聖霊を求める

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【ノート】
使徒1:8。力はデュナミス。ダイマナイトの語源になっている言葉。ダイナマイトが爆発すれば、どうなるか?その爆発音で誰もが気づく。威力を発揮する。聖霊様が働かれるときも同じように、人々が霊的な空気が振動したことに気づくし、人々を救いに導く上で威力を発揮する。使徒2:1-4。当人たちには、聖霊様の働きがはっきりと認識できた。激しい風、炎の舌、外国語が口から飛び出るという変化が起こったからだ。さらには、外国語によってエルサレムにいたほかの人々も変化に気づいた。ただ、「彼らは新しい酒に酔っているのだ」と言って嘲った人だけが鈍感だった。聖霊様の働きには、いつも反対する人がいる。私たちはこういう鈍感で、何でもかんでも批判する人にはなってはならない。そして、聖霊様は威力を発揮した。その日に成人男性だけで3千人がイエス・キリストを信じて救われた。聖霊様が働かれるとき、私たちが一生かけても達成できないことが一日でできる。こうして教会が誕生した。
クリスチャンであれば聖霊様をすでに受けている。しかし、これほどの聖霊様の力を体験する人は少ないのではないか。ぜひともこのような聖霊様の力を体験したいものだ。どうすれば、私たちは聖霊様の力を豊かに受けることができるのだろうか。その答えは聖書にある。聖書を通して、聖霊様の力を得るためのポイントを大きく3つお伝えする。

第一に、求めること。ルカ11:11-13。人間の足りない父親でさえ、自分の子供には良い物を与える。子供が求めたのはおもちゃやお菓子ではなく、生きていくのに必要な食べ物だ。そのくらいは大抵の人間の父親は与える。蛇やさそりという悪い物を与えることはない。蛇やさそりというのは、悪霊を表している。ましてや、天の父は神の子である私たちが求めるなら、聖霊様を豊かに与えてくださる。私たちは聖霊様を求める上で臆病になってはならない。私たちはこの点についてもっと御父に信頼すべきだ。悪霊の働きについてはものすごく強調するのに、聖霊様の働きについてはとたんに懐疑的になる人がいる。まるで聖霊様よりも悪霊の方が強いかのように。しかし、ヨハネの手紙第一4:5には、「あなたがたの内におられる方は世にいるものよりも強い」と書いてある。御父は自分の子供が求めれば、聖霊様を与えてくださる。
では、求めると一言で言うが、それはどういうことなのか?それは信仰によって祈り求めること。求めるというのは、普通、祈りによってすることをさす。口を開いて主なる神に祈ることもせずに十分に求めているということはできない。信仰の働かせ方がマルコ11:24に書いてある。一度祈ったら、すでに与えられたと信じて感謝の祈りをする。聖霊様の力が与えられたと感謝する。実際に結果がついてくるまで、感謝の祈りをする。そうすれば実際に結果がついてくる。

第二に、ささげること。求めるということは、ささげることなしでは真実なことではない。たとえば、「私はお金がほしいので、神様、お金をください。でも、大変なので仕事はしたくありません」という人がいるとする。主はそういう祈りには答えられない。なぜなら、御言葉は「働きたくない者は食べてはならない」と言っているから。働かないでお金だけ得ようとするのは、怠惰の罪だ。主はそのように罪深い欲求には答えられない。ヤコブ4:3。その人は求めているが、間違った動機で求めている。
聖霊様の力を求める人の中には、単に気分がよくなりたいからとか、とにかく大きな力を手に入れたいからといった理由で求める人がいる。それもまた間違った動機だ。お金を求めるということは仕事をするということに結びつくように、聖霊様の力を求めるのであれば聖霊様が望まれることに人生をささげていく覚悟がなければならない。つまり、聖霊様を悲しませる罪から離れて、聖霊様の力によって伝道をすることにささげていかなければならない。そこには犠牲が伴う。最初に聖霊様の力が与えられた弟子たちは、すべてを捨てて、イエス様に従った人々だった。彼らはささげたのだ。多くの人がささげたくないし、自分の今までの生活にとどまりたいと思っている。
それでは何も起こらない。その人たちは何も起こらない生活を望んでいるので、何も起こらないのだ。マタイ3:11-12。悔い改めを説いたバプテスマのヨハネは聖霊様を火のようなお方だと言っている。私たちは麦の殻のような罪を聖霊様に焼き尽くしていただこう。聖霊様に自分の人生を焼き尽くすささげものとしてささげていく者となろう。

