ダビデの復讐を止めるアビガイル[サムエル上25章]

サムエル記
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他者の助けによって柔和さと自制心を保てるようにする例です。

ダビデの復讐を止めるアビガイル[サムエル上25章]

ダビデの復讐を止めるアビガイル[サムエル上25章]

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【ノート】
1節。サムエル記というタイトルにもなっているサムエルが死んだ。しかし、サムエル記はまだ上であって半分以上ある!サムエルが死んでも、サムエルが油注いだダビデが活躍する。サムエルの死によって士師の時代が完全に終わり、ダビデによってイスラエルの王国が確立しようとしている。荒れ野にいるダビデはそのための産みの苦しみを味わっている。サウルに手をかけなかったことはダビデの柔和さと自制心の強さを表している。柔和と自制は支配者に求められることだ。イエス様は「柔和な人々は幸いである。その人たちは、地を受け継ぐ」と言われた。地を支配する。また、自制心を働かせて自分自身を支配できなければ、国を支配することなんてできない。柔和と自制は御霊の実の最後にしるされている。ガラテヤ5:22-23。人格の完成にあたって結ばれる実なのだ。しかし、ダビデとてまだまだ訓練中で、その柔和と自制をいつも発揮できるとは限らない。助けが必要となることもある。25章ではダビデが他者の助けによって、柔和と自制を発揮する。ダビデはパランの荒れ野に降った。パランはイスラエルの最南端のベエル・シェバよりもさらに南に広がるシナイ半島の荒れ野だ。ダビデは用心深く、イスラエルを離れてかなり遠くまで移動したのだ。

2-3節。カルメルはダビデが24章でいた死海の近くのエン・ゲディの西に位置する場所だ。そこで事業をやっているナバルという非常に裕福な男がいた。ナバルというのは馬鹿とか、愚か者という意味。本名かあだ名かわからないが、その名前の通り、頑固で行状が悪かった。わがままで、短気で誰もまともに会話できない。欲のままに大宴会を開いて、暴飲暴食して泥酔してしまう。扱いにくい人間だ。馬鹿で短気な人間が事業をやったらあっという間に潰れてしまうはずだ。そうならなかったのはナバルとは対照的な奥さんのアビガイルのお陰だろう。アビガイルは聡明で美しかった。才色兼備の女性というのは、聖書全体でもはっきりと書いてあるのはアビガイルだけだろう。アビガイルは誰も手に負えないナバルを、その聡明さによって猛獣使いのようにうまく操縦することができた。また、ナバルが考えなしに行動してすべてを台無しにしてしまいそうなところをアビガイルが裏でフォローしていたのだ。

4-8節。ダビデはパランの荒れ野からカルメルまで北上した。この内容から、ダビデがサウルからの逃亡生活の中で、自分と兵士たち600人のためにどのように生計を立てていたかをうかがい知ることができる。当時、羊飼いをしていれば常に盗賊に襲われる危険と隣り合わせだった。特にまだその地に大勢いた異民族からの襲撃が怖い。ヨブ記1章には、ヨブの牛、ろば、らくだがみんな略奪されてしまったことが書いてある。ダビデは、イスラエルの人々の用心棒として働いて、その報酬を受けていたのだ。ダビデはナバルの羊たちを守った。そして、ダビデは軍隊相手でも戦って勝つことのできる600人の兵士を抱えていた。だから、力に物を言わせて、高圧的な態度でナバルに対して「みかじめ料」を要求することもできた。しかし、ダビデは全然そうせず、むしろ下手に出ている。ナバルとナバルの家の平和を祈り、自分たちの貢献の内容について丁寧に説明し、仕事がひと段落したお祝いの日に出される食料を分けてほしいと控えめに求め、自分のことをあなたの「子」としてへりくだっている。この時点でダビデは24章と同じく柔和な性質を前面に押し出している。お祝いの日に裕福な人が大盤振る舞いをするのはごく自然なことだった。ましてや、ダビデたちは用心棒として働いてくれたのだから、ふさわしい報酬を与えるのは当然だ。

