良い習慣を確立する【前編】

福音&主題メッセージ
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霊的にぐんぐん成長する上で有益です。
セカンドオピニオンはないということを悟ると、身に付けることができます。

良い習慣を確立する【前編】


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【ノート】
良い習慣について、聖書は何と書いているか?Ⅰコリント15:33。この箇所からは、二つのことがわかる。「良い習慣を台無しにする」と書いてある。良い習慣は台無しにされてはならないもの、ずっと維持されるべき貴いものだということがわかる。この良い習慣を確立するときに、私たちは霊的にぐんぐん成長できる。聖書で良いとされていることで、何度もしなくてよいものは少ない。水のバプテスマや結婚くらいだろうか?そのほかのものというのは、繰り返しするものと想定されている。たとえば、主の祈りでは「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るように書いてあるが、これは毎日祈るということが前提の祈りだ。良いことを毎日繰り返しするということは、良い習慣を持つということだ。習慣化してしまえば、人は一々悲壮な決意をかためなくてもスムーズに続けることができてしまう。イエス様の働きを考えても、多くの働きをなさったというふうに思うかもしれないが、実はイエス様がなさることは絞られていて、いつもしていることがあった。マタイ4:23。イエス様はどこに行ってもこれをしていた。もしこれに一つ加えるとすれば弟子訓練だ。良い習慣を確立するということは、イエス様のように生きるということだ。

私たちはどうすれば良い習慣を身に付けることができるか?第一に、その習慣を身に付けることが絶対に必要だと悟れば身に付けることができる。これは絶対に取り組まなければならない。取り組んだか取り組まなかったかで私の将来は大きく左右される。岩の上に家を建てるか、砂の上に家を建てるかというくらい左右される。選択の余地がない。これに取り組む以外にセカンドオピニオンはない。そう悟っていたら絶対に身に付けることができる。第二に、神の子としてのアイデンティティーに立つと自然に身に付けることができる。私たちは、自分の身の丈に合わない服を無理やり着ようとするようなことをするのではない。聖書から見た良い習慣を身に付けた生き方とは、神の子にとって神の子らしいごく普通の生き方をするようにするということだ。あなたは何者か?神の子だ。裏も表も神の子、寝ても覚めても神の子だ。第三に、すぐに効果が出ないこともあると心得ていること。三日坊主になるのは、変化が感じられないと思ってやめてしまうのが理由の大半をしめる。坊主ではいけない。私たちは神の子だ。なぜ習慣とすることが大事なのかといえば、どんなことでもインスタントに効果が得られるものではないからこそだ。一度二度取り組んで、違いを感じなかったからやめるというのは、何もしなかったことと同じだ。はっきりとした違いは必ず現れる。そのことを確信して、すぐに効果が出なくても良いことを続ける者になろう。第四に、一日二日、できないことがあったとしても大丈夫、罪に定められない。そんなときもある。

ただ、良い習慣について、三つほど、注意喚起をしておきたい。第一に、クリスチャンはあくまでもイエス様とのつながりによって、イエス様のように生きる。つまり、良い習慣それ自体に力があるのではないということ。私たちはイエス様とどの程度つながっているか?Ⅰコリント6:17。コロサイ2:3。コロサイ2:9-10。良い習慣は、信仰を強め、イエス様とのつながりを強固にする上で有用だ。第二に、良い習慣を偶像化してはならない。ある婦人が、朝早い時間から2時間祈ることを良い習慣として身に付けていた。それは本当に良いことだ。しかし、その人は自分の夫が骨折したのに、それについて何のケアもせずにいつものように2時間の祈りをすることを優先させてしまった。良い習慣は守りたいものだが、もし愛が私たちに別のことを優先するように導くならば、喜んで良い習慣を脇に置いてそのことをしよう。第三に、習慣は律法ではない。裁きはない。
それでは、クリスチャンが確立すると本当に良いと言える習慣を取り上げる。ただ、今回で全部伝えるのは不可能なので、今回は4個だけ取り上げる。あなたもすでに身に付けているものもあるだろう。そうであれば、なおのこと確信を持って続けるようにしてほしい。また、ここで挙げられていないことで取り組んでいることもあるだろう。それはそれで良いことなら続けよう。これから取り上げることは私が欠かさず取り組んでいることでもある。

