ほかの国々と同じように王を立てよ[サムエル記上8章]

サムエル記
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神の民としてアイデンティティを大切にしましょう(^^)/

ほかの国々と同じように王を立てよ[サムエル記上8章]

ほかの国々と同じように王を立てよ[サムエル記上8章]

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【ノート】
サムエルの指導の下、イスラエルには国家的な悔い改めによるリバイバルが起こった。イスラエルが主に心を尽くして立ち帰ったので、主はサムエルの執り成しの祈りにこたえてペリシテ人を撃退した。そして、主の御手による守りは、サムエルが中心にイスラエルを導いていた間、ずっと続いた。それで、イスラエルは長い間平和を享受することができた。しかし、イスラエルの先行きに影を落とすことが出てきた。

1-3節。二つの問題が書いてある。一つは傑出した指導者サムエルの老いだ。どんな優秀な指導者でも、人間であれば絶対に避けられない。いつ偉大な指導者サムエルが亡くなるかわからない!サムエルがいなくなったらイスラエルはどうなってしまうのか?またペリシテ人に苦しめられる時代に逆戻りするのではないか?それがイスラエルを不安に陥れた。

偉大な指導者がいなくなるとしても、しっかりとした後継者がいれば安心できる。サムエルはそこで、息子のヨエルとアビヤを裁きを行う者として任命した。ヨエルは「主は神」という意味の名前。アビヤは「主はわが父」という意味の名前。どちらの息子も名前からすれば優秀な信仰者となり、指導者となりそうだ。しかし、ヨエルとアビヤはサムエルと違って悪い人々で、裁き人としての立場を悪用した。賄賂をとって、その人に有利な裁判をしたのだ。エリの息子たちのような失態が、サムエルの息子たちにも繰り返されているように見える。どうしてこんなことになったのか?サムエルは巡回伝道者のようにあちこちをめぐって民のために尽力した。それで、家庭のことがおろそかになってしまったのかもしれない。あるいは、偉大な父の存在というプレッシャーに、息子たちが押されてしまったのかもしれない。どちらにせよ、世襲制で優秀な指導者を輩出し続けることの難しさがわかる。非常に残念なことだが、有名な牧師の子供たちが不良になったり不幸になったりすることは、現代の教会でも見られることだ。しかし、一つ考慮しないといけないのは、主はエリの息子たちを理由にエリに裁きを宣告したのと違い、サムエルの息子たちの不正については、特に追求をしていない。賄賂もとんでもない罪には違いないが、主はエリの息子たちが献げ物をないがしろにしたことほどには悪とみなしていないことがわかる。すべての人が主の御前で罪を犯した。主はその罪の重さを一緒くたにはなさらず、一人一人についてしっかりと見定めておられる。しかし、人の目には同じことだ。後継者に難点がある!このことによって、イスラエルの不安はますます強くなった。「エリの息子たちのときのような、悪夢が繰り返されてしまうのではないか!」不安は、人を不信仰に陥れる。大切な真実を見えなくしてしまう。イスラエルは人間の指導者のことばかりに目を向けて、これまで国を守ってくださった真の王である主がいつも共におられるということを忘れてしまった。今まで主は助けてくださったのに、イスラエルはエベン・エゼルを忘れ去った。それで、悪い要求をサムエルに対して行った。私たちは人間を見て不安に陥るのではなく、主を見て、ゆるぎない希望を持つ者となろう。

4-5節。ここでイスラエルは3つのことを言っているが、全部サムエルの心に突き刺さることだった。それまでイスラエルのために尽力してきたサムエルに対してあまりにも心無い言葉ではないか。

一つ目は「あなたは年をとった。もう以前のような能力はないし、活躍することは到底望めない。引退の日は近い。」自分はまだまだやれると考えている人にはきつい言葉だ。人からこういうことを言われたらどうすればいいのか?それに絶対に屈しないことだ。サムエルは屈しなかった。自分の年齢や衰えのことは認識していたが、だからといって主に仕えることをあきらめはしない。実際のところサムエルは生涯現役で、この世を去る日までまだ十数年あった。そして、サムエルは若い時よりも、人々が「年をとった」と判断した老年にこそ最も重要な働きをする。
主は人を用いる上で若さも能力も必要としない。アブラハムも、モーセも、年をとってから用いられた。私たちはこの世でまだ生命を保っている限り、この世を去る日まで誰からどんな評価を受けたとしても、主に仕えることができる。たとえ外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされる。あなたが何歳だとしてもあなたはまだまだこれからだ。

二つ目は「息子たちはあなたの道を歩んでいない。預言者なのに、家庭で一体どんな教育をしてきたのか?」これに対してサムエルは何ら抗弁をしていない。これは確かにサムエルの弱点であり、認めるしかなかった。

三つ目は「ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立てよ」だ。まずイスラエルはサムエルの息子たちによる支配を拒否している。そして、サムエルの息子たちに代わって別の士師を立てることを望むのではない。「ほかのすべての国々のように」王を立てることを要求している。これは主によって統治される特別な神の民としてのアイデンティティを放棄するということだ。塩味を失うようなこと!イスラエルは幻想を抱いていた。「ほかの国々のように訓練された軍隊を組織する王が常に君臨していれば、ペリシテ人をはじめとする異民族の侵入に対抗できる。」イスラエルは王の軍事力によって自分たちの生存の保障を得ようとした。これは幻想だ。王政も世襲制だ。エリの息子たちやサムエルの息子たちのように、悪い後継者が王となることは常にある。その権力が強いだけのその弊害は士師のときよりももっと大きくなる。イスラエルはそのことをよくわかっておらず、ただ目に見える王の軍隊によって安心を得たい一心でこのように願っている。私たちはこの世に倣ってはならない!私たちはこの世のものは人であれ物であれ、何であっても、万全な保障を与えるものではないと心得なければならない。人知を超える平和を与えてくださるのは、ただ主だ。主の民としてのアイデンティティを大事にし、主の御言葉への信仰と従順こそが決して倒れず、失われない堅固な家を建てるのだ。