しかし、ナバルはダビデの使者の言葉を聞いて機嫌をそこねた。9-11節。ナバルは感情にまかせてダビデをののしっている。そういう言葉を吐くことで、どんな結果になるかを全然考えていない。ダビデが何者か知ってか知らずか、どちらにせよ、600人の武装集団の首領だということは確認すればすぐにわかったはずだ。

ナバルは柔和と自制とは程遠い人で、後先考えずとにかく自分がすかっとすれば、良かったのだ。もし私たちが感情や肉の欲のおもむくままに舌を動かすなら、このナバルのように愚かなことをしていることになる。賢く生きるには、感情と舌を制御することが必要だ。箴言29:11。箴言10:19。それではどうすれば感情と舌を制御できるのか?人間の力だけでは無理だ。ヤコブ3:8。御霊の実を結ばせてくださる聖霊様によって可能だ。感情を正常なものにし、舌を制御できる完全な者に変えてくださるのは、聖霊様だ。感情や言葉に問題をかかえていると思う人は、聖霊様に癒しを求めて祈り、異言や預言で祈ろう。

12-13節。ダビデはサウルの時には自制心を働かせることができた。しかし、このときは抑えられなかった。長い逃亡生活での気疲れもあったか。何者でもないナバルに低姿勢で接したのに、ののしられたのには我慢ならなかった。また、どうしても600人兵士を養うためには食料が必要だった。かくなる上はやむなし。ナバルとその家来たちを殺害し、食料を略奪するつもりだった。ナバルの悪に対して、悪をもって報いようとしたのだ。これはダビデの敗北だ。怒りの感情に負けてしまったのだ。

ナバルの従者は、ダビデの怒りを買ってしまったことにすぐに気づいた。あのイスラエルの英雄に喧嘩を売るなんてこんな無謀なことはない!14-17節。ナバルの従者はナバルにではなく、アビガイルに報告している。ナバルと話してもらちがあかない、機嫌を損ねるだけだとわかっていたのだ。そして、アビガイルなら話がわかり、行動力もあるという信頼を得ていた。ナバルは問題を起こすばかりで、実質的にはいつもアビガイルがナバルの家を支えていた。

18-19節。アビガイルの行動は早い。従者たちにテキパキ指示を出したのだろう。大量のものをあっという間に準備して、すぐにダビデのもとに向かった。夫ナバルと会話したらややこしいことになるので、何も言わなかった。命に関わるときに議論している暇はない。ダビデが自分たちのもとに到着するよりも早く、先手を打つのだ。これはイエス様が山上の説教で言われたことの実践だ。マタイ5:23-26。主はすべてに優先して、全力で和解するように努めなさいと命じておられる。アビガイルはそれを実践している。

20-22節。ダビデはすっかり頭に血がのぼっている。ナバルのものを守ってあげたことを無益だと言っている。人間は恩知らずなことは確かにある。しかし、善を行っても無益ということは決してない。神が見ておられる。天で報いがある。しかも人間から良い報いを受けなかった分、その報いは豊かにある。そのことを忘れてはならない。
またダビデはナバル一人のみならず、直接ダビデを侮辱しなかった人々も全員滅ぼし尽くそうとしている。これは行き過ぎだ。ダビデは完全に頭に血が上っていて、非常にかたい決意で、ナバルに属する者を滅ぼし尽くそうとしている。これをくつがえすにはよほどの知恵深い対応が必要だ。そして、アビガイルは完璧な対応をするのだ。

