気落ちした者を力づけてくださる神は、人が語る良い知らせによって慰めてくださいます。
気落ちした者を力づけてくださる神[Ⅱコリント7:2-16]
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【ノート】
2節。6章11-13節で、使徒パウロは「私たちは率直に語り、心を広く開いたからあなたがたも心を開いてください」と頼んだ。ここで再び、「心を開いてください」と頼んでいる。もし、使徒パウロが何かコリントの信徒たちに害を与えていたのなら、コリントの信徒たちが警戒して心を閉ざすのは当然である。しかし、そんなことは全くなく、パウロはコリントの信徒たちの益となる活動ばかりしていたので、コリントの信徒たちはパウロに対して心を開いてしかるべきだった。時々、クリスチャンとして目指すところを間違えてしまう人がいる。学べば学ぶほど、心を狭くしてしまう人がいる。自分の知識や賜物を鼻にかけて、それが不十分な人々を馬鹿にする人がいる。ある特定の教えに対して強いこだわりを持ちすぎて、その教えを同じように受け入れていない人は認められないという人がいる。御言葉を自分ではなく、他人に適用して、裁きまくる人がいる。異端やカルトを警戒しすぎるあまり、まさに自分が異端的やカルト的になってしまい、自分のグループ以外のすべてを否定してしまう人がいる。御言葉を杓子定規に行うことについて神経質になり、気難しくなってしまう人がいる。
私たちは、クリスチャンとして目指すところを間違ってはならない。常に愛がモチベーションであり、ゴールでなければならない。信仰が強くなり、霊的に成熟すればするほど、クリスチャンはどんどんフランクになる。イエス様のようにフランクになる。イエス様は大きな器を持ち、心を開いて、誰でも受け入れた。ユダヤ人社会全体から白い目で見られていた徴税人、罪人、売春婦、悪霊に取りつかれておかしくなっている人、サマリア人、その他の異邦人であろうとも、イエス様のもとに来る人々をイエス様が拒むことは決してなかった。あなたのことも、イエス様は決して拒まない。ヨハネ6:37。
3-4節。パウロは苦難の中にあっても、コリントの信徒たちゆえに慰めと喜びに満ち溢れているという。家族の中での人間関係こそが人生を左右する最重要事項だということがわかる。交わりによる慰めと喜びだ。クリスチャンは、神の家族である教会の交わりで満ち足りていたら、教会の外でどんなに激しい迫害にさらされても平気でいられることができる。同じように、人が家庭で幸せであれば、家の外でどんな困難にぶつかってもくじけない。家族との関係がその外でのあらゆる困難を帳消しにしてあまりある祝福をもたらすのだ。それだけに、使徒パウロは何としても、コリントの信徒たちとの関係を改善したかった。まだギクシャクしていたので、互いに心開き、通じ合うことができる関係に戻したかった。そして、キリストにあって、私たちはクリスチャン同士の関係を回復することが可能である。
5-7節。この箇所は2:13からつながってくる。パウロは、コリントの信徒たちが深刻な罪の中にあり、パウロに対しては反対運動を起こしていたので、彼らを悔い改めさせ、パウロと和解できるようにするために、テトスを派遣した。パウロはトロアスでの働きがうまくいっていたが、コリントの信徒たちに対する心配で仕方なかった。派遣したテトスはなかなか戻ってこない。そこで、テトスといち早く合流するため、マケドニア州に移動したところだった。
5節に「全く安らぎ」がなかったとあり、「内には恐れ」があったのは、コリントの信徒たちとの紛争のためだ。家族との祝福された人間関係が人生の幸福のすべてを占めてしまうという話を先ほどしたが、逆に家族との紛争状態は、人生を暗澹たるものにしてしまいうる。それはおいしいものを食べたり、趣味活動の気晴らしをしたりすれば忘れられるものではない。アクションを起こさなければならない。マタイ5:23-26。
和解は礼拝よりも優先され、一秒でも早く実現するように努力を尽くせという命令だ。パウロはコリントの信徒たちとの和解のために最善を尽くした。祈った。手紙を書いた。派遣した。あなたは、和解しなければならない人は誰かいるか?そのために最善を尽くしているか?まだできることがあるならば、アクションを起こそう。
