大宴会のたとえ―伝道者の心得[ルカ14:15-24]

ルカによる福音書
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招待を受諾して神様のものとなったら、今度は招待する側に回りましょう!

大宴会のたとえ―伝道者の心得[ルカ14:15-24]

大宴会のたとえ―伝道者の心得[ルカ14:15-24]

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【ノート】
メシアの祝宴に関するたとえだ。このたとえに出てくる主人は神様。招待される人々は神様に召されている人々。そして、招待する人々は伝道者だ。私たちは、礼拝者となるように招待された。その招待を受諾してクリスチャンになったら次はどうするか?招待する側の伝道者になるのだ。今回はメシアの大宴会に招待する側の心得、伝道者としての心得を扱っていく。

第一に、食事のおいしさを知る。ここでの僕はドューロスだ。一時的に雇用されている人ではなく、ずっと主人の下にいる奴隷を指す。僕たちは、ずっと主人に仕えている。ずっと主人に仕えていれば、主人の恵み深さ、気前の良さ、その食事の豪勢さを知ることができる。そして、僕たちもその食事にあずかる機会がある。主人に次いで、僕たちこそが食事のおいしさを知っているのだ。だからこそ、僕たちは自信満々に人々を招待することができる。日本にはラーメン屋がたくさんある。高田馬場駅の近くの早稲田通りを歩けば、あちこちにラーメン屋がある。ラーメン屋が密集している。そんなにたくさんあると、激戦区なので、競争に敗れて潰れてしまうお店もある。しかし、一方で、一部のラーメン屋さんは、広告を打たなくても行列ができる。なぜか?食べた客が勝手に口コミで宣伝してくれるからだ。SNSで拡散したり、友人に紹介したりするので、どんどん客が来る。伝道も同じことが言える。福音の恵みにあずかった、神様の無限の愛を体験した、御言葉のおいしさを味わった、祈りの答えを得た、毎日証しが生まれている、そういう人が口コミのように他の人々に自信満々にイエス様を伝えるのだ。あなたは福音の恵みにあずかったか?神様の無限の愛を体験しているか?御言葉の美味しさを味わったか?祈りの答えを得ているか?味わおう。詩編34:9。詩編119:103。味わおう。どうやって?祈りで、日々の御言葉のディボーション、通読、暗唱でだ。赤ちゃんは親に食べさせてもらわないと自分では食べられない。それは当然のことだし、仕方ない。しかし、成長したら、大人になったらどうか?自分で食べなければならない。自炊だろうが買ってこようが外食だろうが自分で食べる。できれば栄養のあるものを。大人で、お金もあるのに飢えてしまいそうな人がいたら何てアドバイスすればいいか?食べなさい!クリスチャンになったばかりのころは、誰しも霊的な赤ん坊であり、牧師や他のクリスチャンから養われないと自分では食べられない。でも、いつまでもそうであってはならない。自分で祈り、聖書から栄養を摂取できる大人にならなければならない。日々主の恵みを味わおう。霊的に満たされよう。それをもって主の恵みを口コミできる者となろう。

第二に、断られてもめげない。僕たちは主人に従って意気揚々と人々を招待しに行ったかもしれない。ところが次々と断られた。18-20節。もし伝道してみて、いろんな言い訳で次々と断られたら、私たちの心はどうなるか?あるいは、教会に来るはずだったのに来ない、洗礼を受けるはずだったのに受けずにいなくなってしまう。そういうことは絶対にある。そういうことがあると私たちの心はどうなるか?へこむ。「また、無駄なんじゃないか、意味ないんじゃないか」という疑問も出てくる。「果たして、神は伝道を望んでおられるのか?」と。これはちょっとした悪魔からの誘惑だ。神の御心を確認しよう。僕は帰って、このことを報告した。すると、主人は何と言ったか?断られたなら、もうやめようと言ったか?21節。主人は急いで出て行き、別の人々を連れて来るように命じられた。神様は伝道を絶対にあきらめない!伝道をして、何度断られたとしても、大勢の人に断れたとしても、神様の御心は伝道を続けることだ。
なぜなら、必ず神様の招きに応じる人はいるからだ。最終的に宴会の席は満たされるのだ。神様の御心は伝道をすること。すぐに実を結ぶこともあれば、なかなか実を結ばないこともある。どちらにせよ、結果は神様にゆだねよう。神様の御心を行うならば、無駄ではない。福音を伝えたというところに意味があり、アクションを起こしたというだけでも主は認め、報いてくださる。私たちの責任は聖霊充満でイエス様を伝えるところまでなのだ。主が僕に求めておられるのは、ただ忠実さだ。最も忠実な僕はイエス様だ。イエス様はメシアとしての3年間、忠実に伝道を続けられた。時々弟子たちと休むことはあったが、継続的に続けられた。じゃあ、イエス様が直接救いに導いた人数というのは、どのくらいだったのか?イエス様の復活を目撃したのは、成人男性だけで500人以上だった。女性や子供もいれれば1000人から2000人程度だろう。これは決して少ない数ではない。しかし、イエス様は実際のところこの人数の何十倍もの人々にアプローチをされた。つまり、多くの人がイエス様の招きを断ったのだ。人々はイエス様のメッセージを聞くよりも奇跡の方に関心を持つことが多かったし、あるとき、イエス様が命のパンの話をすると、こんな話聞いてられるかと言って十二弟子以外はみんなイエス様から去ってしまった。それでもイエス様は忠実に伝道を続けられた。伝道しても断られるならば、それはイエス様や使徒たちと同じ道を通っているのだと覚えよう。父なる神様は伝道をあきらめない。イエス様も何度断られても伝道をあきらめない。私たちも断られてもめげずに伝道する者となろう。

