純粋な感謝をささげる

福音&主題メッセージ
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感謝が悪い言葉によって汚れてしまわないようにしましょう(^o^;)

純粋な感謝をささげる

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【ノート】
感謝には大きく二つの表現方法がある。感謝の献げ物をささげること。献金や奉仕をささげること。もう一つは、口で祈りや賛歌や宣言を通して告白すること。特に聖書は口での感謝の告白に大きな比重を置いている。もちろん、献げ物も大事。主なる神様がしてくださったことに対して感謝の献げ物をすることは非常に良いことだ。しかし、どんなに高価な献げ物をしても主がしてくださったこととは全然釣り合わない。もし天秤にかけるなら常にイエス・キリストの十字架の死の方がずっと重い!私たちの献げ物は羽のように軽い!だから、献金や奉仕をささげたとしても、それに加えて口をもって神への感謝を言い表すことが常に欠かせない。
神に感謝をささげることは御心に適うこと。Ⅰテサロニケ5:18。感謝をするということはクリスチャンの特徴の一つ。クリスチャンは口癖のように感謝する。それはノンクリスチャンにはなかなか見られないし、好印象を与えることができる。実際、クリスチャンが良く感謝をするというところを見て、信仰に興味を持つ人は少なくない。私たちも感謝をするという点で証しとなる者となろう。

ただし、クリスチャンも注意しなければ陥りがちな罪によって、せっかくの感謝が台無しになってしまうことがある。ヤコブ3:9-12。ここでは賛美という言葉が出てくる。神に対する賛美と感謝は兄弟のようなものなので、賛美を感謝と置き換えても差し支えない。ヤコブはここで、「わたしたちは」と言っている。律法に厳格なヤコブ自身も例外ではないし、ほとんどのクリスチャンがあてはまる内容だ。人間は神に感謝や賛美をする。それと同時に神にかたどられた人間を呪う。泉の同じ穴から甘い水と苦い水の両方が出ないし、木は然るべき実しか結ばないし、塩水で甘い水もできない。ということは、同じ口から感謝と呪いが出るなら、どちらか一つのものとしてしかカウントされないことになる。神は私たちの言葉をすべて聞いておられる。神は感謝と呪いの言葉、どちらとして受け取られるだろうか?
もし誰かがあなたに対してほめたかと思えば、徹底的にこき下ろし、感謝したかと思えば、あからさまに不満をブーブーいうとしたら、あなたは嬉しいだろうか。「あなたは本当にいい人だね!でもあなたの描いた絵はひどいものだ!目がつぶれてしまう!」「いつもありがとう!でもあなたが作った料理はまずくて食べれたもんじゃない!」うれしいか?絶対に嬉しくない。むしろ心が休まらないし、誉め言葉や感謝の言葉にも裏があるのではないかと思う。神にとっても当然そう。神はその呪いの言葉を聞いて心を痛まれる。賛美と感謝の言葉は悪い言葉によって汚されて、不純なもの、無価値なものとなってしまう。神は私たちから純粋な賛美と感謝を望んでおられる。だからこそ、「どんなことにも感謝しなさい」と命じられているのだ。
では、私たちの感謝を純粋なもの、神に本当に喜ばれるものとするためにはどうすればいいのか?それはもちろん、「どんなことにも感謝しなさい」を実践すればいいわけだが、具体的にどんなことに感謝しようと困ってしまうかもしれない。具体的には悪い言葉が出てきそうなときにも、感謝の言葉に置き換えることだ。そのことは確かに聖書で命じられている。ここでは大きく、三種類の悪い言葉を、感謝の言葉に置き換える。

第一に、下品な言葉を感謝の言葉に置き換える。エフェソ5:1-4。ここであげられている悪い言葉はすべて、不健全で不純な性欲から発するものだ。心が満たされないときほど、不純な性欲を持ちやすい。そのような行為を避けることはもちろん、口にすらしてはならない。
それは恥ずできことであり、神によって聖別されているクリスチャンにふさわしくない。クリスチャンは下ネタ禁止ということ。みだらなことを口にするなら、自分自身の心を汚すことになり、自分を欲望の奴隷にしてしまう。やがては口にした通りに引き込まれてその行為に実行するようになってしまい、その行為を是認してしまうようになる。最終的に良心が麻痺した人は自分のみだらな行いの罪を自慢することさえある。すべては聖霊様が聞いておられる。聖霊様はどう感じるか。エフェソ4:30。聖霊を悲しませてはならない。

