天の父は求める者に聖霊を与えてくださる[ルカ11:5-13]

ルカによる福音書
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人は方法論だけ与えられても、実践には至りません。

天の父は求める者に聖霊を与えてくださる[ルカ11:5-13]

天の父は求める者に聖霊を与えてくださる[ルカ11:5-13]

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【ノート】
イエス様は弟子たちの「祈りを教えてください」という願いに答えて祈る内容について教えられた。それが有名な主の祈りであり、私たちに必要な祈りの要素がすべて含まれている。しかし、イエス様は人が方法論を教わるだけでは動かないということをご存知だった。方法論を聞いても私たちは実践しない。そこで、イエス様は祈りに必要な精神と約束について語られ、弟子たちを励まされた。何事も励まされ、やる気にさせられないと、心を燃やされないと人は実践に移らない。祈りの精神とは、何かイエス様から教わろう。

5-8節。イエス様は「あなたがた」と切り出している。これは私たちのことだ。私たちに緊急事態が発生した。当時のイスラエルでは、いつでも旅人が自分のところに立ち寄ったら、最大限のもてなしをするのが当然だった。パンすらも提供できないというのはありえないことだった。私たちがどうしても解決しなければならない問題にぶつかったということ。どんな方法を使ってでも解決しなければならない。そこで、非常識ではあったが、真夜中に友人宅を訪れた。今であっても真夜中に友人宅を突然訪れるというのは迷惑極まりない。当時のイスラエルではもっとそうだった。家では基本的に家族がみんな同じ部屋で寝た。また、夜には家畜も家に入れて一緒に休ませるということをした。だから、起きてパンを与えようとすれば、一家全員に家畜までも起きてしまい、家中の睡眠が妨げられて大変なことになる。そこで、その人は友人ではあったけども、一度は頼みを断った。しかし、旅人をもてなす身としてはそこで引きさがるわけにはいかない。その人が私たちの友達だからということでは動いてくれなくても、私たちが恥も外聞もなくしつように頼めば、どの道家族も家畜もみんな起きてしまう。こうなったら仕方ないということで、起きてきて必要なものをなんでも与えてくれる。

この話からわかる祈りに必要な精神は何か?大きく二つあげられる。第一は、切実な必要を心に抱くことだ。それはどんな方法を用いようとも、絶対に満たさなければならないという切実な必要だ。イエス様があげられた例としては、「旅人をもてなさねば!」ということだった。私たちにはもっと切実に求めるべきことがいっぱいあるだろう。それは主の祈りにあることだ。御国を来たらせたまえ。「私の家族、友人、知人がイエス様を信じて救われてほしい!」「日本にリバイバルが起きてほしい!」日用の糧を今日も与えたまえ。「御言葉の恵みをもっと受けたい!」「聖霊様の力がほしい!」罪を赦したまえ。「罪をかなぐり捨てて、完全に清い生き方をしたい!」悪より救い出したまえ。「霊的な戦いに勝利したい!」どうしたらそのような必要を切実なものとして実感するか?ふだんは私たちが無視してしまい、無関心で無感覚になってしまっている不都合な真実に心をとめることだ。神の真理と私をとりまく状況に心を向ける。聖書の御言葉を読んで、神様の御心を確認しよう。その上で、私たち自身が、日本が、教会が、周りの人々がいかに神様の御心からかけ離れた悲惨な状況にあるのかを観察しよう。そうすれば、聖霊様が私たちの心で働いて、私たちは今まさに緊急事態にあるのであり、何が何でもその状況を何とかしなければならない、祈らなければならないということに気づく。深刻で差し迫った問題を抱えていると認識することが、祈りの燃料となる。より激しい祈りにつながる。だから、問題にぶつかるというのは、必ずしも悪いことではない。それが私たちを祈りに駆り立てるのであれば、その点で深刻な問題すらプラスなのだ。祈りの精神の第一は、どうしても満たさなければならない切実な必要を心に抱くこと。