23-31節。まず、アビガイルはひれ伏して、第一声で謝罪している。アビガイルがダビデをののしったわけではない。だからといって、アビガイルは「私は悪くない!」という態度をとらず、誤った。夫婦は一体であり、連帯責任がある。夫の不始末は妻の不始末でもあるということで、アビガイルはダビデに謝った。続いて、ダビデに傾聴を呼びかけ、夫のナバルが愚か者で全面的に悪いのであり、自分はナバルの発言に同意していないと釈明した。そして、ダビデが求めていた食料を贈り物として惜しみなく提供した。最後に、アビガイルの発言の中で最も優れているのは、ダビデに与えられている主からの祝福についてだ。これは預言だ。
ダビデは主の戦いを戦っている。自分の戦いではない。だから、怒りにまかせて人々を皆殺しにするなどという行き過ぎたことがあってはならない。ダビデには主からの祝福があって守られ、ダビデの敵こそが滅ぼされることなる。だから、すぐに思い通りにならなくてもあくせくせずに、安心してもっとどっしりと構えていればよい。そして、アビガイルはダビデがゆくゆくは主によってイスラエルの指導者、つまり王として立てられることを宣言している。王となる人物が、無実の人の血を流したり、私的な恨みをはらすために自分で復讐したりすることはあってはならない。確かに、人の血を流すという点は、ダビデの責めの一つとなり、それでダビデは神殿を建てたいという志を果たすことを主から許されなかった。ダビデは主によって王として立てられる人物としての自覚が欠けていたのだ。神の民であるイスラエルの王たる者、柔和さと自制心を保たなければならない。ちょっとしたことですぐに頭に血を上らせてはならない。王としての自覚が、罪を犯すことを止めるのだ。クリスチャンも王としての自覚を持たなければならない。クリスチャンは王だ。私たちも預言の御言葉によってその自覚を新たにして王たる者にふさわしい行動を心がけよう。黙示録1:4-6。あなたはイエス様の血によって罪から解放されたか?クリスチャンか?そうであれば、あなたは王だ。王としての品格を持とう。柔和さと自制心を持とう。神によって王に立てられた者にふさわしい言動を心がけよう。主の戦いを戦うのであって、自分の恨みをはらす戦いを戦うのではない。

アビガイルの言葉はダビデを感動させた。このように知恵深い言葉は、人の心を動かし、やわらげ、要望を聞いてもらえるようにする。ナバルのように無暗に人と衝突するのではなく、アビガイルのように知恵の言葉や預言によって人々の心をつかむ者となろう。

32-35節。ダビデはアビガイルの聡明な言葉と預言に感動して、主を賛美し、アビガイルをもほめた。そして、アビガイルの言うことを主からのものとして受け入れて、復讐をすることを思いとどまった。主は、このときアビガイルを通してダビデに語られた。私たちが未熟さゆえに肉の思いに振り回されて過ちを犯しそうなとき、主は、時には心に御霊の思いを直接語り、時には御言葉を通して語り、時には人間からの助言を通して語り、止めてくださることがある。私たちはそれを主からのものとして耳を傾けて柔和さと自制心を取り戻すようにしよう。

何も知らないナバルは上機嫌だった。しかし、それも酔いがさめるまでのことだった。36-38節。世の中で好き勝手にふるまっている人々がうらやましく感じたり、憎く感じたりすることはあるか?そんなことを感じる必要は全くなく、むしろ憐れまなければならない。王ではないナバルが大宴会を開いて上機嫌になる姿は、世の人々のつかの間の栄華をよく表している。世の人々は神を知らなくても楽しそうに見えるが、そうしている内にも神の裁きが進行中なのだ。真実を知れば真っ青になるし、死が世での享楽を終わらせて恐ろしい裁きをスタートさせる。ダビデをののしってからたったの10日でナバルは死んだ。主が打たれたということは明白だった。ダビデが自分で復讐する必要は全くなかった。

39-44節。アビガイルはダビデの妻となった。ダビデは自分の肉の思いを止めてくれる人と親密になることを求めたのだ。聡明なアビガイルはダビデの事業についても、判断についても何かにつけてダビデを助け、支えただろう。私たちも王として歩みを助けてくれる聖霊様と主の御言葉を取り次ぐ預言者に親しむ者となろう。それは大きな助けになるに違いない。

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