信頼関係の確認ができた後、パウロは献金について話し始めます。
献金にはどのような意義があるのでしょうか?
献金の意義と、ささげる動機付けを確認していきましょう。
進んで献金をささげる[Ⅱコリント8章]
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【ノート】
エルサレム教会はすべての教会の母教会であり、すべての教会が負うところのある教会だ。そのエルサレム教会のクリスチャンたちは地震や飢饉によって彼らは経済的危機に陥っていたので献金を送るプロジェクトが進められていた。使徒11:28-30。日本でいえば、震災の時に被災した教会に物資や資金を援助するようなものだ。前回までの1-7章までは、コリントの信徒たちとの信頼関係の確認であり、8-9章はエルサレムのクリスチャンたちを援助するための献金だ。信頼関係が確認できて初めて献金の話ができる。教会や牧師は乞食のように初めて来た人たちにまで献金をささげるようにせっついてはならない。しかし、献金の意義を教えることは常に有益なことだ。あなたは献金にどのような意義を見出しているか?今日の御言葉を通して、献金について新たな悟りが与えられて、ますます豊かな実が結ばれると信じる。8章では特に様々な献金についての動機付けを見ることができる。
1-5節はマケドニア州の諸教会の例について。優れた身近な実例を挙げることで、「私もそれに倣おう」という思いを与え、モチベーションを高めるのだ。献金の動機付けの第一は、惜しまずに献げた他の人たちに倣おう。マケドニアにあった教会といえば、使徒言行録を見ると少なくとも、フィリピ、テサロニケ、べレアだ。いずれの場所でも強い反対に遭ったが短期間で豊かに実が結ばれた教会だった。どうしてだろうか?試練を乗り越えると、クリスチャンの信仰は堅固なものになるからだ。Ⅰペトロ1:7。今何かしらの試練に遭っている人がいれば、それを乗り越えたとき、精錬された金よりもはるかに貴い磨き上げられた純度の高い信仰になることができるチャンスだ。そのことを期待しよう。彼らのすばらしい信仰は献金をする姿勢にすら現れていた。
1節。パウロは献金を語るにあたって「神の恵み」と語っている。献金を豊かにささげられるということは、神の恵みなのだ。それだけ、世やお金に対する執着を捨てて、神から神と隣人を愛する心、御国を思う心、献身の心、御体である他のクリスチャンや教会を思う心を与えられているということなのだ。恵みを受け取れば、私たちは惜しまず献げることができるようになる。
2節。マケドニアの諸教会は激しい試練にあっていたにもかかわらず、惜しまず献げた。それは満ち満ちた喜びと極度の貧しさによる。まず、満ち満ちた喜びだが、キリストを信じて罪から救われた者は、重荷や罪から解放された喜びを持つ。イエス様は「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」と言われた。迫害者もその他のどんな試練もそれを奪えない。その人は、自分がどんな状態であったとしても、救いの喜びがあるので、いつでも他の人のことを心配して思いやる余裕を持つことができる。次に極度の貧しさとある。マケドニアの諸教会も決して豊かではなかったが、惜しまず豊かに献げた。お金をたくさん持っている人が惜しまず施しをできるとは限らない。むしろ、貧しさを知っている人が、同じ貧しい人を憐れみ、惜しみなく施しができるのだ。
3-5節で彼らの献金の優れた特徴を見出すことができる。第一に、経済力以上に献げた。3節でいう力とは経済力のことだ。経済力に応じて献げるとすれば、このくらいの収入があればこのくらい献げるのが妥当だろうと誰もが納得する程度だ。経済力以上ということは、「こんなに献げたら生活は大丈夫か」と心配してしまいそうな程度を、マナをふらせて養ってくださる神様に対する信仰によって向こう見ずに献げてしまうということだ。
第二に、進んで献げることを願った。集会で献金の時間がなかったら献げることはないとか、言われたから仕方なく献げたのではなかった。積極的に「ぜひ献金させてほしい」と献げることを熱望した。4節では新共同訳だとわかりにくいでは、原語のギリシャ語では交わりにあたるコイノニアという言葉が使われている。マケドニアの諸教会が献金をささげることを熱望したのは、献金が経済を共有するということで一種の交わりだからだ。献金をするとき、教会の交わりに深く根を下ろすことになる。より強固なつながりができるようになる。進んで献げることが大事なので、私も、マケドニアの諸教会のようにしなければならないというのではない。彼らは神の恵みで喜んで献げたのだから、私たちは神の恵みを信仰で受け取れば自然とこのように献げるようになればよい。