祈りの精神の第二は、しつように求めることだ。恥も外聞もなく求める。なりふり構わず求める。自分のプライドとか、常識とか、人からどう思われるかというのはわきへおしやる。真夜中に訪問しても一度は断られた。しかし、しつように求めたら得られた。これは言ってみれば私たちが人々の救いを祈っても、全く変化しないように見える、むしろ以前よりももっと神に対して悪い態度をとるように思えると状況だ。祈りに効き目がないように思える。
しかし、祈りの人は求めているものを絶対に獲得するまで祈りをやめないと決めているので、絶対にあきらめない。すぐに効果が見えなくても、信じて祈り続けるのだ。文字通り真夜中にだって祈るし、断食して涙を流して祈る。何も起こらなくてもますます激しく祈りに打ち込み、とうとう求めているものを得るのだ。祈りの精神は切実な必要を感じてしつように祈ることだ。

そのしつようさという点について、イエス様はさらにはっきりとした約束と共に強調する。9節からは祈りに伴う約束だ。9-10節。求め、探し、門をたたくと書いてある。これはクレッシェンドだ。だんだん求めることがアグレッシブになっている。しかも、原語のギリシャ語で読むと、実に求めに求め続けなさい。探しに探し続けなさい。門をたたきにたたき続けなさいとなっている。続けることだ。そうすれば、与えられ、見つかり、開かれると約束されている。イエス様がそう断言しておられるということは、確実だ。

もし、その通りにならないように思える場合は、それはそもそも御心に適わないことかもしれない。主の祈りの要素にそれは含まれているだろうか?御言葉と聖霊様によって示されたことだろうか?そうでなければ答えられるという保証はなされていない。もし、御心のはずなのに与えられないように思える場合は、単純に祈りの精神を持っていないからだろう。切実さやしつようさが欠けているのだ。本当はあとちょっとの祈りで与えられていたのに、途中であきらめてしまっただけなのだ。自分や他人の失敗談ではなく、イエス様の約束の御言葉を信じよう。

ところで、なぜ求めなさいと命じられているのだろうか?奇妙な命令ではないか?これは世の中の宗教には決して見られない命令だ。それは、父なる神様は私たちを愛しておられ、私たちに必要なものを与えたくて仕方がないからだ。そして、与える能力を持っておられることは言うまでもない。人間が勝手に作りだした宗教の神々とは全然違うのだ。先ほどは、真夜中に訪問した友達は、友達だからという理由では何も与えようとはしなかった。ただそのしつようさに負けて渋々いうことを聞いてあげたという感じだ。父なる神様はそうではない。真夜中に祈っても、大きなことを祈っても、少しも迷惑がることなく、耳を傾けてくださる。進んで言うことを聞いてあげたいと思っていない人であったとしても、しつように迫れば言うことを聞かせられる。ましてや、私たちの願いを喜んで聞きたいと願っておられる父なる神様に熱心に祈れば、聞き入れてくださるのは確実だ。

11-13節。ここでは、さらに人間の父親と天のお父様の対比がなされている。世の中にはいろいろな父親がいる。しかし、普通の父親であれば少なくとも魚を欲しがる子供に「ほら、蛇だ。かまれると痛いぞ」といって蛇をプレゼントすることはない。卵を欲しがるのに「ほれ、さそりでも受け取れ。さされると毒がまわるぞ」といってさそりをおしつけてくることはない。それはまったくありえないことだ。魚も卵も子供にとって必要な栄養となるものだ。子供がそれを欲しがるのは当然であって、高いおもちゃや甘ったるいお菓子を求めているわけではない。だから、普通の父親であれば、子供が求めた通りのものを与える。これが人間だ。子供に食べ物を与えるのは特別愛に満ちた父親のすることでなく、当たり前のことだ。むしろ、人間の親のことをイエス様は「あなたがたは悪い者だ」と決めつけておられる。これは無価値だという意味ではなく、罪を犯すということ。イエス様は人の心にあるものを見ることができる。そこに、高慢、不信仰、貪欲、嘘、姦淫、ねたみ、憎悪などの悪いものがあって、まだ清められていないのをいつもご覧になっておられる。そのように不完全で悪に満ちた人間であっても、自分の子供には良いもの、必要なものを与える。ましてや完全であり、愛に満ちた天の父なる神様はなおさら求めるものに良いものを惜しまず与えてくださる。そして、ここでイエス様は求めるべき良いものとして特に取り上げられたのは聖霊様だ。聖霊様こそが主の祈りの中で私たちが願う内容のすべてを私たちになさしめてくださるお方だ。