第一に、集会を守る。ヘブライ10:25。クリスチャンは集まって互いに励まし合う。なぜそうするのか?彼の日が近づいているから、イエス様の再臨だ。再臨が近いので、より敬虔に生きるように励まし合う。そうすると全員の信仰の火が燃え上がる。一人でいるときよりもずっと燃え上がる。一人の時にも主はいつも共におられるが、マタイ18:20。集会でしか起きないこと、体験できないことがどうしてもある。これは私が最初に身に付けた良い習慣。教会に通い始めたのは、日曜日は定期的な予定が入っていなかったので、何となく毎週行っていた。それから、イエス様が日曜日に復活したので、日曜日は特別な日、聖日であると知った。聖書を読むと、確かに週の初めの日、つまり日曜日にクリスチャンが集まっていることが書いてある。これは律法ではない。日曜日に集まらないと裁かれるという類のものではない。あなたは裁かれない。しかし、良い習慣としてクリスチャンは初代教会のころから少なくとも日曜日に集まっていたのだ。それで、少なくても水のバプテスマを受けた後、20年近く、私は日曜日に教会に行かなかった日は一度もない。これは主の御前で、日曜日は必ず集会を守ると決めているからできる。主がその決意を守られてくださる。教会を探していて、毎週別の教会に出席している時もあったがそういう時も一度も切らしていない。健康も守られる。体調が悪いことがあっても、日曜日を迎える前に必ず回復する。霊的なスランプに陥って、正直なところ集会に行きたくないという思いを持つこともあったが、(今は全くない)そういう思いを持っていればいるほど、行くと必ず回復した。自分で聖書を読んでいるだけでは気づかないことを教えられる。教会を愛する心が養われ、イエス様との絆がますます強くなる。祝福され、成長する。集会を守る習慣を身に付けよう。

第二に、祈る。Ⅰテサロニケ5:17。祈ることは、クリスチャンライフにとって呼吸をするようなものなので、これをしていない人というのは誰もいないだろう。絶えず祈るというとき、食事の時だけ祈るということ以上のことを意味する。絶えず祈るとは、何をしていても神様に心を向け続けるということだ。その上で、祈るための特別な時間を毎日とろう。マタイ6:6。料理や洗濯をしながらの祈りではなく、祈りだけに集中する時があるのだ。では、どのくらいの時間祈るべきか?イエス様ははっきりと最低ラインを決めておられる。マタイ26:40-41。一時とは、1時間のことだ。イエス様はわずか1時間という短い時間すら弟子たちが目覚めて祈っていられなかったことに驚かれた。ということは最低ラインが1時間ということだ。でも、祈る習慣のない人が、最初から1時間だとつらいだろう。すぐに破綻するだろう。まずは1日5分からはじめて徐々に長くしてみよう。毎日何時からどのくらい祈るかを決めよう。朝が良いだろう。朝だけで物足りない人は夜も、昼も時間を設定してみても良いだろう。ダビデは朝と夜に祈った。ダニエルなど、敬虔なユダヤ人は日に三度の祈りをささげた。必要ならタイマーを用意しておいて、時間になったらすぐにやめても良い。約束の御言葉と祈り課題を用意しておくと祈りやすい。祈りの時間が短いと感じられたら次から長くしてみよう。これをすると、5分祈ると退屈してしまう人でも、毎日何時間でも祈る人に変えられる。

