人生の勝利の方程式

福音&主題メッセージ
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クリスチャンは皆、圧倒的な勝利者として召されています。

神様はそのための方程式を聖書の御言葉を通して、それを教えてくださっています。それは、人生のあらゆる問題に対する勝利の方程式です。それは、聖書の最も重要な主題である福音の中に見出すことができます。

人生の勝利の方程式


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【ノート】
方程式というと、普通数学に使うもので、変数を含む式のことだ。それだけでなく、方程式という言葉は俗語として、諸問題を解決する時に最も適切な方法という意味に転用して使われることもある。プロ野球では勝利の方程式というものがある。リードしている試合では、リードを最後まで守り切るために、定石の中継ぎ、抑えの投手を投入することを指す。そうすれば、たいてい勝てるのだ。しかし、野球の試合で、リードを守り切れるかどうかは、人生全体を左右するほどの重要なことではない。野球はあくまでもスポーツだ。もっと重要なことにおいて、確実に勝利する方程式はないのか?私たちの人生それ自体について、勝利者となるための方程式はないのか?ある!野球で勝つよりもずっと確度の高い人生の勝利の方程式がある。しかも、かろうじてリードを守る程度の勝利ではなく、圧倒的勝利だ。神様は聖書の御言葉を通して、それを教えてくださっている。それは、人生のあらゆる問題に対する勝利の方程式だ。それは、聖書の最も重要な主題である福音の中に見出すことができる。その方程式の中身を見ていきたい。とりあげる順番にも意味がある。

第一に、神様はクリスチャンを勝利者として召しておられる。Ⅰヨハネ5:4-5。「神から生まれた者は皆、世に打ち勝つ」と書いてある。ということは、クリスチャンは全員勝利者だ。でも、一部の難しい問題については負けてしまうことはありうるのではないのかと言う人もいるかもしれない。「私の問題は別だ。私の問題はここでいう勝利に含まれていない。」そんなことはない。ローマ8:35-39。私たちを打ち負かそうとするありとあらゆるものがここで言及されている。しかし、それでも、私たちは輝かしい勝利を収めている。ここでパウロは勝利と神の愛を結び付けている。神は私たちを愛するがゆえに、必ず輝かしい勝利を与えてくださるのだ。もし、神の愛よりも大きな問題が一つでもあれば、私たちは敗北しうる。そんなものはあるか?ありえない。神の愛は無限の広がりがあり、人知を超えるものだ。神は私たちの抱えるちっぽけな問題よりも常にはるかに大きな愛で私たちを包んでくださっている。聖霊様を通して、御言葉を通して、神の愛はいつも私たちの心に注がれる。勝利は確実なものとして約束されている。野球の勝利の方程式は崩れることがあれど、神による人生の勝利の方程式は常にゆるぎない。

第二に、神の義に立つ。神の義に立つ者は堅固な土台を持っているので、敵からどんな攻撃を受けても絶対に倒れない。イエス様を信じる者は、信仰によって義とされている。ガラテヤ2:16。義とは、何か?神と正しい関係を持つ上で要求される正しさのことだ。罪人は、神様との関係が断絶しており、交わりを持つことができない。神様と交わりを持つためには、神様に義と認めていただく必要があるが、人間はどんなに努力をしても、決して自分の力で義と認めていただくことはできない。しかし、イエス・キリストを信じるなら、その信仰によって、キリストの義が私たちに転嫁されて、私たちはキリストが正しいように完全に正しいもの、罪が一つもないものとみなされる。「でも、私の薄い信仰で義とされるだろうか?」と心配する人がいるかもしれない。実は問題になるのは私の信仰でありながら私の信仰ではない。この箇所は「イエス・キリストへの信仰」ではなく、「イエス・キリストの信仰」となっている。イエス・キリストを信じる者は、その人自身の信仰によって義とされるのではなく、イエス・キリストの完全無欠な信仰によって義とされる。信仰が薄くて問題になることはありえない。義とされているとは、行いとは切り離されるということだ。行いが到底義と言える状況でなくても、むしろ罪にまみれているようであっても、いやむしろそうだからこそ、義とされている。ローマ4:6-8。義とされているということは、罪に定められないということだ。ローマ8:1。
義とされているということは神の法廷で無罪判決がくだる。ローマ5:16。義とされているとは、無敵状態だということだ。ローマ8:31-34。さらに言えば、どのような罪を犯したことがあっても、どのような問題を抱えていても、どのような感情を持っていても、罪悪感に苛まれなくてよいということ。罪悪感は良いものではない。罪悪感を覚えると人は罪が罪であることを否定させたり、自己嫌悪に陥らせたり、すべてを投げ出してしまいたくなったり、あるいは開き直って罪にどっぷり浸かったりするようになる。罪悪感は人を縛るのだ。罪悪感を抱くと人はその罪と強固な結びつきを造ってしまう。罪悪感はあくまでも旧約のものだ。ヘブライ10:1-3。この箇所からは、いけにえは罪の自覚をなくすために献げるものでもあることがわかる。完全ないけにえが献げられたときには、罪の自覚が永遠になくなるはずだと書いてある。旧約のいけにえを献げても罪の自覚がなくならないのは、いけにえの不完全さを示している。イエス様は完全ないけにえだ。神に近づく者たちを完全な者にできる。ということは、イエス様の十字架の贖いの恵みにあずかり、義とされた者は、罪の自覚がなくてしかるべきだということだ。もうすべて赦されている。義とされているということは、もう呪いを背負う余地がないということだ。呪いは罪人にくだるものであって、義人には無関係だ。義とされているということは、完全に守られているということ。エフェソ6:13-17。主要な防具、正義の胸当て、信仰の大盾、救いの兜は、すべて信仰による義と結びついている。神の義に立つ限り、私たちはどんな攻撃を受けてもノーダメージだ。サタンは私たちにかすり傷一つ負わせることはできない。私たちはたとえ、恐れを抱いていたとしても、鬱だとしても、何度も同じ罪や失敗を繰り返したとしても、その他どんな問題を抱えていたとしても、義とされていて、罪に定められず、罪悪感に苛まれる必要がないことを感謝しよう。