聖霊様は御名を崇めることを助けてくださる。ヨハネ4:24でイエス様は「神は霊である。だから、神を礼拝する者は霊と真理を持って礼拝しなければならない」と言われた。聖霊様によってこそ、父なる神様が喜ばれる礼拝が可能だということだ。聖霊様は御国をもたらしてくださる。イエス様はマタイ12:28で「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われた。聖霊様が働かれるところが御国なのだ。聖霊様は必要な霊的な糧をお与えになる。命の水とは聖霊様のことだ。聖霊様は清めてくださる。バプテスマのヨハネは聖霊のバプテスマのことをマタイ3:12で脱穀した後の不要な殻を焼き払うものだと語った。それは、聖霊様は私たちから不必要なものや不純物を取り去って清めてくださるお方なのだ。聖霊様は私たちを悪い者から救ってくださる。イエス様が悪霊を追い出していたのは、聖霊様の力によるものだった。聖霊様で満たされているクリスチャンに対して、悪霊は手も足もでないのだ。だから、主の祈りの内容は聖霊様を求めるということに集約される。さらには、聖霊様は私たちが祈ることを助けてくださる。ローマ8:26では異言で祈ることによって聖霊様の執り成しをうけて御心に適った祈りができるということが書いてある。聖霊様は祈ることを助けて、祈ることは聖霊様を求めることだ。聖霊様は祈りを助け、祈りは聖霊様を求めることだ。ここに良い循環が生まれる。

最後に、イエス様が「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」とはっきりと約束しておられる意味を正確にとらえよう。蛇やさそりではなく聖霊様が与えられる。蛇やさそりは悪霊を意味する。聖霊様を求めたのに悪霊が与えられるなんていうことはない。聖霊様を求めたら必ず聖霊様が与えられる。そして、聖霊のバプテスマが与えられるということについて、いつも劇的な感情的体験を期待するべきではない。イエス様を信じて救われるときに、劇的な感情的体験をする人もいれば、全然しない人もいるのと同じだ。正しい人は感情によって生きるのではなく、信仰によって生きる。あなたは聖霊様を求めたか。もしそうであれば、あなたはすでに聖霊様が与えられている。あなたは舌を動かし、異言を語ろうとして声を出したか。もしそうであれば、それは異言である。神様が良いものを渋るはずがないのだから、あなたが求めたのであればもう与えられているのだ。まずは信仰によって受け取るのだ。もし聖霊のバプテスマについて、何かすごいことが起こるのを待っているなら、その人はずっと待ち続けることになる。それでは、しつように求めるように書いてあるのはなぜなのか?求めれば求めるほど、聖霊様による交わり、油注ぎ、賜物が豊かに与えられるからだ。求めたときにすでに与えられたと信じ、その上でさらに豊かに求めていくということだ。探し、門をたたくというところまでいくのだ。聖霊様は無限だ。その与えられるところに限りはない!

祈りの精神を持とう切実な必要を認識し、しつように与えられるように祈り続けよう。イエス様の約束に基づいて与えられたと確信しよう。そして、特に聖霊様を切に求める者となろう。

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