第三に、聖書を通読する。Ⅱテモテ3:16-17。「聖書はすべて」と書いてある。すべて神の霊の導きのもとに書かれた。聖書全体が私たちに教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする。もし私たちが聖書の一部しか読んでいなかったら、読んでいない部分から教えられず、戒められず、誤りは正されないまま残り、義に導かれる上で不十分になりうる。善い業を行う上でも整えられない。「聖書はすべて」あなたを愛してやまない神様があなたにあてたラブレターだ。相思相愛の相手からラブレターが届いたのに、一部しか読まないなんてありうるだろうか?ありえないことだ。全部を熟読し、何度も読み返すだろう。そして、一度読んだだけで終わりにせずに、すぐに二度目の通読を始められるかどうかが本当に通読の重要性を悟っているかがわかる。通読の重要性を悟ったのは12年くらい前。そのくらいの時から少なくとも年に2回以上は通読するようになった。救われる前に一度通読したが、そこでやめてしまった。その後、別の書物にとりかかってしまった。「聖書はもう読んだから、次はダンテの神曲を読みます」とある兄弟に言ったら、「それは楽しみですね」と受け取られた。あの時にあの人が止めてくれていたら、「いや、聖書の通読を続けましょう」と言ってくれたら、もっと読んでいたかもしれない。なぜ何度も繰り返し読むのか?まず、記憶を新たにするためだ。聖書自体の執筆目的の中に記憶を新たにするということがある。ローマ15:15。Ⅱペトロ3:1。イエス様も、同じ重要な真理を何度も弟子たちに語られた。それは弟子たちがすぐに記憶できなかったからではなく、記憶を新たにするためだった。記憶を新たにするというのはどういうことだろうか?私たちは聖書を一度通読したとしても、たいていは内容を全部正確に記憶することはできない。だから、何度も通読が必要だ。また、仮に全部暗記できて、それをいつでも取り出せる状態にした特別な頭脳の持ち主がいるとする。その人は通読が一度で良いか?いいや、良くない。全部を完全に覚えられたとしても、記憶は古びる。つまり、取り出そうと思えば取り出せたとしても、なかなか取り出さず、御言葉にほこりがかぶったような状態になったら、結局は生活の中でなかなか生かされていかないということだ。御言葉はいつも親しんでこそ、生きて私たちの内に働く。聖書を通読することは、それ自体一種の神様との交わりだ。神様が私の人生に働かれる土台となる。御言葉に親しむことは、祈りが答えられることにもつながる。ヨハネ15:7。5万回祈りが答えられたジョージ・ミュラーは生涯で聖書を200回通読した。御言葉の人が祈りの人としても用いられる。飽きずに読み続けよう。通読をし続けよう。

第四に、体のトレーニングをする。Ⅰテモテ4:8。体を鍛えることは、「多少は役に立つ」としか書いていない。でも、多少なりとも役に立つことなら、身に付ければよいのではないか。これは特に文明利器に囲まれて、体を動かさなくても普通に生きていくことができてしまう現代人に必要なことだ。聖書が書かれたときは、特別鍛えなくてもみんな普通に生活するだけで鍛えられていた。イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところもない」と言われた。過酷な宣教の生活を送っていた。どうしてイエス様はそんな生活を耐え抜くことができただろうか?一因としては大工として鍛え上げられた肉体を持っていたからだろう。イエス様がしていた大工という仕事は、材料があれば住宅の屋根、製油所、家具、荷馬車、戦車の車輪、船、水車、木製の扉など、加工してどんなものでも仕上げることができる職人だった。そんな仕事をしているイエス様が貧相な体格をしていたわけがない。多くの宗教画は真実なイエス様を描いていないかもしれない。私たちが体を鍛えないことで体力がなかったら、主が私たちに体を使う御用を命じたくてもできなくなってしまう。
私たちもイエス様に倣って、体を鍛えて健全に保ち、主から体を使う御用を命じられたときに応じることができるようにしよう。Ⅰコリント3:16。体は神殿。大切にしよう。体の鍛え方は人それぞれだ。参考までに私は7年くらい前から、決まった筋トレを続けている。ターザンに書いてあったルーティーンだ。月曜日、スクワット12回を3セット、火曜日に腕立て12回を3セット、水曜日に腹筋12回を3セット。木から土は同じサイクル。日曜日は休みだ。それに加えて、先月、万歩計つきの腕時計を手に入れた。有賀喜一先生が重病で死にかけたとき、医者から勧められたことのうちの一つとして「一日1万歩は最低歩きなさい」というものがある。有賀喜一先生はその勧めを守り、毎日必ず1万歩歩いた。そのお陰もあって、今は91歳だが、現役の牧師、伝道者として用いられ続けている。体を鍛えて、広く長く用いられる者になろう。

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