大宴会のたとえ―礼拝者の心得[ルカ14:15-24]

ルカによる福音書
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大宴会のたとえ―礼拝者の心得[ルカ14:15-24]

大宴会のたとえ―礼拝者の心得[ルカ14:15-24]

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【ノート】
イエス様は食事の席につきながら、食事に招待された場合の心得と招待する場合の心得を語られた。それを聞いていた男性が思わず言った。15節。イエス様と食事をしていた男性はその優れた教えを聞いて喜び、イエス様と食事をすることのできる幸せから思わず、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったのだ。イエス様が統治しておられるところは神の国だ。イエス様と共に食事をしているのだから、その男性はまさに神の国で食事をする幸いにあずかっていた。しかし、その男性が連想していたのは、もっと未来に起こる出来事のことだった。ユダヤ人の中にはメシアの祝宴という大宴会が行われると考えられていた。神はその日に御自分の民を招いて大宴会を開く。その祝宴には海の怪物レビヤタンもごちそうの一部として出されるだろう。レビヤタンについては怪しいが、確かに、旧約聖書にも根拠がある。世の終わりの出来事として預言されている。イザヤ25:6-10。これがメシアであるイエス様を中心とした祝宴だ。そのとき、全ての民の顔にかかっている覆いをとりのける。これは神様のこと、福音のこと、真理のことなど全ての隠されてきた奥義を明らかにするということであり、御自身をはっきりとお示しになるということ。そして、主は死を滅ぼしてすべての国の人々を復活させ、すべての顔から涙をぬぐってくださる。しかし、イエス様の時代になると、異邦人はそこに含まれないということにされてしまっていた。御言葉の曲解だ。この男性も、神の国で食事をする人として、ファリサイ派の人々のことを考えていた。
この男性はこういうことを連想して喜びに浸っていたのだ。しかし、イエス様はこの男性の言葉に対してアーメンと言わない。むしろ、イエス様はこの男性が神の国の大宴会の価値を今一つよくわかっていないしということを見抜いていた。また、この男性は誰が出席することになるかも勘違いしていた。イエス様はよく人の思いや考え、感情に逆らって語る。それはイエス様があまのじゃくだからではない。私たちの思いや考えや感情というのがしばしば嘘に基づいた勘違いになってしまっているからだ。私たちは真理がわかっていないことによって勘違いし、喜ぶべきときに悲しみ、悲しむべきときに喜んでしまうものなのだ。いつでも主の御心を心として適切な反応をすることができるように聖霊様と聖書によって真理を悟る者となろう。

神の国の大宴会はこの男性が考えているほど、誰も彼もがどうしても出席しようと思うものではない。実際のところ、この男性も本気で出席したいと思っていないかもしれない。神の国の大宴会はあまり人気がないのだ。それはなぜか?それほど魅力や価値がないからか?いや、圧倒的な魅力、絶大な価値がある。ただ、人々にはそれがわからない。豚に真珠なのだ。実際に現在進行形でどういうことが起きているのか、イエス様がたとえを通して語ってくださる。16-24節。
当時、宴会を開くにあたっては、その日付がかなり前から知らされていて、招待状が前もって送り届けられる。しかし、その時刻は知らされなかった。その日が来て準備が整うと、僕たちが出て行って、あらかじめ招いておいた人たちを集める。招待を受諾しておきながら、当日になってドタキャンすることはとんでもなく失礼にあたることだった。このたとえの直接的な意味ははっきりしている。主人は神だ。最初に招かれていた人々はユダヤ人だ。そして、町の広場や路地から集められた人々は、イエス様が招いた徴税人や罪人のことだ。ファリサイ派の人々はそれを理解できず、白い目で見たものだ。通りや小道から集められる人々は、後に宣教の対象となる異邦人のことだ。ユダヤ人が神の招きを拒んだので、空席を埋めるために異邦人が招かれることになったのだ。「自然も恵みも共に真空を嫌う」のだ。
さて、このたとえから今、私たちが受け取るべきメッセージは何か?イエス様はこの前の箇所で、招待される側の心得と招待する側の心得を語られた。このたとえでも両方の観点から教えられることがある。

まずは、メシアの大宴会に招待される側の心得。つまり、礼拝者としての心得だ。私たちは大きな視点では天国に招待されており、さらには主日礼拝に招待されている。聖餐や愛餐は小宴会ともいえる。もっといえばイエス様の御名での祈りによる神様との個人的な交わりに招待されている。全員にその招待状がもう届いている。最初に招かれた人々は反面教師だ。18節を見ると、皆、次々と断ったと書いてある。人々はいろいろな言い訳をして断ったのだ。人がする言い訳というのは、2千年前も今も大して変わらない。

第一に、神の招待よりも仕事を優先してはならない。18節の最初の人は「畑を買った」ということを理由に断った。この人は生きていくためにどうしても必要な仕事のために断ったのではない。畑を新たに買ったということは、元の収入に満足できずにさらにお金を稼ごうとして、招待を蹴ったのだ。単純に神よりもお金を優先したのだ。仕事のために礼拝をささげる時間を惜しみ、祈る時間もとれないということが決してあってはならない。仕事を選ぶときの基準としては、お金よりも、神様が喜ばれるのか、主日礼拝を守れるのか。さらには、とりあえず主日礼拝を守れればどの教会に通うのでもよいかというとそうではない。今までと同じ教会に通えるのか、そうでなければ本当に御心なのかを問う必要がある。神が私たちを置かれる場所というのがあるからだ。私が知っている兄弟は、洗礼を受けた後、仕事の都合で数十年にわたって全国を転々とした。一応、転勤のたびに教会に通おうとしたが、どの教会にも長く通うことができないので、一度もまともに教会で訓練を受け、信仰成長し、奉仕をささげるという機会を持てなかった。ずっとふらふらしたクリスチャン生活だった。その後独立して一つの教会に落ち着くことができるようになったが、長い年月、神様にしっかりと仕えられなかったということを悔やんでいる。悔いのない信仰生活を送ろう。

