惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、
惜しまず豊かに蒔く人は刈り入れも豊かなのです。
献金は種である[Ⅱコリント9章]
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【ノート】
8章は献金の動機付けについて主に扱われた。そして、パウロは、献金に関して、テトスと二人の会計監査のための兄弟をコリント教会に派遣するというところまで書かれている。しかし、彼らと共にパウロ自身とマケドニア州の兄弟たちが全員一緒に行くのではなく、テトスたちは先遣隊として派遣されることになる。9章は、テトスたちが先遣隊として行く理由と献金についての豊かな約束について扱われている。どれだけ多くの動機付けが与えられたとしても、実際にささげるとなると惜しむ心が出てくることがある。お金であれ、時間であれ、労力であれ、惜しまずにささげることを可能にさせるのは、御言葉の約束だ。何の約束も報酬もなしに、とにかく善いことをするというのは信仰者の生き方ではない。神様は私たちに報いを約束してくださっている。だから、私たちの方も、本気で報いを信じてささげるのだ。ある意味臆面もなく実利的になるのが信仰だ。
1節。8章と同じく1節でもやはり献金のことを「聖なる者たちへの奉仕」としている。献金は奉仕だ。ただ、ある人は時間を多くささげ、ある人はお金を多くささげるというふうに、ささげ方に違いがあるだけだ。
そして、聖なる者たちに献金しようということについて「これ以上書く必要がない」という。なぜなら、書簡で長々と説得するというより、後はテトスたちが直接その役割を担うからだ。手紙よりも電話、電話よりも対面での話の方が、より通じ合える。通信手段が発達した現代でも、直接会って対面で話すコミュニケーションに最も価値があることを忘れてはならない。今やこの礼拝を含め、インターネットで参加したり、過去の礼拝メッセージのアーカイブを聞いたりすることが容易になっている。それは感謝なことだ。私も数えきれないほどその恩恵を受けてきた。しかし、それと同時にこの場に居合わせた方が恵みをキャッチしやすいことは間違いない。もし時間や距離の制約が大きくない場合は、つまり簡単にそうすることが可能であれば、礼拝は現地で直接参加しよう。それは家で、インターネットで手軽に参加するよりは犠牲を伴うが、礼拝のように貴いことにはあえて犠牲を払うことで、その貴さを表すことが大事だ。それがささげるということだ。そうすれば、それだけ深くコミットすることができる。自分の中で得られるものも確実に大きくなる。
2-4節。アカイア州の中にはコリントも含まれる。8章では、パウロはコリント教会に対して「マケドニア州の諸教会がどれだけ熱心にささげたか」ということを書いて献金をささげることをすすめた。この箇所では、マケドニア州の諸教会に対しては逆に「コリント教会ではもうすでに献金の準備ができている」と言って人々を奮い立たせたことがわかる。どちらの教会に対しても「あの優れた教会を見習いなさい」と言って心を燃え立たせるようにしたのだ。しかし、パウロはコリント教会について「去年から準備ができている」と預言的に宣言した内容が正確かどうか、不安を抱いていた。そこで、テトスたちを先遣隊にしたのだ。何だか人間的に思えて、こんなやり方でよいのかと思うかもしれない。良いのだ。これは聖書だ。これについて学ぶべき優れた点を3つ挙げる。
第一に、良い動機での競争は積極的に行おう。パウロは第一の手紙でも、信仰は競争だと書いている。Ⅰコリント9:24。イエス様は「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われた。信仰者同士の中でその進歩の度合い、天の報いをどれだけいただけるかについて競争があり、抜きつ抜かれつするということだ。
競争は競う相手がいてこそ成立するものだ。もし一人だけのトラック競技で、ゴールすればみんな金メダルがとれるなら、全力を尽くす必要はあるか?全くない。失格になりさえしなければ、金メダルをもらえるので、最低限の力で走ればよいということになる。力を尽くさない。他の兄弟姉妹、他の教会があってこそ、競争は成立する。全力を出せる。クリスチャンは互いに良き仲間であり、それと同時に良きライバルでもあるのだ。信仰友人同士、相手がディボーションで御言葉を悟って実を結んでいたら、私も相手に見倣って御言葉を悟って実を結ぼうとする。私が伝道で人々の救いに用いられたら、相手も私に見倣って伝道で用いられようとする。そうやって切磋琢磨するのだ。もちろん、相手を押しのけて勝つというような競争ではない。これは愛の競争だ。競争相手をどれだけ愛することができるかということまでが競技に含まれている。この競争で切磋琢磨して一等賞を目指す者になろう。アーメン。
