サウルの勝利[サムエル上11章]

サムエル記
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旧約聖書の戦いはすべて、霊的戦いに応用可能なものです。

サウルの勝利[サムエル上11章]

サウルの勝利[サムエル上11章]

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【ノート】
サウルはサムエルに油を注がれ、公にも王として立てられた。ただの普通の人が、急に、一躍王になった。いきなり王になったのだから、王家の血筋の人ではない。何か今まですばらしい武功を立てたことがあるわけでもないし、祭司、預言者、知識人など、特別な能力によって活躍したことがあるわけでもない。全くの無名の人だ。何でサウルなのか?わからない。それで、人々の反応はわかれた。主がお選びになった人だというので、喜んだ人、サウルにつき従う人がいた。逆に、「こんな男に我々が救えるか」と侮った人々もいた。そういう人々は「サウルが王になるくらいなら、自分の方がよほど優れているではないか」という嫉妬や高慢の心があったのだろう。サウルはそんなことを気にしなかった。サウルは王になった。しかし、サムエルが人々を家に帰し、サウルも家に帰ったので、今までと同じようにサウルは家畜を飼う者として働いていた。表面上は何ら変化が起きていない。やがて王の実力が示される事件が起こる。主によって、サウルの王権がイスラエルのすべての人に認められるようになる。主に選ばれた人は、主による勝利が約束されている。あなたがイエス・キリストを信じてクリスチャンになったのであれば、あなたは主から選ばれた人だ。あなたの信仰の決断について、良く思う人も悪く思う人もいるだろう。しかし、主があなたを選んだということは、あなたに勝利が約束されているということを覚えよう。

1-3節。ヤベシュはヨルダン川の東側のギレアドの地にある街だ。ギレアドはモアブ、アンモンと国境を接していて、時々紛争となることがある。
アンモン人のナハシュは降参を申し出ているヤベシュの住民に対して、右目を抉り出すと、残酷な仕打ちを条件とした。それで、イスラエルを侮辱するためだが、それは主に対する侮辱だ。主は御自分の民に手を出すことを、御自身の瞳に触れる者とみなされる。ゼカリヤ2:12。誰かがあなたの瞳に触れようとするなら、あなたはどうするか、目を閉じて、それを防ぐだろう。防衛反応に出る。主は御自分の瞳のように愛する人々に触れようとするアンモン人のナハシュに黙ってはおられない。
ヤベシュの人々は七日間の猶予と使者を遣わすことを求めた。ナハシュはこれを許可した。そうでなければ、包囲されているヤベシュから使者を遣わすことはできない。ナハシュはイスラエルを侮り、「ヤベシュを救うことができる者などイスラエルにはおるまい」と高をくくったのだ。

4-10節。サウルはベニヤミン族の人だ。ベニヤミン族とヤベシュには少なからぬつながりがある。ベニヤミン族が大きな犯罪を犯してイスラエルから攻められるとき、ヤベシュの人は誰もイスラエルからの召集に応じなかった。ヤベシュはベニヤミン族を責めることを良しとしなかったのだ。それで、ヤベシュは滅ぼされ、その町にいたおとめがベニヤミン族の戦士たちの内の生き残りの600人中の400人の妻となる。ということはベニヤミン族の3分の2の人は、ヤベシュと血のつながりがあるということだ。
民たちはみな、ヤベシュに状況について泣いた。泣くということは、イスラエルの不幸を悲しんだということだが、そこにはあきらめや無力さがある。誰もヤベシュの救おうとして立ち上がろうとはしなかった。それは王の役割だ。ヤベシュについての報告を聞いたサウルの上に、神の霊が激しく降った。サウルは聖霊様にうながされて、怒った。聖霊様は鳩に象徴される平和、柔和さを特徴とするが、時に、義のための怒りを表されることがある。イエス様が強盗の巣となっている神殿の様子を見て怒ったのと同じだ。聖霊様は敵であるサタンが愛してやまない人々を苦しめ、滅ぼしていることに対する聖なる怒りを私たちの心に植えることがある。それは当然の怒りであって、そのような怒りだけが義憤だと言える。主が私たちのためにサタンに対して怒っておられる!これは神の民として非常に心強いことであって、私たちは聖霊様によってこの怒りに同調しよう。日本がサタンに食いものにされている現状について、あきらめてしまったり、無力さをただよわせてしまったりしてはいけない。怒り、その現状を覆すべく燃える心で祈り、霊の戦いに勝利しよう。
サウルがとった方法は、牛を使者に持たせて、イスラエル全土に送り、イスラエルの人々を脅して、戦いに参加させるということだった。このときのイスラエルは、腰が砕けていて、ただではなかなか召集に応じなかったのだろう。これが効果を発揮した。7節では、「民は主への恐れにかられて一丸となった」と書いてある。それはサウルへの恐れではなく、サウルを王に立てた主への恐れだった。7日間しかないにもかかわらず、集まった人数は33万人だ。これはどの士師が戦いに召集した人数よりもずっと多い。ここにサウルの王として人々を戦いに動員させる賜物が発揮されている。
サウルは戦いを始める前にヤベシュの使者に伝言を持たせた。「明日の日盛りのころ、あなたがたに救いが来る」というサウルからの伝言を聞いたヤベシュの人々は喜び祝った。この伝言は良い知らせ、福音だ。クリスチャンは救いの訪れを告げる福音を伝えて人々に主による勝利の喜びをもたらす。それで、戦う前から勝利を先取りすることができるようにする。私たちが伝えるべき福音は、2000年前に罪からの救い主イエス・キリストが来たということ、そして、やがてイエス・キリストが再び来られて、救いが完成するということだ。
こうして、人々の感情は聖霊様によって動かされたサウルを中心に目まぐるしく動いていく。悲しみ、怒り、恐れ、そして喜びだ。

