レギオンを追い出す[ルカ8:19-39]

ルカによる福音書
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イエス様は一人の人の解放のために、嵐の湖を横断されます。
イエス様にはどんな大勢の悪霊が束になってかかっても歯が立ちません。

レギオンを追い出す[ルカ8:19-39]

レギオンを追い出す[ルカ8:19-39]

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【ノート】
19-20節。イエス様はあまりも人気だったので、群衆にはばまれて簡単には近づくことができない。イエス様の周りに弟子たち、弟子たちの周りに群衆がいた。それは人気のタレントの周りにSPがいて、その周りをおっかけのファンが取り囲むような感じだ。それで、イエス様の家族すら、イエス様に近づけなかった。普通は、群衆にはばまれて近づけなかったら、人がはけるまで忍耐強く待たなければならない。しかし、イエス様の母と兄弟たちは、自分たちはイエス様と特別な関係なのだから、家族なのだから、ほかの人たちとは違う。優先的にイエス様と会って話す当然の権利があると思った。知らせをした人も、そう思った。母と兄弟たちはイエス様の家族だから、イエス様は当然ほかの人たちよりも優先して対応すると思った。

ところがイエス様の答えは違った。21節。イエス様にとって、血のつながりによる家族は、家族ではなかった。イエス様にとっての家族は、神の言葉を聞いて行う人だ。ということは、誰にでもチャンスがあるということ。私たちが、御言葉を行うなら、イエス様は私たちと特別に親しい間柄になってくださる。イエス様と私たちは近い距離で過ごし、よく会話し、互いのことをよく知り、通じ合い、同じ価値観を持ち、利害関係を共有する。それは、御言葉を行う人同士の間でも起こる。イエス様と私たちは最も緊密な共同体となる。それが教会のあり方だ。あなたはイエス様とそんな親しい間柄になっているだろうか?

逆に、自分たちは当然家族だからイエス様に近づけると思っていた母と兄弟たちはあてがはずれた。一見、イエス様の血縁による家族に対する態度が冷たいように見える。しかし、そもそも母と兄弟がこのときに何をしにきたのかを考えればイエス様の対応に納得がいく。マリアはともかく、イエス様の兄弟たちは、イエス様を信じておらず、イエス様を軽蔑していた。自分の兄がキリストだということがどうしても信じられず、聞こえてくるいろいろな話についてうんざりしていたのだ。また、一度は身内の人がイエス様を取り押さえに来たこともあった。マルコ3:21。母と兄弟たちも、イエス様の働きを応援するのではなく、心配して、良かれと思っていろいろと妨げとなることをしようとしていたことだろう。
たとえ家族であっても、イエス様を妨げる者は、イエス様に近づくことができない。同じように、たとえ教会に通っていても、教会の役員でも、牧師や伝道者をしていても、そのことだけで自動的にイエス様に近づくことができるというわけでもない。ただ、御言葉を聞いて行うということ以外にその方法はないのだ。御言葉を聞いて行い、イエス様とどんどん親しい間柄になっていこう。

22-23節。イエス様が「湖の向こう岸に行こう」と言われた。それまでイエス様はずっと働き詰めだった。群衆たちに取り囲まれている中で教え続けた。イエス様は船の中でぐっすり眠りについた。イエス様はその船の運航について、何の心配もしていなかった。イエス様は全面的に父なる神様を信頼していたのだ。
さて、「湖の向こう岸に行こう」と言われたのはイエス様だ。イエス様の御言葉には権威がある。私たちが自分勝手にしようとすることは、沈没することが大いにあり得る。しかし、イエス様が言われたからには、イエス様の乗っている船は絶対に向こう岸につくことができる。弟子たちは実は全面的に安全が保証された船に乗っていた。しかし、それは、イエス様が乗っている船に何の困難も生じないということではない。嵐が起こることはあるのだ。ガリラヤ湖は海抜マイナス213mもの低い場所にある。そして、周囲の土地は湖面よりもずっと盛り上がっていて、さらに高い山がいくつもそびえる。その山から冷たい風が吹き下ろしてきて、嵐になることがよくあった。嵐は、人間の力では絶対にどうすることもできない脅威だ。イエス様の言う通りにすれば、何の困難もない。嵐はないということはない。嵐が襲ってくることはある。イエス様が共におられれば、嵐を静めることができる、対処することができると保証されているのだ。

