私の患難前携挙説

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■1. キリストはある日突然思いがけないときに来られるという教え

 マタイ24:36-51には二つの教えがあります。どちらもキリスト御自身にも(36節)クリスチャンにも(42節)わかりませんが、ある日突然予想だにしない思いがけないとき(44節、50節)にキリストが来られて(42節、50節)、救われるグループと裁かれるグループに取り扱いがわかれるという内容です。救われるグループは箱舟に入ったノア(38節)、連れていかれた人か残された人のどちらか(40-41節)、忠実な僕(45-47節))です。裁かれるグループは洪水で滅びた人々(38-39節)、連れていかれた人か残された人のどちらか(40-41節)、主人が来るのが遅いと思った悪い僕(48-51節)です。この救われるグループと裁かれるグループに分かれるという構図は25章全体にも見ることができます。そして、この二つの教えの教訓はキリストがいつ来ても良いように備えていなければならないということ(42節)です。この教えに従うなら、クリスチャンはキリストが来られるのが遅いと予想してはならず(48節)、今すぐキリストが来ても良いように常に備えている必要があります。
 この教えは、ほかの福音書ではルカ12:35-48、マルコ13:32-37にも見ることができ、パウロ書簡でもクリスチャンの復活と携挙の時期に関する説明としてⅠテサロニケ5:1-3に見ることができます。しかも、この教えはある特定の人々にのみ与えられたものではなく、実際に主が突然来られるときまで、この教えに無関係な人は誰もいません。なぜなら、「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(マルコ13:37)と書いてあるからです。この教えに従うことができる立場は二つあります。

1. 【不可知論的終末論】

 キリスト御自身わからないと言われたのだから、携挙も再臨もいつどういう順番で起こるのかは全くわかりませんが、それに常に備えていなければならないとする立場です。

2. 【患難前携挙説】

 40-41節で人々が連れて行かれることを携挙ととらえ、Ⅰテサロニケ4:16-17の出来事があるとき突然起こり、それに備えていた信仰者は救われますが、備えていなかった信仰のない人々は患難期に獣と共に裁きを受けるか、患難期の間に悔い改めて患難を受けるかのどちらかだとします。
それ以外の説をとるなら、キリストが来られる前にまず患難期があることになり、キリストが突然来られて救いと裁きが行われることに常に目を覚まして備えていなさいというキリストの教えを無意味なものにしてしまいます。患難期が7年間だとすれば、患難中期携挙説の場合、患難期が始まって3年半後にキリストが来るということが特定されて、盗人のように突然来ないことになります。患難後の場合、7年後にキリストが来るということが特定されて思いがけないときに来ないことになります。千年王国の後の出来事だとするなら、ほとんどの時代のクリスチャンがある日突然思いがけないときに起こる出来事として備える必要が全くなくなります。

 私の場合は、終末論はわからない部分がある、どの説をとっても聖書はすべてを詳細に説明していないので、恣意的な解釈と思えるような飛躍が必要となると考えます。ダニエルも終末のことはわかりませんでしたし、おそらくは新約聖書の著者も、キリスト御自身もすべての順番等を正確に理解して終末について語っていたのではないと考えます。そのため、いずれかの説を絶対的なものとして、他の立場のクリスチャンを攻撃するのは良くありません。その上で、聖書を全体的に解き明かしていくためには、一定の指針が必要となるので、キリストの目を覚ましていなさいという教えを無意味にしないために患難前携挙説をとります。

■2. 世の終わりの出来事の順序

1. 教会の成熟と大宣教命令の成就

 教会はキリストの花嫁であり、主の晩餐での杯による新約は同時に婚約にあたります。花婿であるキリストが来られるのを待つにあたって、キリストの花嫁はしみやしわやそのたぐいのものが何一つない、成熟した教会になるように整えられます(エフェソ5:27)。そして、イスラエルの風習通りに、花婿であるキリストはある時突然花嫁を迎えに来られます。
 世の終わりの前に、福音が全世界に宣べ伝えられることが約束されています(マタイ24:14)。そのため、世の終わりの出来事が本格的に始まる直前に国々でリバイバルが起こり、大宣教命令が成就し、救われるように定められている人がみんな救われます。

