あれは殺されることはない[サムエル上19章]

サムエル記
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サウルの預言はズバリ的中しました!\(^_^)/

あれは殺されることはない[サムエル上19章]

あれは殺されることはない[サムエル上19章]

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【ノート】
サウルのダビデに対するねたみは、町の女たちの歌によって燃え上がった。「ダビデには万、私には千、後は王位を与えるだけか!」そこで、サウルはダビデに対して、槍の攻撃、遠ざけること、罠にかけてペリシテ人の手で倒されるようにする計略をしかけたが、ダビデには何一つ効き目がなかった。逆にサウルの策略は裏目に出て、ダビデが出世して、王位を得るための道筋をつくってしまった。サウルは、これらの事柄の背後に主がおられることを悟っていた。それならどうするべきだったか?途中で悔い改めて、主の御心に従って、王位をダビデに譲ることを認めることだ。サウルはまだ、この時点で悔い改めることが可能だったと信じる。しかし、サウルはいよいよ後戻りできないところまで進んでしまう。主のなさることにあくまでも反抗しようとする。自分の王としての権力を総動員して、ダビデを殺害することを命令したのだ。このことによって決定的になっていくのは、ダビデの死ではなく、サウルの死だ。

1-6節。ヨナタンの執り成しがあった。このヨナタンのやり方によって、執り成しの方法を知ることができる。執り成しとは、二者の間に入って仲裁することだ。ヨナタンはダビデに危機を知らせて隠れ場に隠し、自分の父であるサウル王に向かってダビデをかばって話した。このことから、執り成し手は、立場の弱い者を自分の背後に置いて安全を確保し、立場の強い者に向かって弁明して話すのだということがわかる。イエス様もそのように執り成してくださっている。ヘブライ7:25。父なる神と私たちの間にイエス様がおられる。イエス様は執り成しをされるとき、どちらを向くか?私たちを愛して御自分の背後の安全な場所に隠して、父なる神の方を向く。そして、両手を広げて、かばっていう。「彼らは自分が何をしているのかわからないのです。彼らの罪は私がすべて背負いました。彼らは私を信じているので、私に免じて憐れんでください。」そのイエス様の執り成しによって、私たちは恐れることなく父なる神に近づくことができる。私たちが誰かのために祈るときも、そのようでなければらならない。執り成しはすべての人のためにするように書いてある。Ⅰテモテ2:1。執り成しの祈りをするときは、その相手に対する悪口を言ったり、欠点をあげつらったりしてはいけない。そうではなく、同情の心をもって、ゆるしと祝福を祈るのだ。

さて、ヨナタンの執り成しの中で、ダビデがサウルに対して罪を犯していないこと、むしろ役立っていること、ダビデを殺害したらサウルが罪のない者の血を流す罪を犯してしまうことになることを説いた。罪のない者の血を流すことは大きな罪なのだ。罪のない救い主イエス様の血が流されなければならなかったということは、それだけ私たちの罪が大きかったということがわかる。

理路整然とした執り成しをサウルは素直に聞き入れた。そして、主にかけて誓って、「彼を殺しはしない」と言った。主にかけて誓っているので、サウルは嘘をついているのではない。真面目に、本気で言っているに違いない。問題は、人間の意思の力や誓いによっては、罪の誘惑に勝つことができないということだ。「彼を殺しはしない」というのは根深い問題の表面的な部分にのみ焦点をあてている。ねたみの霊によって影響を受けている場合は、ねたみの問題に対して根本的な対処をしなければ、ねたみを引き起こす状況に直面するとまた同じことをしてしまう。7-10節。ヨナタンとダビデはサウルの誓いを信頼した。ダビデはそれまでと同じようにサウルに仕えた。しかし、ダビデがまたペリシテ人との戦いで活躍すると、再びサウルのねたみが燃え上がる。サウルの内にいる悪霊が躍動する。それはもうダビデの竪琴の演奏ではおさえられない。またもサウルはダビデに槍の攻撃を加えようとした。ダビデは今度もかわした。

それでは、ねたみの問題への根本的な対処はどうすれば可能なのか?まず、聖書の御言葉による真理を受ける。ヨハネ3:27。誰か優れた賜物を持つ人がいれば、それは主がその人に与えたものであって、ふさわしいこと、正しいこと、主の主権によるものであると受け入れて主をほめたたえる。Ⅰコリント4:7。高慢な心がねたみを生む。そもそも私が持っているものはすべて主から与えられたものであるという事実によって謙遜になり、ねたみの根を摘む。ローマ12:3-5。慎み深さが必要である。足りない部分は他の人に補ってもらう。強い部分用いられ、足りない部分で愛される。Ⅱコリント8:12。私たちはただ自分の持っているものに応じて受け入れられる。だから、他人と比較する必要はない。イザヤ43:4。自分自身が他人をねたむ必要がないほどに主に愛されていることを知ることだ。そして、自分の持つねたみの問題を罪として認めて神に告白して、イエス様の血潮によって清めていただく。祈りの中で、ねたんでいた相手を赦し、愛し、祝福し、尊敬することを宣言する。イエス様の御名によってねたみの霊に出ていくように命じる。真理を自分に丁寧に適用する。罪を告白し清めていただく。信仰を宣言し、悪霊に出ていくように命じる。これらはすぐにできることもあれば、ある程度時間を要することもある。性急にインスタントに行おうとするのではなく、継続的に時間をかけて、確かに解放されるまで続けることだ。