アクションを起こしたらどうなるのか?気持ちした者を力づけてくださる神が、慰めてくださることを期待できる。パウロは、気落ちしていた。コリントの信徒たちが必ず悔い改めるという確信に満ちた信仰を抱くことができずにいたのだ。常に、あらゆることに確信に満ちた信仰を持つことができたらどんなに良いだろうか?パウロすら確信を持てなかったことがあった。そして、神様は普通信仰によって働かれるお方だ。それでは、確信のないパウロの信仰でも、神様が働いてくださったのはなぜか?神様の憐れみによってである。神様は、気落ちした者を力づけてくださる憐み深いお方だ。御自分にある者が気落ちしたままでいることに耐えられない。神様は憐れみ、慰め、力づけてくださる。
特に気落ちしながらも神様に従おうとする者に対して神様は働いてくださる。神様は人の従順の中に信仰を見出される。パウロは罪を犯した者を訓戒することや仲違いした者と和解することが神様の御心であると知っていた。そこで、パウロは信仰によって神様に従順した。ローマ16:26には、福音は人を信仰による従順に導くと書いてある。私たちが神様の御言葉に従順するとき、そこでは、必ず信仰が発揮されている。信仰なしに従順することはありえない。神様が必ず働いてくださると確信に満ち溢れていたい!あなたは確信を持つことができる。しかし、たとえそうでなかったとしても、どこか半信半疑の部分、恐れを感じてしまう部分、気落ちしてしまうところがあったとしても、あなたの従順に神様は信仰を見出す。心が騒ぐところがあったって大丈夫だ!感情に主導権をにぎらせてはならない。感情は、最後についてくるもの。御言葉への信仰によって従順しよう。
それでは、何によって神様は慰めをお与えになったか?テトスと到着とテトスを通して聞いたコリントの信徒たちが悔い改めたという良い知らせによってだ。つまり、私たちはたとえ気落ちしていたとしても、人から良い知らせを聞くときに、神様からの力づけと慰めを受けられるのだ。最高の良い知らせは、新約聖書に満ちている福音だ。気落ちしてしまい、神様から力づけられたいときは、教会で福音のメッセージを聞こう。教会に行くまで耐えられない?それでは、YouTubeで、このチャンネルで聞こう。神様がテトスを通してパウロを力づけたように、私を通してあなたを力づける。さらには、自分の口で、良い知らせを声高に宣言しよう。気落ちさせる声は誰が語っているのか?悪魔だ。悪魔の嘘が心の中で垂れ流しになっているときに、私たちは黙っていてはならない。大声で宣言しよう。「私は神の子である。私は神の子である。私は神の子である。神の子は鬱になることができない。神の子は気落ちすることができない。万事が益となるように働く。イエス・キリストの御名によって悪魔の嘘偽りを縛る。打ち砕かれよ。」すると、それまで否定的な思考でノックアウトされていたとしても、一瞬であなたは立ち上がり、歩き出すことができるようになる。
7節で、パウロは和解の喜びを語っている。だれしもあるだろう。何か悪いことをしたせいで、家族との間に緊張感がただよい、ギクシャクしたものになってしまう。その壁が取り除かれて、愛する者ともう一度一つになれたときは、重荷を解放されて、深い平安に包まれることになる。キリストにあって和解は常に可能だ。キリストによる贖い、赦し、和解は、神と人との関係を超えて、人と人の間にも流れる。
8-12節。新約聖書に載っている手紙がパウロ書簡のすべてではない。パウロはこれらの手紙以外にも多くの手紙を書いたが、それらは消失している。ここで言及されている手紙もおそらくは消失した手紙であり、通称「悲しみの手紙」であり、テトスによって届けられた。手紙の内容は、激しい調子でコリントの信徒たちの悔い改めを促すものだった。あまりの激しさに、送り主であるパウロ自身、それによってかえってコリントの信徒たちがつまずいてしまうのではないかと心配した。しかし、第一の手紙でも悔い改めなかったコリントの信徒たちには、悲しみの手紙以外の対処法はないように思われたので、書くしかなかった。悲しみの手紙が消失したのは良いことだろう。それが新約聖書に入っていたら多くの人がその激しい内容につまずいていただろう。新約聖書には私たちに必要なことが十分に書かれているので、外典や失われた内容が何だったのかと詮索しなくよい。悲しみの手紙は、悲しませるために書いたものではなく、あくまでも悔い改めさせるためだった。愛する者たちを誰があえて悲しませたいだろうか?ありえないことだ。趣味のように人を叱る人もいる。人にきつく言って快感を得るような人もいる。私たちが人を厳しく戒めるときがあるとすれば、相手以上に自分自身が心を痛めるけれども、愛する者の悔い改めのために他に道がないときだ。