第三に、聖霊様との交わりが生活で満ちるようにすること。聖霊様の力を求めた人の中に魔術師シモンという人がいる。彼はサマリアにいた魔術師で、フィリポから伝道をされて、水のバプテスマを受けた。一応、形式上はクリスチャンのように見える人だ。エルサレムの使徒たちのうち、ペトロとヨハネがサマリアに行き、水のバプテスマを受けた人々に聖霊のバプテスマを授けた。シモンはペトロとヨハネが持っていた賜物がほしくなった。使徒8:18-23。シモンは聖霊様の力を求めていた。それで、シモンはその賜物をお金で買おうとした。一応、お金をささげているわけだ。しかし、ペトロから返ってきた言葉は「この金はお前と一緒に地獄に落ちてしまえばよい」という厳しいものだった。
もし聖霊様の力をお金で買えるなら、お金の方が聖霊様よりも価値があるということになる。それは偶像崇拝だ。実際には最も価値があるのは、聖霊様御自身だ。聖霊様との人格的な交わりこそが、私たちが得られるところの最高のものだ。シモンは聖霊様の人格を無視していたので、お金で買えると思ってしまった。イエス様も私たちに与えられる最も良いものは、聖霊様だと言われた。聖霊様と力だとか、聖霊様の賜物だとか、聖霊様の実だとか言われず、最も良いものは聖霊様御自身なのだ。シモンが求めたように、私たちも聖霊様御自身を求めずに、聖霊様による現象だけを求めてしまう危険性がある。そして、場合によっては、聖霊様による現象だけを求めても、それが与えられることもある。その人は自分が救われていると勘違いする。それで、マタイ7:22-23で、「かの日には、大勢の者がわたしに、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではないか」と言うであろう。しかし、わたしはきっぱりとこう言おう。「あなたがたのことは全然知らない。不法を行う者ども、私から離れ去れ」。ここでの知るという言葉は原語のギリシア語ではギノスコー。体験して知るという意味の言葉。主はその人たちのことを全然知らなかった。その人たちは聖霊様による現象は体験していたけども、聖霊様を通しての交わりは全然体験していなかった。
もし、あなたの財布には関心があるけど、あなた自身には関心がないという人がいたら、それは寂しい。その人と親しくなれるとは思わないだろう。もしかしたら私たちの中にも神様にそういう態度をとっている人がいるかもしれない。神様は寂しい思いをされる。あるいは、最初は神様御自身との交わりを喜んでいたのに、いつの間にか現象だけを求めるようになってしまったという人もいるかもしれない。現象が大きいほどそういう落とし穴に陥りやすい。それでも主は力を与えてくださることもあるが、サムソンがいつのまにか髪をそられて力を失ってしまったように、ある日突然力をなくしてしまうこともある。

私たちは、まず聖霊様御自身との交わりを求めよう。朝は「主よ、おはようございます。聖霊様、おはようございます」からはじめる。食事のときも、道を歩くときも、仕事のときも、聖霊様と会話する。別に高尚な会話である必要はない。自分がどう感じているかを話したり、主がどう感じているか聞いたりするだけでもいい。眠るときは、「わが霊をあなたに御手にゆだねます」と言って眠る。そのように、聖霊様との交わりが生活で満ちるようにするのだ。そうすれば、私たちは霊的に健康になる。永遠の命の力、御国の喜びと平和を体験しながら生活するようになる。神はそういう人に力を注ぐことをためらわないだろう。そのように、聖霊様を求める者となろう。

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