずっと記憶力が良い。ただ、あまりその記憶力を使う機会がないだけだ。使えば、開発される。つまり、暗唱聖句に真剣に取り組むなら、どんどん記憶力もよくなっていくということだ。暗記に近道はない。とにかく繰り返し復習をすることだ。覚えていなかったものは何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も覚え直す。毎日それをする。覚えるときにも私たちは祝福を受け取ることができる。ディボーションのマイ聖句以外の幅広い重要な聖句を毎日のようにインプットするので、記憶が毎日刷新されることになる。御言葉を暗唱しよう。御言葉を毎日暗唱し、思い巡らそう。
第四に、情報断食をしよう。マタイ13:22-23。土地とは私たちの心言い換えれば魂を指す。種は御言葉だ。私たちは良い土地のように30倍、60倍、100倍の実を結びたい。人々が30倍救われる。賜物が30倍発揮されるようになる。愛が30倍豊かになる。経済力が30倍になる。これが起こったもう十分リバイバルだ。それを妨げるのが茨とあざみだと書いてある。その正体は、世の思い煩いや富の誘惑と書いてある。
これは言い換えれば、世的な情報だ。御言葉に相反する性質の御言葉の純粋さを妨げる情報だ。それであれば、御言葉と調和する情報だけ魂に入れて、御言葉と調和しない情報はシャットアウトすればよい。でも、そもそも御言葉と調和する情報といえばどういうものがあるだろうか?まず聖書!また、有益な信仰書籍!御言葉にまっすぐ従っているクリスチャンが語るメッセージの動画や音声なども良い。それでは、それ以外は?厳密にいえば、それ以外の情報は基本的に御言葉と調和しない情報だ。その中でも特に、これは霊的に混乱をもたらす内容、罪が推奨されている内容など、取り入れるとなんだか自分にとって調子を狂わせると思うものがあれば、もし本気で実を結びたいならばカットしよう。それがここでいう情報断食だ。そうすれば、その分確実に良い実が結ばれる。人とのコミュニケーションはとればよいだろう。そうでないと交わりや伝道ができない。もし知りたい世の情報があれば、自分で直接聞かなくても知っている人から聞けばよいだろう。それで十分だ。「でも、そんなことしたら世の中の流行についていけなくなるのではないか。世の中の話題についていけなくなるのではないか」それが狙いだ。ローマ12:2。
でも、今の時代ちょっと手を伸ばせばスマートフォン一つで簡単に情報が見られるのに、今まで観ていた情報を簡単にシャットアウトできるだろうか?自分の意思の力ではできないだろう。私もできなかった。できるようになったのはつい最近今月の初めくらいからだ。どうしてできるようになったのか?いろいろな要素がある。ちょうどその直前に「人生の勝利の方程式」というメッセージを語った。そのメッセージの通りに不要な情報を排除するという点で勝利した。また、そのメッセージの契機ともなっている岡野義喜先生の「神の子&神の義アイデンティティー」というセミナーも大きな力となっている。さらには、神様から一つの思いが与えられた。私が自分の魂に茨を入れたら、マナ教会の兄弟姉妹や癒しを必要としている人が癒されず、場合によってはそのまま死んでしまったり、救いを必要としている人が救われず、滅びてしまったりすることになる。そんなことは絶対に経験したくない。それを思う時私は自分の魂にいらないものを入れることができない。もう一生入れたくない。実際、全然御言葉以外の情報を得たいと思わない。このことはほぼほぼ成功している。情報を調べるときにチラッと視界の端に不要な情報が移ることがあるくらい。電車の広告や町の看板すらある程度避けることができている。なので、私がこれから実を結ぶことはもう確約されている。情報断食を続けて、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ者となろう。
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