賜物を忠実に用いる

キリストに忠実に仕える
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【ノート】
クリスチャンは、キリストに仕えるように召されている。キリストに仕える上で要求されるのは、忠実であること、自分が信頼に値する者であることを証明することだ。それでは、私たちはどういう点で忠実であることが求められるのか?私たちは、賜物を忠実に用いることが求められている。マタイ25:14-30。
主人はイエス様。主人が旅に出るというのはイエス様が天に昇られたこと。三人の僕は三種類のクリスチャン。かなり日がたってから主人が帰ってくるのはイエス様の再臨のこと。清算はクリスチャンの人生についてイエス様の査定だ。査定の方法は主人から預かったタラントンをどれだけ忠実に用いたか、という点で行われる。それでは、タラントンとは何か?お金の単位だ。当時の1タラントンは6000デナリオン。1デナリオンは1日の労働賃金にあたる。ということは仮に1デナリオンを1万円と換算すると、1タラントンは現代の日本でいうところの6000万円。5タラントンは3億円だ。

このタラントンはtalentの語源にもなっている言葉だ。タラントンには、賜物、つまり神から人への贈り物という意味がある。聖書にはいろいろな賜物が書いてある。預言、奉仕、教える賜物、分け与える賜物、指導、勧め、慈善、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、奇跡を行う力、霊を見分ける力、病気を癒す力、種々の異言、異言の解釈、助ける賜物、執り成しの祈りなど、教会を造り上げ、神の栄光を現すために主から与えられているあらゆる能力が賜物だ。あなたにはどの賜物が与えられているか?三人の僕は全員量は違っていても、賜物が与えられている。賜物が何もない人は誰もいないのだ。あなたにも最低一つは賜物が与えられている。与えられている賜物を知る方法としては、第一に自分がよくでき、それによって神の栄光を現していることは何かを分析すること、第二に聖書に書いてある賜物を実践してみようとすること、これによって知ることができる。

では、与えられている賜物について、私たちはどうすれば良いのか?それを神の栄光を現すために最大限活用することだ。14節にある通り、賜物は主から預かっているものだから、自分のために使ってはならない。自分の楽しみのために使ってしまうならそれは横領だ。100%主の栄光に使わなければならない。そして、それは可能である。15節で主は各々の力に応じて、タラントンを預けたことがわかる。だから、私たちの実力で扱い切れない賜物、手に負えない賜物というのは一つもない。

5タラントン預かった僕と2タラントン預かった僕は、それぞれ与えられている賜物は量が違えど、賜物を最大限に活用したクリスチャンだ。彼らはタラントンを増やすことができた。これは賜物を忠実に用いる者は賜物を増やすことができるということ。一般的に世の中でよく言われていることは、一つの長所だけを伸ばし、一つのことだけに集中することで大きな成果が得られるということ。しかし、御国の原則はそれとは違う。複数与えられている賜物のすべてをフル稼働させて、どんどんカバーしていく領域、分野を増やしていくということが求められる。だから、新しいことに挑戦する精神が必要になる。より勤勉で、より精力的に、知恵深く生きることが求められる。もちろん自分の召命とは明らかに違うことは避けなければならないが、私たちが想像している以上に私たちは主にあって多くのことができるのだ。不信仰になって「私はこれしかできない」と制限してしまってはいないだろうか?そういう代わりに、「主にあってあれもこれもできる」という信仰をもとう。
5タラントン預かった僕に対しても2タラントン預かった僕に対しても、主はそれぞれ全く同じ言葉でほめている。与えられている賜物の量ではなく、忠実さが問われるからだ。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。主はほめておられる。そして、この世で与えられた賜物のことを「少しのもの」とおっしゃっている。5タラントンは3億円相当の価値だが、主にとっては少しのものだ。それは忠実な僕に約束されている多くのものに比べればあまりにも少ない。賜物を忠実に用いた僕に対して主は、御国において、この世で私たちが受け取っているものにはるかにまさる多くのものをまかせてくださる。

しかし、1タラントン預かった僕は、タラントンを土の中に埋めてしまった。賜物をいただいているにもかかわらず、不信仰に陥って、賜物がないかのようにみなしているのだ。1タラントン預かった僕は最低限、銀行に預けておくことくらいはできたはずだ。もしタラントンを全部100%活用できなかったとしても、主は最低限のことさえしていればこの僕をよしとするつもりだったが、それすらしなかった。イエス・キリストを信じたばかりの人であったとしても、賜物が本当に少ないのだという人であったとしても、最低限できることはある。救いの証しをすることはできる。祈ることはできる。励ましの言葉をかけることはできる。水いっぱいを差し出すことはできる。何もできないということはない。
何もしなかったこの僕は実は偽物で、イエス・キリストを信じていなかった。もしイエス・キリストを信じていたら、主が厳しいお方だと知るだけでなく、主は愛のお方であって、私たちの弱さに同情してくださるということも知っていただろう。主が命を捨てて愛してくださったその愛に応えて、たとえ不十分であったとしても何かしようとしただろう。
主の愛が私たちを突き動かす。私たちが主のためにできることはまだまだあるだろう。与えられている賜物を忠実に用いて、主からほめていただく者となろう。

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