第三に、大勢を伝道しよう。16節。大勢の人を招いたとある。これは、神様が大勢の人々の救いを望んでおられるということだ。大勢の人を伝道することが求められている。大勢ということは、あらゆる種類の人が対象となるということでもある。神様はどのくらいの人が救われることを望んでおられるだろうか?Ⅰテモテ2:4。すべての人!すべての人といったらすべての人だ。そこに何の例外もない。21節。ここには、およそ祝宴にふさわしくないのではないかと思われる人々が連なっている。もし、主人がただの貴族の社交パーティーを開く目的だったら、彼らを招待することはありえないだろう。主人がこの人々を招いたところで、何か利益が得られるだろうか?全く得られない。利益目的ではないのだ!政治家が資金集めのため、支持を拡大するために開くパーティーではない。結婚相手を探すための婚活パーティーでもない。会社やサークルで開くその団体の結束深めるための懇親会でもない。この大宴会は完全に慈善目的でなされている。主人は恵み深いお方で、誰にでも惜しまず良いものを与えたくて仕方がないのだ。主人は人を差別しない。年収が低い人でも、病人でも、前科のある人でも、孤独な人でも心から歓迎する。その方の家の扉は誰にでも開かれている。私たちが信じる神はこういうお方だ。私たちは伝道をするとき、偏見の目で見てしまうことがあるかもしれない。霊を見分ける力を使って、特に応答しやすそうな人を対象に伝道するということは良い。学生伝道や刑務所伝道など、ある種の人々に対して特別な重荷をもって伝道するのも良い。しかし、ある種の人々に対して否定的な見方をするのは良くない。この人はどうせ福音を伝えても聞いてくれない、この人はどうせ受け入れないと。それは良くない。招待する相手を差別してはならない。人を分け隔てすることなく、伝道する者となろう。相手と心からの友達となって、食事をしよう。そうやって一人が救われたらどうするのか?もう一人が救われたから、私は伝道者としての務めを果たした。後はほかの人ががんばって!それでいいのか?22-23節。まだ空席がある。主人は空席がすべて埋まるまで人々を招き続ける。大宣教命令はメシアの祝宴の空席を埋めなさいという命令なのだ。メシアの祝宴には確かにまだ空席がある。いつ空席が埋まったとわかるのか?
Ⅱペトロ3:7-9。再臨だ。イエス様が再臨されるときに、空席が埋まったことがわかる。その日まで、大勢の人々を招き続ける者となろう。私が知っている伝道でたくさんの実を結んだ人で共通しているのは、たくさんの人に伝道する人だ。もし自分の周りに伝道できそうな家族友人知人がいないのであれば、路傍伝道にチャレンジすることをおすすめする。また、主にあって目標を立てるのも良い。来年〇〇人救いに導くと。そして、その通りになるように祈り続けることだ。

第四に、無理にでも連れてこよう。23節。無理にでもと書いてある。伝道には何かしらの強引さが必要だということがわかる。しかし、これが何を意味するのかよく考えないといけない。この無理にでもという言葉だけが切り取られて、悪用されてしまった事例が教会の歴史では多い。信仰を力にものを言わせて強要するための根拠として使われてしまったのだ。主にカトリックにあたるが、異端審問、拷問、異教に対する弾圧が行われた。いったい無理にでもというのはどういう意味なのか?聖書を読むときは、一か所だけを切り取るのではなく、他の箇所と調和するようにしなければならない。もし無理にというのが強制連行なのであれば、初めに次々と断った人々も拒否権がなく、問答無用で連れて行かれたはずだ。ところが、24節を読むとその人たちはもう連れて行かれることはないということがわかる。主は個々人の意思を尊重される。もちろん、それは招きを断る人々が救われないということにはなるので、絶対に主に従った方が良い。その上で、伝道者には、多少の強引さが必要だ。どのような強引さか。愛に基づいた強引さだろう。Ⅰコリント16:14には「何事も愛をもって行いなさい」と書いてある。招きを拒むならこの人は滅びてしまう!そのことを深く憐れむ愛の心があれば、相手を粘り強く説得しようとするだろう。必死で福音の恵みを伝えるだろう。それは御心に適うので、聖霊様が共に働かれる。そして、ついにはその愛によって相手の心を動かして、連れていくことができるのだ。切実な心で伝道をするということだ。誰かの救いのために涙を流して祈ったことがあるだろうか?もしないならば、まだ救霊に対する切実さが欠けているのだ。涙の祈りは絶対に実を結ぶ。神様はちゃんと見ておられる、聞いておられる。

さあ、伝道しよう。味わいしった恵みを伝えよう。断られてもめげずに伝えよう。できるだけ多くの人を切実な心で救いに導こう。できるところから始めよう。主が共におられる。ハレルヤ。

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