24-25節。弟子たちはあわてふためいてイエス様を起こした。イエス様はずっと冷静だ。イエス様が命じると風と荒波が静まってすっかり凪になった。イエス様の内にある平和が、外の世界に解き放たれたのだ。弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう」と言った。弟子たちはずっとイエス様と共にいたのに、改めて、「いったい、この方はどなたなのだろう」と言わねばならなかった。その自然界をコントロールするというのは、神独自の権能だ。このことを通して、イエス様は御自分が天と地を支配する神であることを表しておられる。
イエス様は「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と問われた。嵐が来るのは仕方ない。しかし、弟子たちがそれですっかり気を動転させてしまったことは問題だ。主に対する信仰が足りなかったので、嵐に心までも乱されてしまったのだ。父なる神とイエス様に対する堅固な信仰を持っていれば、たとえ外側が嵐であろうとも、自分の内には平和を保つことができる。主に従っているならば、何があってもうろたえずに、ひたすら主に信頼していることが信仰だ。そうしないであたふたすると、主による解決を体験できず、事態を悪化させてしまう。イザヤ30:15。人間関係のこと、健康のこと、経済のことなどで、悪い状況に直面する、悪い知らせが届くことがある。自分の力では絶対にどうにもできないことに直面することがある。そのとき、天地がひっくり返ったかのようにうろたえて、感情の激流に心を任せてはならない。もしあなたがイエス様に従っているのなら、動じることはない。落ち着こう。主を見上げ、主を信頼し、主の御手にゆだねよう。主が良くしてくださる。そうすれば、イエス様は嵐を静め、すっかり凪にしてくださり、あなたを守ってくださる。

26-29節。ゲラサ人の地は、ガリラヤ湖の東側にある異邦人の地だ。イエス様がこの地を訪れた目的は、この悪霊にとりつかれた人の解放のためだった。イエス様は一人の人が悪の力から完全に解放されるためなら、喜んで嵐の湖を横断するのだ。イエス様は私たちをも完全に解放してくださる。この人の特徴を見てみよう。
第一に、完全に正気を失い、悪霊に体の制御を乗っ取られていた。悪霊から影響を受けている人は多いが、ここまで支配される人は多くない。
第二に、それは一時的なことではなく、もう長い間続いていた。悪霊の問題は時間の経過によって自然に何とかなるものではない。対処しなければ、いつまでも継続する。
第三に、衣服を身に着けず、裸の状態だった。悪霊は羞恥心について無感覚にしてしまい、誰の目もはばからずに悪を行わせるようにしてしまう。
第四に、墓場を住まいにする。墓場というのは、死者の骨で満ちており、触わると汚れてしまう。悪霊は汚れた場所にずっと人をとどまらせようとする。
第五に、悪霊はイエス様の正体を知っていて恐れた。ゲラサ人の地は異邦人の地だから、イエス様のことはあまり知られていなかった。しかし、悪霊には霊的なネットワークがあり、サタンの誘惑を退け、次々と悪霊を追い出すイエス様の存在は大いに有名になっていた。
第六に、周囲の人々は誰も対処をすることができなかった。人々は霊的に対することに無力だ。そこで、悪さをしないように、監視すること、鎖や足かせで封じ込めることを狙ったが、無駄だった。霊に対しては霊的な対処が必要だ。
第七に、悪霊にとりつかれた人は超人的な力を出せる。私たちの体は、限界まで力を出せないように制御されている。なぜなら、限界まで力を出すと、体が壊れてしまうからだ。骨や筋を傷つけてしまう。しかし、悪霊は宿主の体のことはお構いなしにぞんざいに扱ってしまう。
第八に、悪霊はその人を荒れ野に駆り立てた。悪霊にとりつかれた人が荒れ野に行くとどうなるか?誰も助けてくれる人がいなくなり、いよいよ解放が難しくなる。悪霊はその人を人間社会から孤立無援させて、ずっと自分のものにしようとする。
イエス様以外に対処のしようがない。イエス様の対処を見てみよう。