ただ誓うだけ、決心するだけでは、解放は起こらない。弱い人間は根本的な問題を放置したまま、誓うことによって解決しようとして失敗する。だからこそ、イエス様は一切誓ってはならないと言われたからだ。

しかし、サウルの誓いは、おもしろいことに、一面、成就していく。サウルのダビデに対するねたみは解決されなかったが、彼が語ったことは実現した。新共同訳では、「彼を殺しはしない」となっているが、新改訳聖書第三版では、「あれは殺されることはない」となっていて、こちらの方が直訳に近い。つまり、サウルは意図せず、自分がどんな手を使ってダビデを殺そうとしても「殺されることはない」と預言したのだ。サウルがどうして預言できるのか?サウルが聖霊様の油注ぎを受けたとき、預言者たちの一団の中に加わって預言する状態になったことがある。それで、人々は「サウルも預言者の仲間か?」と言った。この章では、まずヨナタンの執り成しによって難を逃れ、続いて槍の攻撃はうまくかわせた。サウルの追撃は続くが、主の計らいによって次々と助けてくれる人が与えられて守られる。

11-17節。サウルは気まぐれで槍で突き刺そうとしただけでなく、暗殺者を送ってダビデをしとめようとする。ミカルはサウルの娘であり、ダビデの妻だった。父と夫の間の争いで板挟みの難しい状況に立たされた。ミカルは父に逆らってダビデを逃がすことを選んだ。ダビデを愛していたからだ。ミカルは父サウルに道具として利用されてダビデと結婚したが、もともとダビデを愛していた。ダビデは王から逃げることをためらっていたが、ミカルの方が機転をきかせて、ダビデを逃がした。ミカルは危険を犯してダビデを助けた。しかし、この愛は残念ながら実を結ばない。ダビデとミカルの関係は、このときがピークで、これを境に徐々に離れていく。その点がヨナタンと大きく違う。一つには、男女の間での愛の難しさがあるかもしれない。あるいはミカルの主に対する愛と信仰が足りなかったのかもしれない。

18-24節。今度はダビデはサムエルに助けを求める。サムエルはダビデをかくまい、サウルからの追手が来ると知りながら、逃げも隠れもせず、自分の本拠地のラマのナヨトにとどまった。場合によっては、サウルの軍勢とサムエルの預言者の一団が正面からぶつかる紛争になりかねない緊迫した状況だ。しかし、平和の霊である聖霊様は誰も血を流さない解決方法をご存知だった。ダビデを捕らえようとする追手は、サムエルを先頭とする預言者の一団に出会って、預言する状態になった。それで、追手としての役割を果たすことができなくなった。これは今でも、聖霊様が激しく働く集会で起こることだ。そういう集会に対しては、反対も起きる。中には「あれは狂信者集団だ。主の御名を汚している。悪魔の力によるものだ。まやかしだ」と決めつけて、集会場に行って叱りつけてやろうと乗り込むが、その人も聖霊様の力に打たれて倒れたり、異言や預言を語ったりする。それで、対決するために乗り込んだのが、逆に「これは本物だ」と証しする人に変えられる。その変化は不毛な議論にはよらないし、当然暴力によるものでもない。ただ神の力によって平和的に証明される。Ⅰコリント4:19-20。この解決がいつもできたらと願う。

サウルは三度も追手を差し向けたが、全部同じことになった。そこで、最終的に自分でラマに乗り込むことにした。王の自分なら、なんとかすることができると思ったのだろうか。しかし、聖霊様の力に抵抗できる人はいない。サウルはなんと預言する状態になると着物を脱いで裸になってしまった。これはいったいどういうことか?裸になるというのは悪霊から来る影響だろう。レギオンにとりつかれたゲラサ人は裸だった。また、それは、サウルの霊的な状態を示しているのだろう。サウルはイスラエルの王だったが、霊的に裸の状態で恥をさらしていたのだということ。私たちの社会での肩書、経歴、立派の衣服、資格や受賞した賞、つき従う人々の数などというものは必ずしも霊的状態を反映してはいない。教会での役職すらも、霊的状態を反映しているとは限らない。人がうらやましがるもので飾っても、神様の御前では、裸の恥をさらしている状態かもしれない。そういう状態だと、サウルのように平安がない。私たちはむしろ、他に何もなかったとしても、罪を悔い改めて、キリストの義の衣をしっかりと身に着けて、主にある平和の内に歩むものとなろう。

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