6-8節。サムエルは自分に対する評価についてさておき、王を与えよという要求を悪とみなした。しかし、自分の印象だけで判断せずに、主の指示を仰いで主に祈っている。私たちも重要なことを決めるときは、自分の直感や他人の要求だけに頼らず、祈りと御言葉によって主から答えをいただくようにしよう。

主の答えはサムエルにとって意外なものだった。主も、サムエルと同じく、イスラエルの要求を悪とみなした。にもかかわらず、主は、「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい」と王を立てることを許可する。その理由の一つは教訓とさせるためだ。主は私たちが主の目に悪とされることを強く望むとき、主はあえてそれを許可して、祈りに答えてくださることがある。「そこまで望むなら、聞いてあげよう。その結果どうなるか、体験して学んだ方が早いだろう」と。だから、主が祈りを聞いてくださらないことが本当にすばらしい結果となることもあれば、主が祈りを聞いてくださることで非常に手厳しい教訓を学ばされることもある。祈りは答えられても感謝、答えられなくても感謝だ。

王を立てることを許可した二つ目の理由は主のご計画があったからだ。王政についてはすでに申命記に規定がある。申命記17:14。主はイスラエルが王を求めるようになるとあらかじめ知っておられたので、このように規定を設けて御自分の計画の内に入れられたのだ。人間の善し悪しにかかわらず、主の良いご計画は進行する。イスラエルが王を立てようとした動機は悪かったが、背後に主のご計画があったので主は許可した。王政になることでイスラエルは、イエス・キリストの型であるダビデ王やソロモン王を輩出することになった。
主は「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上に私が王として君臨することを退けているのだ」と言ってサムエルをかばってくださっている。サムエルはイスラエルから悪く言われたが、実はサムエルに特別問題があったわけではなかった。サムエルは主に忠実に仕えていたので、イスラエルがサムエルを退けることは、サムエルではなく主を退けることだった。主は御自分の僕の肩を持ってくださる。だから、主に忠実に仕える霊的な指導者を悪く言うことは非常に危険なことだ。人間に対して悪く言っているつもりが、主なる神様に悪口を言っていることになりかねない。気をつけよう。

9-18節。王の権能について、主はあらかじめ警告しておくことで、後で話が違うということができないようにした。その内容は民から奪い取ることだった。息子を戦士や鍛冶職人としてとり、娘を香料作りや料理人としてとり、畑を没収し、奴隷、ろば、羊をも奪い取る。こうして、イスラエルは王の奴隷となり、自分で望んだ王のゆえに苦しんで泣き叫ぶことになる。

このことからわかるのは、第一に、主による統治がいかに自由で、恵まれているかがわかる。イスラエルはここに書いてある王が君臨するがゆえの苦しみを全然経験していなかった。王なる主はただひたすらイスラエルに恵みを与えた。勝利を与え、土地を与え、財産を与えた。だから、本当は非常に恵まれていたのに、その自覚がなかったのだ。それで、あえてほかの国々と同じように王を求めて自分の首をしめることになる。クリスチャンは長いこと信仰生活を送っていると、自分が未信者と比べていかに恵まれているかに無自覚になってしまう恐れがある。そうなると、逆に世のものにあこがれを持ってしまい、自分の身に破滅を招くことになる。クリスチャンは、罪の赦しを受けている、神の子とされている、永遠の命が与えられている、神の愛を受けている、主にある喜びと平和が与えられている、聖霊様の力が与えられている、教会で交わりを持っている、人生の目的がはっきりしている、真理を知っている、信仰の祈りによって求めるものを受けることができるなどなど、多くの点で未信者よりもはるかに恵まれている。その恵みをかみしめて感謝しよう。未信者は私たちが思っている以上に大変だ。束縛されていて、空しく、希望のない人生を歩んでいて、滅びに向かっている。だから、憐れみをもって一人でも多くが救われるように祈りと伝道に励むことが必要だ。
第二に、私たちはここに書いてある王の権能のような権能を使って、人を苦しめてはならない。私たちが職場であれ教会であれ家庭であれ、権威を持ち始めると、その権威を乱用する誘惑を受けることがある。その誘惑を退けなければならない。私たちは確かに王の系統を引く祭司だ。しかし、ここに書いてある王の権能というのは、イスラエルのリクエスト通り、「ほかのすべての国々のような」王の権能であって、御国の王の権能ではない。だから、私たちとは無縁のものでなければならない。サムエルも、その前の士師たちもこのような権威をふるうことはなかった。イエス様は偉くなりたい者は皆に仕える者となりなさいと言われ、その通りに実践された。私たちは奪い取り、力づくで押さえつける指導者ではなく、キリストに倣って、与えて人を豊かにする指導者となろう。

19-20節。民は警告を聞き入れなかった。王についての幻想にとらわれ、我々、我々、我々として、自分に都合の良い偶像のような王を思い描いた。主は未来のことを知った上で警告される。つまり、主が警告されたことに従わないなら、必ず言われた通りにひどい目に遭うということだ。

21-22節。サムエルは再度主のご意思を確認して、王を立てることを確定した。しかし、ふさわしい者を王に立てるには主の方法での準備が必要だ。サムエルはいったんイスラエルを自分たちの町に帰らせた。主が私たちのために備えておられる王、私たちが迎えるべき王はただイエス・キリストだけだ。その方を迎えるにあたって教会を建て上げ、福音宣教を進める私たちになろう。

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