食卓での御業と教訓[ルカ14:1-14]

ルカによる福音書
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食卓での交わりで、いろいろなことが起こるのです。

食卓での御業と教訓[ルカ14:1-14]

食卓での御業と教訓[ルカ14:1-14]

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【ノート】
イエス様が食卓で食事について語っている。無料食堂の準備をしているが、そのヒントとなる内容が満載だ。また、私たち個人とイエス様との交わりについて、さらには、人から食事に招待された場合や人を招待する場合の心得がわかる。神と人との交わり全般についての示唆に富んだ内容だ。
1-2節。イエス様はあえてファリサイ派の議員の家を選んで食事に行ったのではなく、招待を受けて行ったということが12節からわかる。2節の様子をうかがっていたというところからこのファリサイ派の議員は必ずしもイエス様に対して好意的ではなく、その招待には裏があるということがわかる。「うかがっていた」という言葉の原語は「悪意のある目で偵察する」という意味だ。しかし、イエス様は食事の招待を断らなかった。どんな理由での招待であれ、イエス様は人と交わることを拒まない。裏がある人から招待されてもイエス様は応答するなら、イエス様を救い主と仰ぐ私たちが招くなら、なおさらのこと喜んで私たちと交わりを持ってくださる。いつもイエス様と親しい食事にあずかるものとなろう。黙示録3:20。さらには、私の家に、職場に、学校にイエス様を招待しよう。祈って、イエス様の臨在を歓迎するのだ
人々はイエス様を監視するかのように、珍しい見世物かのように見ていた。水腫を患っている人がイエス様の目の前にいたのは、イエス様を罠にはめるためか?律法を破ったと訴える口実を設けるためか?私はどう見るべきか。ヘブライ12:1-3。

3-4節。イエス様は癒しを行うことを人々に教える機会としている。水腫の人は肉体を患っていたが、その他の人々も間違った教えを信じることによって霊的に病んでいた。旧約聖書の律法では、安息日に病気を治してはならないとは書いてない。しかし、律法学者やファリサイ派の人々が独自につくった律法の施行細則を持っていてそれによれば、癒しは治療行為であり、治療行為は安息日にしてはならない仕事にあたるということになっていた。しかし、彼らは黙っていた。自説を唱えることができなかった。イエス様があえてこう問いかけるということは、自説を唱えても論破されそうだということを知っていたからだ。黙っているのはイエス様のペースでことが進むことに対する無言の反抗をあらわしている。私たちにももしかしたら経験があるかもしれない。私たちは、ある種の祈りについて、それを祈った方がよい、祈ったら御心がわかる道が開かれるのにあえて祈らず、神様に対して黙っていることがあるかもしれない。なぜか?祈りが聞かれることが都合が悪いからだ。祈りが聞かれて神様の御心がわかると、自分の計画をキャンセルしなければならない。祈って問題が解決すると、「この問題があるから私は何もしなくてよいのだ」と怠けるための言い訳ができなくなってしまうかもしれない。そういう理由であえて癒しを祈らない、成功を祈らない人もいる。そんな邪な沈黙はあってはならない!神様の御心がなされるのが最善だ!私たちは祈りの答えを恐れずに祈ろう。

イエス様は答えを待たずに水腫を癒した。水腫は一見皮膚の表面に水が溜まっているので、皮膚やその周辺の部位に関する病気のように思えるが、実は心臓や腎臓などの内臓の疾患によって引き起こされるものだ。医者でも近代的な精密な臨床検査なくしては、原因の特定も治療もできない。それをイエス様はすぐに癒してみせた。聖霊様の力だ。創造者であられる聖霊様は現代の医者よりもずっと人間の人体のことをよくご存知で、どこをどのように癒せばよいのかわかるのだ。実際この箇所ではイエス様は表面的な患部に触れるのではなく、手を取って癒したと書いてある。病巣がもっと深くにあることをご存知だったのだ。
そして、癒しはイエス様との食卓でなされた。主との交わりの中に癒しがある。癒しは、癒しを求めなくても、祈りの中で、賛美の中で、起こることがあるのはそのためだ。主との交わりを求めよう。思いもがけない良いことが待っている。
イエス様は水腫の人をその場にとどまらせずに、家にお帰しになった。その場には律法学者やファリサイ派の人々がいたので、悪い影響を受けないようにとの配慮だろう。私たちの信仰に悪影響を与える人物、本、動画、サービスというものはたくさんある。細心の注意を払って悪いものを避けよう。

5-6節。救いの緊急性を知ることができる。イスラエルにはふたのしていた井戸がいたるところにあって、事故の原因となることがよくあった。それで、律法でも井戸に落ちた場合のことが言及されている。出エジプト21:33-34。ここでは落ちた家畜は死んだことになっている。井戸には水がたまっているのだから、すぐに助けないと溺れ死んでしまうのだ。目の前で自分の息子や牛が井戸に落ちて溺れ死にそうになっていたら助けないか?当然助ける!安息日であっても、すぐに助ける!そうでないとおかしい。イエス様の目に、すべての人の状態は井戸に落ちるよりももっと深刻だ。人々を口を開けて飲み込もうとしているのは、井戸ではなく、罪であり、その先は永遠の地獄に通じている。だからこそ、イエス様は安息日であろうがなかろうが、いつも御国の福音を宣べ伝え、教え、病気を癒したのだ。イエス様は正常だった。その場の人々があまりにも人を憐れむということに無感覚だったのだ。さて、私たちはイエス様のように正常な感覚をもっているだろうか?大勢の人々が永遠の地獄に落ちようとしている様子を見て、積極的に何等かのアクションを起こそうとしているだろうか?日常的に伝道し、人々を救いに、教会に導いているだろうか?それとも、この食卓にいた人々のように黙っているだけだろうか。正常な感覚を持ち、伝道に励む者となろう。