第二に、どこに行ってもその場にいない他の教会やクリスチャンについてほめよう。マケドニア州の諸教会に対して、パウロは、コリント教会で発生していた様々な問題について批判しなかった。むしろパウロは彼らがどれだけ優れているのかということを、確かな事実だけでなく預言も交えながら話した。どこの教会に対しても、他の教会については欠点や弱点をあげつらうことなく、称賛に値することを引き合いに出した。本人が聞いていないところでその人の欠点や弱点を挙げても、それを矯正する効果はないのだから、ただひたすら相手の評判を損ねる卑怯な陰口になってしまう。さらには、その陰口を聞く人全員を共犯にしてしまい、汚してしまうことになる。しかし、本人が聞いていないところでその人の優れた点を挙げるならば、聞いているすべての人を奮い立たせる。その優れた点についての言葉は預言として働き、話題にされている本人も語る人も聞く人も、全員祝福されてその優れた性質を受け取ることができるようにする。ほめまくろう。
第三に、信仰の冒険にセーフティーネットを張ることは間違いではない。パウロは信仰によってコリント教会の優れた点をマケドニア州の諸教会に語ったが、そのことが万一その通りでなかった場合に恥をかかないようにする目的で先遣隊を送った。信仰を働かせるとき、リスクはつきものだ。信じた通りにならないリスクがたいていつきまとうものだ。それは甘んじて受け取り、それでも行動を起こすのが信仰だ。しかし、その内容が多くの人々を巻き込んでおり、その通りにならない場合のリスクが大きいなら、そして、リスクを最小限に抑える手段を容易に講じることができるなら、そうするのは間違いではない。妥協ではない。
5-10節。献金について、惜しまずに差し出すということが強調されている。しぶしぶささげるのでも、全くささげないのでもなく、惜しまずささげるために説得するのだ。なぜなら、しぶしぶささげても、けちって全くささげなくても、どちらも祝福されないからだ。では、しぶしぶささげることと、けちって全くささげないことの2つだとどちらがマシだろうか?もし、嫌で嫌で仕方ないのに、無理にささげることでつまずきになるくらいならささげない方が良いだろう。献金は基本的に自由でなければならない。惜しまずにささげるためにも、献金についての約束を伴う教えが語られることが重要だ。そして、ここで語られている献金の約束は惜しまずにささげる人だけが体験できる。同じ金額をささげても、惜しむ人は嫌な思いをするだけでなく祝福されない、惜しまずささげる人は祝福される。それであれば、惜しまずささげる者になろう。
献金の約束の内容は、献金は種であるということだ。もしかしたら今まで献金をささげても祝福を実感できなかったかもしれない。それはこの真理を悟っていなかったからであろう。献金が種であるという真理を悟ってささげるときに、祝福がやってくる。種の特徴は何か?ここでの種は麦の種子だろう。まかずにそのまま食べてしまうこともできる。そうしたら失われる。しかし、まけば増える。農家は、種子をまけばまくほど収穫できると知っている。だから、惜しまずまく。農家が種子を惜しんで少ししかまかないということがあるだろうか?ありえないことだ。逆に少ししか蒔かなかったらもったいないので、その土地の面積でゆるされる限り豊かにまく。献金が種だということを知っていたら、惜しんでわずかしかまかないのは有り得ない。惜しみなくまく。献金は種である。豊かにささげれば、豊かな収穫がある。
「でも、豊かにまいたら生活に支障が出ないだろうか?自分が食べていく分がなくなってしまうのではないか?」と心配する人がいるだろうか?10節をみると「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は」と書いてある。神様は二つのものを与えてくださっている。種と糧だ。つまり、蒔くための種とは別に、食べていくための糧も与えられているということだ。私たちはただ種として与えられている分を蒔けばよい。生活の余剰の部分、神様がささげるように示されている部分だ。残りの糧で、十分に生きていける。
それでは、どうやってどこからが種でどこからが糧だとわかるのか?7節では「こうしようと心に決めたとおりにしなさい」とある。「こうしよう」と心に決めようとする中で、私たちの心に主が働いてくださり、具体的にささげる分量を教えてくださるということだ。もう一つの目安としては、少なくともトータルで収入の十分の一は神様にささげることは御心だ。十分の一は律法であって、今は廃止されているというのは嘘だ。アブラハムがメルキゼデクに十分の一をささげたのは、律法が与えられる前だ。そして、アブラハムは私たちの信仰の父であり、模範とすべき人物だ。アブラハムがメルキゼデクにささげたように、クリスチャンはメルキゼデクと同じような大祭司であるイエス・キリストに十分の一をささげるのだ。
7節の喜んで与える人を神は愛するとはどういうことだろうか?与えない人は愛していないのか?もちろん、そんなことはない。ローマ5:8。罪人であった時、つまり未信者だった時、献金も礼拝も一度もささげなかったときすら、神は愛してくださっていた。これは、喜んで与える人を、他の人よりも愛し、特別に祝福してくださる、豊かな刈り入れができるようにしてくださるということだ。
ところで、ここでいう種をまくことによって期待できる刈り入れとはいったい何か?具体的に何が得られるのか?種は、何の種を蒔くかによって何を刈り入れることができるかが決まる。麦の種子を蒔いたら麦の穂を刈り入れられるし、りんごの種を蒔いたらりんごの木を収穫できる。では、献金を種として蒔く時、何が収穫できるのか?