11節。サウルは軍事的な戦術もしっかりと立てている。まず、民を三部隊に分けている。これは役割の違いだろう。正面からの攻撃部隊、側面攻撃の部隊、伏兵などだ。そうやって、たたみかけ、敵を全滅できる布陣にした。攻撃の方法はイスラエルのお得意の夜襲だ。アブラハムもギデオンも夜襲で勝った。朝の見張りの時刻、まだ暗いころに攻撃をしかけ、日が高く上る時刻まで打ち続けた。イスラエルの完全勝利だ。
これを霊的な戦いに応用しよう。教会でも、執り成しの祈りチーム、伝道チーム、メッセンジャー、小グループなどいくつかの役割のチームが協力して勝利を得る。また、朝の早い時刻からの祈りは効果的なダメージが与えられる。朝に祈りによって勝利にすれば、日盛りのころ、つまり日中私たちが活発に活動するときに、主の御業をみることができるだろう。
また、この箇所は預言的でもある。攻撃は朝の早い時刻から日が高く上るころまで続いた。サウル王による救いは夜明けごろに始まり日が高く上ることに完全に実現したということ。ヨハネの黙示録でイエス様は御自分のことを明けの明星と呼んでおられる。黙示録22:16。暗闇に包まれた困難な時期が続いた後、イエス様が夜明けのときにだけ見える明けの明星のように再臨して、悪を滅ぼし、世界に光がもたらされるということ。そして、マラキ書ではイエス様のことを義の太陽が上ると書いてある。マラキ3:20。イエス様が再臨してすべての悪を滅ぼして、神による義が完全に打ち立てられて全地を覆うということ。サウル王による救いは、やがて王の王として来られるイエス様による救いを暗示している。

12-13節。民は勝利をサウルの手柄とみなした。しかし、サウルは言っている。「今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われたのだから」と。サウルは適切に勝利の栄光を主に帰している。

14-15節。こうして、サウルは主によって勝利し、すべての人がサウルを認め、大いに喜び祝った。このときから王国が本格的に興され、サウルはもはや牛を追うものではなく、王として君臨し、イスラエルの統治と軍隊の指揮に専念するようになった。主に選ばれた者は主によって勝利を得る。そのことを信じよう。
サウルのここまでの歩みは非の打ち所がないものだ。もしここまでで王としての歩みが終わりであれば、サウルは名君であり、良い王として記憶された。しかし、信仰者の歩みは天の都に入るまで続く。私たちはそこに至るまで勝ち続けなければならない。後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスによって上に召してお与えになる賞を得るため、目標を目指してひたすら走らなければならない。それが、サウルと同じ名前の使徒が書簡に残した言葉だ。時に失敗や挫折があっても立ち上がり、罪を悔い改めて、また主に従わなければならない。サウルはそれができなかった。この後からサウルの転落を見ることになる。それを読み、私たちは同じ失敗をしてしまわないための教訓とし、糧としよう。

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