2. キリストの空中再臨とクリスチャンの復活

 Ⅰテサロニケ4:16ではキリストが天から降って来られることとクリスチャンの復活が同時に起こることがわかります。ただし、キリストはⅠテサロニケ4:17によると、空中にいることがわかるので、黙示録19章の地上再臨とは区別できます。Ⅰコリント15:23-28によると、クリスチャンの復活はキリストの復活の後(23節)、世の終わりにキリストがあらゆる敵対勢力を滅ぼす前(24節)です。世の終わりとは何のことでしょうか。
 マタイ24:3で弟子たちが「あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」と聞いていて、世の終わりの出来事としてマタイ24:15-31で、大きな患難とそのあとのキリストの地上再臨について説明しています。そのため、クリスチャンの復活は少なくともキリストの地上再臨の前、おそらくは世の終わりを示す明確な出来事である患難期の前と位置付けることができます。このことから、黙示録20:4のキリストの地上再臨後の復活よりも前に、それとは別のクリスチャンの復活があることがわかります。

3. クリスチャンの携挙

 Ⅰテサロニケ4:16-17によると、クリスチャンの復活の後に、その時点で生きているクリスチャンが「空中で主と出会うために」復活したクリスチャンと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このとき、復活したクリスチャンは栄光の新しい体を持っていますが、生きたまま引き上げられるクリスチャンは主と出会うときに新しい体に変えられます。Ⅰコリント15:52ではクリスチャンの復活とクリスチャンの変化が同時に起こることが書いてあります。Ⅰヨハネ3:2では、御子をありのままに見るときに変えられることが書いてあります。Ⅰコリント13:8-12ではキリストと顔と顔を合わせるときに完全な啓示が与えられ、異言や預言や知識の言葉が不要になるということが書いてあります。そして、Ⅱコリント3:13-18によると聖霊によって啓示が与えられる(15-17節)と同時に「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられて」(18節)いくことがわかるため、キリストと顔と顔を合わせるときに完全な啓示が与えられると同時に完全に主と同じように変えられるということもわかります。

4. 7年間の患難期(黙示録6章-19章)

 教会で働かれる聖霊がⅡテサロニケ2:6-7に書いてある抑えている者です。教会が携挙されると不法の者を抑えることができなくなり、患難期が始まります。教会が患難期を通らないことは、Ⅰテサロニケ5:4、黙示録2:10の御言葉とも一致しています。
 患難期は主にイスラエルの悔い改めと悔い改めない諸国民への裁きのための期間です。黙示録のこの箇所は3年半を2回という期間についての記述や神に逆らう獣の出現、偶像崇拝の強要など、ダニエル書の内容と一致する点が多く見られます。ダニエル書はあくまでも世界帝国からのユダヤ人の救いに関する預言が中心であり、黙示録の患難期も同様です。実際に患難期には教会という言葉が一度も出てきません。

5. 患難期の終わりにキリストが天の軍勢を引き連れて地上再臨(黙示録19章)

 携挙された教会は白く清い麻の衣を着た天の軍勢(黙示録19:14)として地上再臨するキリストと共に獣と戦います。白く清い麻の衣といえば教会の義とされた聖徒たちのしるしであり、キリストの花嫁のウェディングドレスです(黙示録3:5、19:8)。また、キリストの地上再臨のときに諸国民を打ち倒すとともに「鉄の杖をもって彼らを治める」(黙示録19:15)と書いてありますが、これは教会に与えられた約束と同じです(黙示録2:27)。こうして教会がキリストと共に悪の勢力に勝利する約束が成就します。

6. 患難期に信仰を持って殉教したクリスチャンの復活と千年王国(黙示録20:1-6)

 ここでは天の軍勢がどうなったかが書いていませんが、6-19章が全部患難期を通る人々が中心だったように、ここでも患難期を通った人々にのみスポットライトがあたっていると考えられます。天の軍勢たる教会は天に引き返す理由もないので、御言葉の約束通り(黙示録2:26、3:21)キリストと共に千年王国を治めたでしょう。

 続いて、下記の出来事が起こります。

7. サタンの完全敗北(黙示録20:7-10)

8. 死の滅亡と大きな白い玉座での裁き(黙示録20:11-15)

9. 新天新地と新しいエルサレム(黙示録21-22章)

■3. 患難前携挙説に対する反論に対する回答

1. 携挙はⅠテサロニケ4:17にしか書いていないことなのにそこまでこだわる必要はないのではないか?