30-31節。イエス様はまず悪霊の名前を聞いた。名前を聞けば、どんなことがきっかけでその人にとりついたのかがわかる。その罪を告白することによって解放が得られることもある。しかし、注意が必要なのは、悪霊は嘘つきなので、その答えがあてにはならないということだ。もし悪霊の答えがおかしい場合は、叱りつけて、もう一度名前を聞いてみると良い。
その悪霊の名前はレギオンだった。レギオンはローマの軍団のことで、1つの軍団には5,6千人もの兵がいた。つまり、数千の悪霊がこの人にとりついていたのだ。悪霊が複数とりついている場合もある。そういう場合、悪霊の追い出しをして部分的に解放されても、まだ何体か残っているということもありうるので注意が必要だ。イエス様一人対数千の悪霊という構図がここにあるが、レギオンの方は最初から降参している。イエス様と戦おうともしていない。つまり、どんな大勢の悪霊が束になってかかってもイエス様には勝ち目がないということだ。悪霊は底なしの淵に行くように命じられることを恐れている。この底なしの淵とはどんな場所なのか?それは悪霊どもを閉じ込めておく刑務所のような場所だ。黙示録を読むと、アバドンが出てくるのが底なしの淵で、サタンが1千年閉じ込められるのも底なしの淵だ。悪霊は、神からの刑罰として送られる場所について恐れおののき、イエス様に懇願している。悪霊は霊であり、そのおそろしさをよく知っているからだ。それであれば、私たち人間も神が罪の報いとして送る場所、地獄について恐ろしい場所だと認識するべきだ。そんな場所に行くことにならないように、イエス様に懇願するべきだ。そうすれば、それを避けることができる。

32-37節。この内容を読んで、「豚がかわいそうだ、イエス様もっとやりようがあったのではないか」と思う人がいるかもしれない。でも、豚がおぼれて死ぬようにしたのは、悪霊であって、イエス様ではない。イエス様を非難するのは的外れだ。ゲラサの人々も、恐ろしさのあまり、イエス様に出ていくように願うという的外れな対応をしてしまった。自分の理解しがたいことが起こると、何であってもとりあえず遠ざけるというのは、良くないことだ。それが神様からの良いことであれば、祝福を遠ざけてしまうことになる。
豚のこと、理解できないことが起こったこと、それよりも何よりも、私たちが注目すべきなのは、一人の人が救われたということだ。その人が服を着て、正気になってイエス様の足もとに大人しく座っている姿には、悪霊にとりつかれていたときの面影は何もない!もうすっかり解放されていた。誰も全く手の施しようがなく、束縛されてしまっていて、絶望的な人生を送っていた一人の人が、イエス様によって一瞬で完全に解放された。ハレルヤ!あなたの周りに、絶望的な状態の人はいるだろうか?イエス様はその人も解放することができる。神があなたを遣わされる。イエス様の御名によって悪いものを追い出し、御言葉を伝え、祈ってあげよう。
イエス様はゲラサの人々の要求を聞き入れて、船に乗って帰ろうとされた。イエス様が船から降りてすぐにこのことがあったので、本当にイエス様がゲラサに来たのはこのためだけだった。ちょっと観光するとか、おみやげを買うとか、温泉によるということはない!ただ人々を救うためだけの旅行。すばらしい。

38-39節。おもしろいことに、イエス様はレギオンの懇願を聞き入れてあげて、ゲラサの人々の願いも聞き入れてあげたのに、レギオンから解放された人が「お供したい」という願いは聞かなかった。なぜか?解放された人はもう救われている。そして、イエス様に従いたいと願うということはもうイエス様の弟子だ。イエス様は弟子たちにはしたいことをそのままさせるのではなく、御心を行うように命じられる。イエス様に従うということは、何も外国に行って宣教をするということとは限らない。イエス様に従うということは、救われたときと同じ生活圏内にいながら、家族や友人知人に自分の変えられた人生を通して証しすることでもある。イエス様はそのゲラサ人に、自分の家や街々でイエス様を証しすることを命じられた。家族や自分の町の人は、イエス様のことは知らなくてもそのゲラサ人のことは知っている。その変貌ぶりは大きな証しの力となっただろう。

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