第三に、神の子としてのアイデンティティーに立つ。これは問題の克服の核となる部分だ。私たちが自分のことを神の子であると認識し、神の子として権威をもって歩むようになると、問題に対して勝利できる。まず、私たちが神の子として歩む権威を持っているということを確認しよう。ヨハネ1:12。神の子としての権威が与えられているということは、イエス様のように歩めるということ。私が現在抱えている問題がイエス様に降りかかったら、イエス様だったら解決できるだろうか?必ず解決できる。それが罪の問題であれ、依存症の問題であれ、経済的問題であれ、病気であれ、トラウマであれ、その問題がイエス様にふりかかるや否や、問題の方が砕け散り、たちまち解決してしまうだろう。そして、私は神の子として、イエス様のように権威を持って歩めるのだ。そのことを悟った瞬間、問題はほとんど解決しているのだ。大丈夫だ。私たちは確実に問題に片付けることができる。癒しも悪霊の追い出しも、しるしや不思議を行うことも、聖なる生活をすることも、人間関係の回復も、全部、神の子としての権威をもって行うものだ。ローマ8:15-16。ここでいう神の子とするというのは、養子縁組に関する言葉が使われている。イエス様は神の実子、私たちは神の養子。養子縁組は、法律上の手続きを踏めばなることができる。そして、養子縁組の効力は今も昔も強力だ。当時のローマについて言えば、養子は実子なんら変わらない法律的な扱いを受けた。これはどういうことか?父なる神様は、私たちをイエス様と何ら変わらないものとして扱ってくださる。愛してくださり、御声を語ってくださり、権威を与えてくださり、用いてくださり、祝福してくださるということだ。このことを悟れば、その権威と取り扱いを体験できる。それを悟らせてくださるのが聖霊様だ。ただし、聖霊様はおひとりで証しするのではなく、私たちと霊と一緒になって証しすると書いてある。聖霊様と私、二人の証人の証言で神の子である事実は立証される。証しは声に出してするとよい。神の子であることを宣言しよう。そのとき、聖霊様もそれに呼応して語ってくださる。

第四に、問題を認識し、御前に告白する。このことは第一から第三までを踏まえていないと取り組めない。つまり、私たちはその問題によって罪に定められないことと問題を乗り越えられるということを知っていなければ、正面から問題に向き合うことができない。苦しいので、逃避に走ってしまうようになる。自分がそういう問題を抱えているということを否定したり、もうどうにでもなれと自暴自棄に陥ったりする。救いの恵みを悟って、初めて問題と向き合う準備が整う。使徒19:18-19。告白するとどうなる?Ⅰヨハネ1:9。告白するだけでよい。気をつけなければなら2ないのは、告白する内容は私たちのアイデンティティーではないということだ。それは一過性の行いであり、告白と共にその性質は私たちの内から消滅する。また、私たちは「もう二度としません」という誓いを繰り返す必要はない。ヘブライ10:11-14。では、どうやって問題を認識するか?御言葉を通して。聖霊様を通して。人を通して教えられる。

第五に、問題に適用する御言葉を思いめぐらす。御言葉の真理は、私たちに解放をもたらすからだ。ヨハネ8:31-32。Ⅱコリント10:4-6。すばらしいことに神様は私たちのあらゆる問題に対応する御言葉を聖書の中にちりばめておられる。その宝を見つけて、それを私の聖句として持つ。ヨシュア1:8。思いめぐらすとも訳すことができる。御言葉を思いめぐらし、口ずさむ。最近Ankiroidというアプリを使っている。

でも、自分一人ではこういう問題に取り組めないという方もいるだろう。だからこそ、兄弟姉妹がいる。ガラテヤ6:1。一緒に取り組んでいこう。一緒に勝利しよう!

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