第一に、経済的祝福を収穫できる。献金はお金だから、お金を蒔けば、お金を刈り入れられる。お金を刈り入れるというと借金をするようだが、お金を収穫できる、得られるということだ。私もその祝福にあずかったと思う。私は28歳の時に使徒パウロのように働きながら宣教をする道を志して、未経験ながらITエンジニアの道に進むことを決めた。最初横浜でSEの仕事を始めたときと今と比べると給料は倍くらい上がっている。
仕事量はというと、最初の職場が一番忙しくて、今が一番忙しくない。コストパフォーマンスとしては10倍以上上がっているだろう。その祝福があり、週5で働きながらでも、何の問題も感じることなく、伝道牧会ができる状態だ。去年、ある兄弟から、「私もITエンジニアをしているけども、忙しくて伝道ができない。どうすればできるのか?」と聞かれたことがある。それを聞いて、自分は本当に経済的に祝福されているのだと知った。イエスの証しは預言の霊なので知ってほしい。働かなければならないからという理由で伝道牧会の道をあきらめないでほしい。無限の富をお持ちの神様の御前では、お金は何かをあきらめる理由にはならない。この証しを聞いたあなたも、働きながらでも伝道牧会をする志さえ神様から与えられていたら必ずすることができる。
第二に、義の実を豊かに収穫できる。新共同訳では慈しみの実となっているが、直訳では義の実だ。ここでいう義とは、積極的な善良さ、優しさ、慈愛と言った意味だ。つまり、献金をささげるとき、私たちはただお金を蒔くのではなく、それをしようとする上で発揮される義の性質をも同時に蒔くのだ。すると、私たちは義の実を豊かに収穫できる。つまり、義の性質において成長できる。
第三に、教会を通しての祝福を収穫できる。どういうことか?霊の世界においては、何を蒔くかということも去ることながら、どこに蒔くかが大事だ。イエス様は「天に富を積みなさい」と言われた。ガラテヤ6:8。どちらも何を蒔くかではなく、どこに蒔くかが結果を左右することを教えている。教会に蒔くなら、その教会の霊的な祝福に豊かにあずかることができる。その教会が持つ賜物や務めや霊性にあずかれるのだ。
豊かなに刈り入れたいか?それであれば、豊かな蒔くものになろう。献金を種として惜しまずささげるものになろう。
11-15節。祝福の循環構造を見出すことができる。11節の「あなたがたはすべてのことに富む者とされて」は、神からコリント教会への祝福であり、「惜しまず施すようになり」はコリント教会からエルサレム教会への祝福であり、「その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します」はエルサレム教会から神への感謝だ。祝福は人から神への場合は、感謝や賛美という言葉に置き換えられる。12節の「奉仕の働き」はコリント教会からエルサレム教会への祝福であり、「神に対する多くの感謝」はエルサレム教会から神への感謝だ。13節の「神をほめたたえます」もエルサレム教会から神への賛美。14節の「あなたがたのために祈るのです」もエルサレム教会から神への祈りだ。そこで終わりだろうか?いや、神はその感謝、賛美、祈りを聞いて、コリント教会をさらに祝福する。こうして終わりのない祝福の好循環が続く。最後の総括として15節で「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」として、締めくくられている。ただ、お金が右から左に移動することではないのだ。神、自分、隣人、すべての関係者にWin-Win-Winをもたらすのだ。
ささげなかったら、何も起こらない。惜しまずささげると、終わりのない祝福の好循環の中に入ることができる。惜しまずに、これは種であるという信仰を持って献金を豊かにささげよう。アーメン。
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