⇒突然の携挙を信じることは、マタイ24:36-51のキリストの教えに従う上で重要です。また、そのときに栄光の体が与えられるという点で、大きな希望ともなります。そして、クリスチャンの携挙はほかに類似した記載のないものではなく、神と共にエノクが天にあげられたこと(創世記5:21-24)、預言者エリヤが天にあげられたこと(列王記下2:11)、クリスチャンがすべての経験においてあやかることになるキリストの昇天(ルカ24:50-51、使徒1:9-11)、二人の証人があげられたこと(黙示録11:12)などにも見ることができます。

2. 黙示録20:5-6で第一の復活と書いてあるのだから、患難前に復活はないのではないか?

⇒キリストの復活、患難前のクリスチャンの復活、二人の証人の復活はすべて第一の復活に含まれます。ヨハネ5:28-29によると復活は、命を得る復活と裁きを受ける復活の二種類に大別されています。黙示録20:6にある通り、この第一の復活は幸いな者の復活を表しており、第二の復活である黙示録20:5と黙示録20:11-15の千年王国後のその他の裁きを受ける死者の復活と区別するために「第一」と記載していると考えます。

3. クリスチャンは患難から逃れて携挙されるのではなく、患難を通るべきではないか?

⇒クリスチャンに患難がつきものだということは多くの聖句から確証することができます(マタイ5:10-12、ヨハネ15:20、16:33、Ⅱテモテ2:12)。教会史もそのことを証明しています。患難は神に逆らう人々による罪深い行いによって与えられますが、主は万事を益とされるため、患難をもクリスチャンの信仰の成長、リバイバル、天の報いをもたらすものとして用いられます。しかし、携挙される教会には患難は必要ありません。携挙の時には、教会はすでに花嫁として成熟しており、大宣教命令はもう成就しているからです。
 また、神はクリスチャンが痛めつけられることや迫害によって命を落とすことを喜んではおられるわけではありません。イエス・キリストは弟子たちが迫害されたら逃げるように言われました(マタイ10:23)。迫害を受けることは、避けられるなら避けた方が良いのです。キリストは御自分(教会)を迫害したパウロに抗議しました(使徒9:4-5)。キリストにとって教会が迫害されることは喜ばしいことではないのです。試練には逃れる道があると教えられています(Ⅰコリント10:13)。患難を避けることができないことも多々あり、クリスチャンは覚悟をすべきです。しかし、携挙によって教会が患難期を通らないことは神の愛と公正さの表れであって、避けがたい患難を耐え忍ぶべきことと何ら矛盾してはいません。

4. Ⅰコリント15:52に「最後のラッパ」とあるが、黙示録では少なくとも患難期に7つの天使のラッパが出てくる。それであれば最後のラッパは第7のラッパかそれ以降のラッパということになるのではないか?

⇒もしパウロが、何回かのラッパが吹かれる中の最後のラッパという順番の意味で「最後」という言葉を使っているのなら、最初のラッパ、第一のラッパ、第二のラッパといったほかのラッパのことにも触れるはずです。実際にⅠコリント15章では最初のアダムと最後のアダム(45節)というようにいくつかあるうちの最後という意味であれば、ほかのものにも言及されています。しかし、パウロ書簡全体を見てもクリスチャンの復活の合図のラッパ以外には何も触れられていません。「最後」という言葉の原語のギリシア語は使徒2:17の「終わり」の時の「終わり」にも使われている。使徒2:17は世界の最後の瞬間ではないので、これは教会誕生からキリスト再臨までの終わりの時という時代区分を指します。Ⅰコリント15:52もほかのラッパには言及されていない以上、終わりの時のラッパという意味合いと考えられます。実際に新改訳第三版では「終わりのラッパ」と訳されています。

5. もし患難期の前に携挙があるのなら、Ⅱテサロニケ2:1-11で携挙されるから大丈夫だということを言及しているはずではないか?

⇒携挙されるからクリスチャンは主の日での破滅を経験することはないということはⅠテサロニケ4:15-5:11で説明済みです。それでも、いろいろな惑わしによって、「いま自分たちが経験している患難は、患難期の患難なのではないか。自分たちは携挙されずに取り残されてしまったのではないか」とあわてふためく人がいたので、もし患難期なら不法の者が出現しているはずだということを触れています。

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