契約の箱の大移動[サムエル記上5-6章]

サムエル記
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主はお一人で栄光を御自身の栄光を現すことができます

契約の箱の大移動[サムエル記上5-6章]

契約の箱の大移動[サムエル記上5-6章]

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【ノート】
エリの嫁は男の子が誕生するとき、エリと夫が死に、神の箱がペリシテに奪われたと聞いて、生まれてきた子供をイカボド、栄光は失われたという意味に名付けた。子供が生きていく未来はもうイスラエルにはないのだとみなしたのだ。栄光はイスラエルを去ったとエリの嫁は告白したが、エリの嫁にとっての栄光とはまさに神の箱のことだった。栄光は去った=神の箱は奪われただ。イスラエルにとっての最高の栄光は神の箱に臨んだ主の臨在なのだ。私たちにとってもそうでなければならない。私たちの栄光は、主の臨在だ。私たちは主の臨在を大事にし、イスラエルのように臨在を雑な扱いをして失ってしまわないように慎重な歩みをしなければならない。
しかし、本当に栄光はイスラエルを去ってしまいもう二度と戻ってこないのか?イカボドが生きるイスラエルには何の未来もないのか?そうではない。主の栄光は誰も略奪することができない。主は一見イスラエルの神が見くびられるように思える状況をも利用して御自身の栄光を表される。

主は御自分の民を通して御自身の栄光を現わそうとする。しかし、神の箱を取り巻くのは、最初は主を偶像のように扱うイスラエルであり、次には神の箱を戦利品のように扱ってしまうダゴンを崇拝するペリシテ人だ。誰も主の栄光を現すにふさわしい人がいないように見える。それでも、主は御自身の栄光を現わす手段をもっておられる。主は人間に依存しない!人間の助けを必要としない!主は恵み深い方なので、人間を用いて、人間を共に栄光にあずからせることを好まれるが、そうしなければならないわけではない。人間が率先して主の栄光を現そうとしないなら、主自らが働いて御自身の栄光を現わされるのだ。それは寂しいことだが、私たちが主の民としての本分を果たさないなら主は私たちを素通りしてしまい、用いない。サムエル記上5-6章はそのことを示している。私たちはそうならないように、主が用いやすい者となろう。サムエル記上5-6章は神の箱の移動だ。その移動のすべては主が仕向けたものだ。神の箱はただの物体だが、神は御手を直接動かし、また、あらゆるものを利用して神の箱を移動させた。

1-5節。主は神の箱をアシュドドのダゴンの神殿に運ばせた。ダゴンを破壊するためだ。ペリシテ人は勝利に酔っていた。イスラエルの軍勢に勝ち、指導者エリと息子たちを亡き者にし、さらにはエジプトに災いをもたらしたイスラエルの神にすら勝ったと思った。ダゴンの神殿に運び入れて、ダゴンのそばに置いたのは、自分たちの神であるダゴンがイスラエルの神に勝ったと信じ、それを記念する戦利品とするためだ。しかし、実際にはイスラエルを敗北させ、ペリシテ人を勝たせたのは、主だった。主はすべての上に立つ神だ。ダゴンなどいつでも破壊することができる。そのことを示すために、まずダゴンを倒し、御自分の足元で屈服させた。ダゴンは人間が造った像に過ぎず、ペリシテ人はダゴンを助け起こさなければならなかった。人間の助けを借りなければ起き上がることもできない神、そんな神をどうして信じることができる!かたや主は偶像を屈服させるお方だ。その翌朝、またダゴンは倒れていて、今度は頭と両手が切断されていた。この世で信じられている神々は、主なる神の御前では少しも手向かいできず、何の知恵も持たず、完全に負けてしまう。この出来事はローマ16:20を予表するものと言える。この出来事はダゴンを信じる者たちにとっては強烈な印象を植え付け、神殿に入るたびに「敷居を踏まない」ということによって思い起こされることとなった。敷居をまたぐたびに、「ああ、ダゴンは主には勝てない」と思い出す。

主はダゴンを打つだけでなく、すべてのペリシテ人をも打つ。6-12節。主自らがペリシテ人を攻撃している。主は敵を滅ぼすのに、イスラエルも教会も天使も必要ない。主が御手を動かせば、お一人で国をあっという間に滅ぼすことができてしまう。ここでは、主は御自分の栄光を現すために手加減して、完全には滅ぼさないようにしている。主は悪性のとても痛みをもたらす「はれ物」を生じさせた。はれ物というのは、聖書ではすべて神の裁きのときに生じてくる。
最初に現れたのは出エジプト前の十の災いでエジプトを打ったときだ。それはペリシテ人も知っていたので、神の箱がイスラエルの陣営に到着したとき、恐れおののいた。ペリシテ人は戦いに勝って、エジプトのように災いに遭うことはないと思っていた。イスラエルの神とイスラエル人は常にセットであり、さしものイスラエルの神も、イスラエル人なしには何もできないと思い込んでいた。実際にはそうではない。教会がその不信仰や不従順によって敵に負けることがあったとしても、主は決して負けない。主には絶対に勝てない。ペリシテ人は主を侮ったので、結局エジプトと同じように撃たれることとなった。