第三に、期待以上に御心に沿って献身の表現として献げた。パウロはそこまでたくさん献げることをマケドニアの諸教会に期待しなかった。これは、賢明なことだ。人は、人に対してそこまで大きな期待を抱かない。期待しすぎるのは相手に酷だ。牧師は「財産を全部献げないかな」などと期待すべきではない。しかし、神様が私たちに求めることというのは半端なことは一切ない。私たちは神の御心を心とするとき、必然的に人の期待以上を献げることに直結する。そして、大きな献金は献身でもある。お金は自分が長い時間働いて、節約して獲得してきたものだ。その多大な時間や労力をもって得たお金を献金するということは、人生の一部を献げるという意味で献身なのだ。また、4節では、献金のことを奉仕と書いてある。何らかの事情により教会で十分に奉仕の働きができず、十分の一だけをやっているという人は、後ろめたく思う必要はない。実は、真心から献げる献金も奉仕だ。その献金により、集会場に集まることができ、牧師の生活が成り立ち、必要な備品を購入し、御国を拡張していくことができるのだから、献金は立派な奉仕だ。
6-15節。献金の動機付けの第二に、始めたからにはやり遂げなさい。6,10-11節。エルサレムの貧しい人々を援助するための献金については、実は第一の手紙ですでに話題に上がっていた。コリントの信徒たちはすでに何らかのアクションを起こしていたが、おそらく教会のごたごたを収拾するにあたって、後回しになってしまい、完遂できていなかったのだ。教会の問題がひと段落した今、ようやく落ち着いてこのプロジェクトに取り組める。私たちは、自分の問題を解決することで、他の人を助ける上でも用いられる準備が整うのだ。教会の中、あるいは個人の生活で、昔立ち上げたけれども、中途半端なところで中断してしまっているプロジェクトはないか?緊急で取り組まなければならない課題に終われて、脇に追いやられてしまっていたことはないか?それがどのような御言葉や情熱を持って始めたものなのか、思い出そう。もし、今状況が改善されていて、本腰を入れて取り組めるのであれば、それが神にも人にも喜ばれることであれば、再開しようではないか。11節にある通り、それは「益」になる。どさくさに紛れてお蔵入りにしてはならない。献金について言えば、「このくらい献げよう」と一度決めたことがあるなら、途中で「やっぱりやめた」と態度を翻してしまうことなく、最後までやり遂げることだ。始めたことはやり遂げよう。決めたことは実行しよう。
献金の動機付けの第三に、すべての点で豊かなのだから献げなさい。7-9節。豊かにされているのだから、豊かに与えなさいということだ。特に何を通して豊かにされているのか?第一に、教会を通してだ。7節の「信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、私たちから受ける愛」というのは、教会の交わりを通して、神様が与えてくださったことだ。私たちは皆教会を通して恩恵を受けている。神様のすべての御業は教会を通してなされる。だから、救いの恵みにあずかった者は、自分が豊かにされた分、進んで教会に仕え、建て上げていく責任がある。
第二に、キリストを通してあなたは豊かにされている。9節を見ると、私たちがどの程度豊かにされているかに気づかされる。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」とある。キリストの位置と私たちの位置の交換がなされているのに気づく。これは贖いだ。経済的祝福を含むあらゆる祝福はキリストの十字架の贖いを通してもたらされる。キリストの豊かさはどの程度だろうか?キリストは神に等しいお方であり、天国全体を相続する権利を持つ神の独り子だ。すべてのものを所有するほどの豊かさだ。それが、十字架の贖いを通して私のものになる。このことを悟るときにその祝福が流れてくる。そして、キリストによって豊かさにされた者は、その豊かさを独り占めにはしない。キリストと同じことをする。キリストがそうなさったように、人々に分け与える。豊かに受けている者として豊かにささげよう。