これらの悪い言葉を感謝の言葉に置き換えるように命じられている。神への感謝の言葉こそ神に愛されているクリスチャン、聖なる者であるクリスチャンにふさわしい。神の愛に感謝して、キリストの贖いに感謝する。感謝をするとき、私たちは神が良くしてくださったことに心を向けることができ、心が満たされる。心が健康的な状態になり、悪い欲望は締め出される。すると、みだらなことを口にすることがものすごく恥ずかしいことだとわかるようになる。

第二に、思い悩みの言葉を感謝の言葉に置き換える。フィリピ4:6。どんなことでも、と書いてある。人間はいろいろなことに思い悩む。経済のこと、健康のこと、人間関係のことなど、どれもこれも不安定なものだ。どんな対処をしても、ずっと、うまくいくということはありえない。だから、悩みは尽きない。そういう状態からいらだちの言葉、不平不満の言葉、不信仰の言葉などが出てくる。全部神様は聞いておられる。

それらの思い悩みの言葉を祈りの中で感謝の言葉に置き換えるように命じられている。感謝をするとき、私たちは信仰を使う。信仰が働きだす!神が過去に良いものを与えてくださったことを感謝する。そのことによって神が良いお方で良いものをくださるという信仰が呼び起こされる。神が将来も、御言葉の約束通り良いことをしてくださることを感謝する。そのことによって御言葉に対する信仰が呼び起こされる。たとえば、マタイ6:33。神を信じて従っていれば、必要なことに欠くことはない。何も思い悩むことはない。私たちは感謝によって働く信仰によって平安を得て、思い悩みを払拭することができる。

第三に、人に対する悪口を感謝の言葉に置き換える。人について祈るとき、私たちはどのようなことを祈るだろうか。使徒パウロの書簡を読むと必ずといっていいほど書いてあることがある。Ⅰテサロニケ1:2。使徒パウロはテサロニケの信徒たちのことを祈りの度に思い起こして神に感謝していた。パウロは神に信徒たちについての悪口を言ったり駄目だししたりするということは全然なかった。感謝をしていた!テサロニケの信徒たちが完璧だったわけではない。そこには、再臨について熱狂しすぎて怠惰な生活をしていた人々もいた。しかし、パウロの口から出てきたのは感謝の言葉だった。

「いや、テサロニケ教会は比較的良い教会だったから感謝するのは簡単だ」と思う人もいるかもしれない。では、もっと問題のある教会についても見てみよう。Ⅰコリント1:4。コリント教会にはいろいろな問題があった。分派があり、裁判沙汰があり、性的な罪があり、高慢があり、パウロが使徒であることへの疑いがあり、聖餐式のときに食べ物を食い散らし、集会は無秩序になり、復活への疑いがあった。そんな教会についてもパウロが第一声で神様に対してしたことは感謝だった!
何に感謝?キリスト・イエスによって神の恵みを受けたことを!つまりクリスチャンであることを感謝している。クリスチャンであるということは特別なことだ!日本は1%くらいしかいない貴重な存在!隣にいる兄弟姉妹にいろいろな足りないことがあるとしても、その人がイエス・キリストを信じているというだけで大きな喜びがある。詩編133:1。

もちろん、使徒パウロはコリント教会の問題を認識していたので、そのことをちゃんと指摘した。それは必要なことだ。しかし、神に対して祈るときはいつも、兄弟姉妹たちの罪を告発するのではなく、執り成した。神にその罪について憐れみと清めが与えられるように祈った。私たちもそのようにしよう。兄弟姉妹について口に出すときは、まずその存在に感謝して、罪については執り成すようにする。

このことは誰について祈るときにもあてはまる。Ⅰテモテ2:1。願いと祈りと執り成しと感謝!告発とか悪口とかは入っていない。それはサタンのすること。すべての人に対しての良いことのみを求める。

私たちは下品な言葉、思い悩みの言葉、悪口といったあらゆる悪い言葉を感謝の言葉にかえていこう!救いの恵みに感謝し、神の良い計らいに感謝し、兄弟姉妹たちの存在に感謝しよう。どんなことにも感謝しよう。

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