確かに、コリントの信徒たちには悲しみをもたらしたが、それは神の御心に適った悲しみだという。ここでは、神の御心に適った悲しみと世の悲しみが対比されている。神の御心に適った悲しみは、罪を悲しみ、罪から救われるための悔い改めを生じさせる。悔い改めとは、心を変えることだ。それまでは、大して悪いことをしていないと思っていたところ、罪だとはっきり認識し、その罪を憎むようになった。心が変わったら行動も変わる。11節には「あなたがたはすべての点で潔白であることを証明しました」と書いてある。コリントの信徒たちは、罪がもたらした悲惨な状態を改善すべく全力を尽くすことによって、自分たちの悔い改めが本物であることを証明したのだ。
世の悲しみは、罪がばれてしまい、損害を被ったことを悲しむ。違反者は戒めや罰を受けて苦しんでいることについて悲しみ、相手を逆恨みする。何でばれてしまったのかと後悔する。そして、「今度はもっとばれないように巧妙にやろう」と決心し、それまでよりも一層頑なになる。その人はばれないと思ったら何度でも同じことをする。その人が信仰者であれば、場合によっては、こんなに苦しいなら苦しみから逃れるためにいっそのこと信仰を捨ててやろうとさえ思う。パウロはそうならないか心配していた。
同じ悲しみでも、全く違う。このことから、悔い改めの本質は悲しむという感情にはないことがわかる。とにかく涙を流せばよいというものではない。心が変わらなければ人は変わらない。私たちの悲しみは何の神の御心に適った悲しみか、世の悲しみか、どちらだろうか?懲らしめられたとき、私たちは、単に自分が罰せられて大変だということを悲しむのではなく、罪自体を悲しみ、憎み、退け、その罪から救われる悲しみを抱く者となろう。
13節で、パウロは、テトスがコリントの信徒たちから迎え入れられたことを、自分のことのように喜んでいる。自分の愛する者が、歓迎され、歓待されることは、自分自身がそうされる以上の喜びをもたらす。これは神様についても同じで、神様は神の子たちが互いに愛し合い、もてなされるときにこの上ない喜びを抱かれる。Ⅰペトロ4:9-10。喜んで人々を迎え入れ、もてなし、大きな喜びが天にも地にもあるようにしよう。
14節。「わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りました」とあり、「テトスの前で誇ったことも真実となった」とある。いったい何を誇ったのか?
コリントの信徒たちが悔い改め、罪がはびこる状況を正し、パウロ批判をやめるようになるということを誇ったに違いない。そして、誇ったことが真実になった。では、パウロがテトスにコリントの信徒たちのことを誇ったのは、実際にそのことが起こる前のことだろうか、それとも後のことだろうか。起こる前のことだ。まだ悔い改めておらず、教会に深刻な罪がはびこるのを放置していて、パウロ批判をやめていないときに、パウロはコリントの信徒たちのことを誇った。するとその通りになった。つまり、これは信仰によってした預言だということだ。預言をすると、その預言に対する信仰がわき上がり、成就に向かって物事が動くようになる。「どうせどうせ」というのはやめよう。言葉には力があるので、そういうからこそ、そうなってしまうかもしれない。現状にとどまるに違いないということに対して、私たちは信仰を必要としない。信仰は望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することだ。信仰に生きる私たちは常に預言しよう。他の人々のことを誇ろう。本人の聞いているところでもいないことでも誇ろう。自慢しよう。それがまだ起きていないことであっても、現状はその真逆に思えても、預言して誇ろう。そうすれば、その通りになる。アーメン。
最後に15-16節で、信頼できる喜びを語っている。それが会社であれ、サークルであれ、教会であれ、ある人がそのグループに完全に定着するかどうかはっきりと言えないときには、その人を全面的に信頼することはできない。大きなことをまかせたり、率直に物事を語ったりすることができない。いろいろと愛をもって気を配ってあげることが必要だ。それでも、離れてしまう人は必ずいるものだ。そういうとき心が痛い。では、どういうときにその人が完全にそのグループに定着し、離れないと言えるだろうか。その人に正面から厳しい指摘をしても、反発せずに聞き入れてくれたときだ。そういうときには、その人のことを全面的に信頼できる。決して切れることのない深い絆が感じられる。何でもまかせることができる。パウロはここでそういう喜びを味わっていた。私たちは信頼される側となり、指導者に喜びを与える者になろう。そして、人を建て上げて、信頼できる喜びをも味わう者となろう。アーメン。
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