献金の動機付けの第四に、持っているものに応じて神に受け入れられる。12節。金額の問題ではないということ。「これしか献げられないなら、喜ばれないのではないか、意味がないのではないか」と思う必要はない。イエス様がやもめのわずかな献金を「誰よりもたくさん献げた」と言われたように、神様は献げる人の心と経済力をご覧になって判断してくださる。貧しい人や子供が貯金箱にこつこつためた小銭を献げることは、神様の御目にとって貴い。額が少なくても、持っている分に応じて献げるなら、あなたの献金は喜びをもって神様に受け入れられている。
献金の動機付けの第五に、つり合いが取れるようになる。13-15節。誰かに資金援助をするということになると、人によっては、「私は一生懸命働いて稼いだのに、彼らは何もしないでお金を得られるというのは不公平なのではないか」と不平を鳴らしたくなる心が出てくることがある。パウロはそういうことはないという。一方的にどちらかが受け取り、どちらかが与えるというのではなく、助け合いなのだと、ギブアンドテイクなのだという。いつか自分が困ったときに、援助した人たちが助けてくれるかもしれない。しかし、たとえそうでなくても、援助をすることは常に有益だ。イエス様は貧しくてお返しができない人を食事に招きなさいと言われた。天の報いを豊かに得るためだ。また、私たちがした善いことは全部神様が覚えていてくださる。援助した相手から何も助けてもらうことがなかったとしても、神様は別の方法で豊かに施す者を助けてくださるものだ。パウロが引用している箇所からもそのことがわかる。これは、出エジプト記16章の引用で、マナが降ったときに起こったことだ。ここから二つのことがわかる。まず、マナを降らせてすべての人を養ってくださるのは神様だ。「私が一生懸命働いた」ということよりも、神様が恵みによりマナふらせて生きていけるようにしてくださっているのだ。次に、釣り合いを与えてくださるのも神様だ。援助をした者には、神様は何等かの方法でその人に必要が生じたときに返ってくるようにしてくださる。
16-23節。献金の動機付けの第六に、献金について後ろ暗いところは何一つない。パウロを批判する人々の中には、「パウロは貧しい人々のために献金を集めておきながら自分で使う気だ」とあらぬ横領疑惑をかける人々がいたことは想像にかたくない。そこで、パウロは献金について、監査役を二人設置した。パウロの思いは21節に集約されている。「主の前だけでなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。」
パウロは壮大な教理を説いたり大きなビジョンをかかげたりするだけでなく、お金の管理といった小さなことに至るまでぬかりなくしていた。これは非常に賢明なことであり、どの教会でも必ず心掛けるべきことだ。「献金が適切に使われていないかもしれない」という疑いが少しでもあれば、献げることにためらいが出るだろう。そういういらない懸念をしなくてもよいように、献金がしっかりと管理されていることを内外に示すのだ。また、そういう疑惑が全然生じていなかったとしても、大金が集まれば、誠実な人間に対しても誘惑になる。教会で献金が私的に使われていたことが明るみになり、多くの人々をつまずかせるということは時々耳にする話だ。私は、パウロと同じように、献金について後ろくらいところが全くないと断言できる。ミニストリーについての会計報告書を作成して好評しているし、どんな用途で使ったか、すべて過去の記録が残っているので、何か聞かれたときには細かく説明することができる。献金の用途として、自分の教会のことだけではなく、高額ではないものの他の教会を助けるために使ったり、貧しい人や困った状況の人を助けることのために使ったりことがある。お金のことで足元をすくわれないように、人の前で公明正大にふるまうように心がけよう。
24節。献金の動機付けの第七に、献金は愛の証しである。これは8節でも言及されている。賛美や祈りで「イエス様を愛する」と連呼することはすばらしいことだが、その人が本当に愛しているかはそれだけではわからない。愛は単なる言葉ではない。Ⅰヨハネ3:18にもそう書いてある。愛には証しとなる何かが必要だ。その点、キリストは私たちの愛の証しとして十字架の傷を見せてくださる。「私はあなたのために命を捨てた。この傷があなたへの愛の証しだ」と。では、私たちは何をもってキリストやキリストの教会への愛の証しとすることができるだろうか。経済を献げることは最もわかりやすい愛の証しの一つだ。献金をもってキリストとキリストの御体なる教会に対する愛と感謝を表す者となろう。
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