7-11節。へりくだりについて。日本でも上座と下座というのがあるので、理解しやすい。出入口から遠い席が上座、近い席が下座だ。思い返せばあまり頓着せずに座っていたことが多いということが反省させられる。ここで問題にされているのが、特に座であることに注目しよう。立っているうちには、どこにでも動きうる。座というのは、自分の位置を固定するものだ。あえて上座を選んで座るなら、自分を高慢なものとして定めることになってしまう。そうすると、もっと偉い人物の出現によって恥をかくことになる。下座は謙遜な位置に自分を固定することだ。必要あらば、神が摂理的な導きによって立場を引き上げてくださる。さて、謙遜を身に着けるためには、どのような認識が必要だろうか。
第一に、事実をありのままに認めること。地位、知識、経験、能力のどれをとっても、私たちが達成したことはたかが知れている。自分よりももっと上位に位置すべき人は常にいる。特にイエス様が引き合いに出したのは、自分以外の出席者が誰かわからない婚宴に関してだ。多少自信があったとしても、自分よりも上座にふさわしい人が現れる可能性はいくらでもある。もし、私が上座に座った後、イエス様が現れたらどうする?イエス様を差し置いて自分の方が上座にふさわしいだろうか?そんなわけがない。
第二に、イエス様は上席に座っておられなかった。イエス様が招待を受けた客が上席を選ぶよう様子を見ることができたということは、また、イエス様がこの教えを説くことができたということは、イエス様は決して上席に座っていなかった。末席だったかもしれない。
実際のところ、イエス様は神に等しい身分でありながら、天の栄光を捨てて人間としてこの世に来られ、十字架で最も呪われた処刑方法で処刑されるというのは、上席を捨てて末席を選ぶことだ。しかし、父なる神はへりくだる者を決してそのままにしては置かれない。イエス様の最終的なポジションは全能の父なる神の右だ。謙遜は損ではない。神様が最終的に最もふさわしい席に座らせてくださる。

12-14節。この内容はほぼそのまま無料食堂にあてはまるし、路傍伝道にもあてはまる。路傍伝道は教会の恥だとか、ただのパフォーマンスではないかとかの批判がある。知らない人に伝道するのではなく、自分の責任の範囲内にいる身近な家族や友人知人に対する関係伝道をすべきではないかという人もいる。関係伝道ももちろん必要だ。しかし、ここで書いてあることをよく読んでみよう。誰が対象となっているか?友人も兄弟も親類も招いてはならないとある。それでは誰が対象か?見知らぬ人々だ。ということは路傍伝道をすることが求められているということだ。もちろん、ただ一方通行的に福音を叫ぶパフォーマンスにならないようにするためには、一緒に食事をするといった関係づくりが必要だろう。見知らぬ人々を伝道して、彼らの友人となるのだ。そういう路傍伝道をする人を神は求めておられる。そして、ここでは食事会をするときは、見返りを求めない奉仕として実施せよということだ。これは無料食堂そのものだ。主がこのように教えられたのは、主も同じようにしたからだ。主は5つのパンと2匹の魚で5千人の群衆を満腹させたとき、群衆をすぐに解散させ、何も受け取らなかった。また、主は恵み深い方、つまりその資格のない私たちに一方的なご好意によって、罪から救ってくださった。その救いの御業もイエス様が聖餐において十字架での血と裂かれた肉を飲み食いすることを求めているように、無償の食事として提供されている。主は救われた私たちが主に従うことを求めてはおられるが、それでもやはり十字架は見返りを求めない愛だったと言える。なぜなら、私たちがどれだけイエス様に献身しても、十字架に対してお返しをするほどのことにはならないからだ。命をささげてくださった方に対してもう十分恩返ししたと言えることは絶対にない。私たちはイエス様に対してある意味罪の負債の代わりに愛の負債を山ほど負っているのだ。罪の負債は私たちを滅ぼすが、愛の負債は私たちを愛に生きる者とする。主は恵み深い。だから、私たちも人々に対して恵み深くなければならない。

食事を提供するということについても、料金をもらってサービスを提供するのではない。ギブアンドテイクではない。もちろん、惜しみなく与える人には主が特別な計らいをしてくださって、経済的に不足がないようにしてくださる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほど量りをよくして与えられると書いてある。しかし、それが目当てでもない。この世で何等かの形で還元されるのは良くない。もし、豊かに食事を提供し、何もお返しがない場合、それは純粋な好意によってしたこととなる。それは、主に献げたことになる。復活のとき、天で永遠に朽ちることのない報いが待っている。

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