第二に、神の招待よりも新しいものを優先してはならない。19節で二番目の人は「牛を二頭ずつ五組買った」という。この人は新しく手に入れたものの新鮮な魅力を味わいたいという理由で招待を断っている。新しいものを買うと、それに夢中になってしまい、礼拝や神の招きを遮断してしまうということが起こりうる。ずっと毎週欠かさずに礼拝を守っていたのに、新しいゲーム機を買ったから今日はクリアするまで遊ぶつもりだ。新しいパソコンを買った。新しい映画が公開されたから観に行く。新しい恋人ができたから一緒に遊びに行く。ノー!この世の新しいものに浮かれていてはならない!この世の新しいものはみんな古くなり、いつかは魅力が失せてしまうものばかりだ。しかし、神による新しさは永遠だ。哀歌3:22-23。主の招きを受けて、いつも新鮮な慈しみを憐れみを受け取ろう。新しくしないといけないのは持ち物や趣味活動ではない。自分自身だ。コロサイ3:10。新しいものを理由に主の招きを断ってはならない。主の招きを受けて、私たち自身が日々新たになろう!

第三に、神の招待よりも家庭を優先してはならない。20節の三番目の人は「妻を迎えたばかりなので」という。一見、この理由は通りそうで、家庭は最優先になりそうなものだ。律法にも妻を迎えたものは1年間兵役を含むあらゆる義務を免除されると書いてある。だからこそ、この人はほかの2人よりも断固たる口調で断っている。
本来は、神様からの憐れみによって与えられた権利を神様の招きを断る理由に使うというのは嘆かわしいことだ。しかし、家庭こそ、イエス様への信仰による絆で結ばれていなければならない。結婚の創始者は父なる神様だ。未信者同士の結婚すら、神様を中心に誓約が行われることがある。私の兄の夫婦はそうだった。クリスチャンの結婚はなおさら、イエス様が中心のものでなければならない。聖書では、結婚の問題点がとりあげられている。Ⅰコリント7章は章全体で結婚について言及されているが、すべてにおいて否定的な言及だ。何が問題なのか?Ⅰコリント7:32-34。心が二つにわかれるという。お互いがお互いの足をひっぱりあうということだ。ではどうすればよいのか。お互いが何よりも主を第一とすればよい。そうすれば、相手のことを喜ばそうとすることで葛藤が生じることがなくなる。足を引っ張り合うのではなく協力して神様の招きにこたえていくことだ。最初からそのための結婚であれば心が分裂しない。一緒に教会に行くのだ。一緒に祈るのだ。教会と家庭のどちらが大事か?どちらも大事だ。どちらも家族だ。

断った3人は神様からの招待よりも自分のことを優先した。しかし、そもそも正常な感覚を持っている人にとっては、優先順位の問題とかどちらを選択するかという問題ではない。これは人間として誠実であるかどうかの問題だ。
第四に、約束を破ってはならない。3人は招待を受諾した。ということは招きに応じる義務が発生している。人間としても、常識的にもドタキャンしてはならないのは、当たり前のことだ。私たちは誠実でなければならない。約束を守らなければならない。誠実さは聖霊様が結ぶ9つの実の一つでもある。そうでなければ招待がユダヤ人から異邦人に移ったように、私たちから移されてしまう。私は立場上今まで多くの人から約束を破られることがあった。どうしてこんなにも言葉を二転三転できるのだろうか、と思うくらい人は言葉を翻し、確かなこととして語ったはずだったのに、堅い約束をしたはずなのに、破りに破るのだ。しかも全然悪いとも思っていないような態度をとることが多い。主が彼らを罪に定めませんように。クリスチャンとなることのできるのは誰か?クリスチャンとして、途中で脇道に逸れてしまわずに、最後まで用いられ続けるのはどんな人か?誠実な人だ。約束を守る人だ。まず、神様とした約束を守ろう。神様に献身を約束したなら献身する。献金を約束したなら献金する。従順を約束したなら従順する。奉仕を約束したなら奉仕する。誠実に聖日を守る。ディボーションしたことを行う。どうしても約束を守れないときはそれを罪だと認めて悔い改める。約束を破ったことを忘れたり、そのまま放置してしまったりしてはならない。次に、人と交わした約束を守ろう。契約のこと、時間のこと、お金のことにルーズになってはならない。神と人から信頼される人になろう。

第五に、大宴会のごちそうの価値を知ろう。3人の人々が大宴会への出席を断ったが、これは本当に愚かなことだ。彼らが言い訳にしたものよりも大宴会の方がずっとすばらしいのに。大宴会に価値がないから断られたのではない。人々が大宴会の価値をわかっていないのだ。24節で主人は「あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」と言った。主人はごちそうの価値を知っている。そして、招きを断った人たちも後からやっぱり食べたいということを知っている。しかし、もうチャンスはないのだ。あなたは天国に入りたいか?絶対に入りたいか?何が何でも入りたいか?何が何でも入りたいと思うべきだ。いま私たちは天国への招きを受けて、それに応えようとしている状況だ。何が何でもその祝宴の席につく者となろう。イエス様があなたの顔の覆いをとりのける。いかに愛されていたかを知る。死を滅ぼされ、涙がぬぐわれる。そのごちそうの価値をわきまえて、全力で招待に応じる私たちになろう。

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