ペリシテ人の領主は全員集合した。都市を統治する実力のある指導者たちが集まったのだ。しかし、その会議で出てきた案はとんでもないものだった。「神の箱をガトに移そう!」ガトもペリシテ人の街だ!問題を他人に押し付けるだけで根本的な解決をしようとしていない!ガトの人々もそうだった。神に打たれて苦しみ出すと今度はエクロンに神の箱を押し付けた。6章を見ると、そうやって神の箱はペリシテの5大都市のすべてをめぐって、7か月もの間ずっとペリシテ人たちをはれ物で打ち続けた。とりあえず厄介な問題はどこか他のところにやってしまって、自分の視界から消えさえすれば一安心!?また回り回って自分のところに帰ってくる。他の人々をも巻き込んでみんな不幸にしてしまうだけだ。仕事や私生活で厄介な問題に直面したら、主から知恵と力をいただいて、真向から解決に取り組まないといけない。他人に押し付けたり見て見ぬふりをしたりしてはならない。究極的には、ペリシテの領主たちの無策ぶりは主のご計画の一部だった。ペリシテ人は自らの罪性から知恵のない選択をしたが、それをも主は用いられた。主は神の箱を移動させて、その行く先々で災いを引き起こすことによって、ペリシテ人全土を7か月間打って、エジプトでそうしたのと同じように全ペリシテ人の間で御自身の栄光を現されたのだ。

1-9節。ペリシテの領主たちは神の箱をどうすれば良いのかわからなかったので、困り果ててダゴンの祭司たちと占い師たちに提言を求めた。現代ですら政治家が学者ではなく宗教家や占い師に意見を求めるということはある。それでは悪魔に政治に介入させることになる。クリスチャンがそういう役割に担えるようにならなければならないだろう。
これらの内容だけを見ればあくまでも異教のものであって、これをそのまま倣ってイスラエルや現代の教会には決してあてはめてはならない。ただし、一つだけ、主が意図されたことと一致することがある。それは「イスラエルの神に栄光を帰す」という目的だ。これは人間が創造された目的だ。主はこうして、お一人で栄光を取り戻された。
彼らの提言の中にある金のねずみというのは、はれ物の災いに加えてねずみの大量発生があったのだろう。それによって畑が荒らされ、穀物が食われたのだろう。
神の箱と賠償の献げ物と共に子牛から引き離した雌牛二頭が引く車に乗せて運ばせようとした。普通は、雌牛を自由にすれば子牛の方に行くはずだ。それであれば、主の介入はなく、すべてが偶然の災難だったとすることができる。もし、ベト・シェメシュの方に行くなら主がその雌牛の足取りを導いたのであり、すべての災いはやはり主が起こされたのだということがわかる。彼らはそういう方法で主を試すことにした。

10-14節。主はペリシテ人の方法に沿って、雌牛を操ってベト・シェメシュに行かせた。イスラエルは神を操つろうとして失敗したが、神はペリシテ人を操り、雌牛を操って御自身の栄光を現された。 ところで、箱を元の場所に帰すのであれば、なぜシロではなく、ベト・シェメシュなのか。それは、シロはもはや主の臨在をとどめるにふさわしくない場所だったからだ。シロがいつ滅亡したか、正確にはわからないが、一時期は主の臨在をとどめた場所がその滅亡によって主の裁きを象徴する場所になってしまうことは確かだ。預言者エレミヤは主の神殿、主の神殿、主の神殿という空しい言葉を頼みとする人々に対する警告として、シロを例に出した。エレミヤ書7:12-15。
シロの二の舞になってはならない。今や主の臨在をとどめる主の神殿として守らなければならないのは、聖霊様が宿っておられる私たちの体と心だ。いつまでも主に喜んで臨在していただけるように敬虔な歩みをする者となろう。神の箱を迎えた街、ベト・シェメシュはレビ人の街だった。彼らは契約の箱の扱い方について詳しいはずの人々だった。ところが、ベト・シェメシュでも事件が起きてしまう。

15-21節。契約の箱を開けることに何の問題があるのか?契約の箱は、至聖所の垂れ幕の内側にあり、年に一度、大贖罪日に、大祭司だけが生け贄の血を携えて入ることができた。それ以外に契約の箱に近づく人とすれば、契約の箱を移動するときにレビ人がそれを担いだが、レビ人が来る前に祭司たちが細心の注意を払って、聖なる祭具を覆い、荷物の分担をした。なぜか?民数記4:15,19-20。聖なるものを垣間見たら死んでしまうからだ。レビ人が契約の箱を扱うことは命がけだった。聖なる神と罪人の間にそれだけ大きな隔たりがあるのだ。レビ人であればそれをよく知っていなければならないのに、彼らはあろうことか契約の箱の中をのぞいてしまった。完全に自殺行為だ。ベト・シェメシュの人々は「この聖なる神、主の御前に誰が立つことができようか」と言っている。誰が立つことができるか?やはり大祭司か?そう、大祭司だ。しかも新しい契約の大祭司であるイエス・キリストだ。イエス・キリストは御自身だけでなく、すべての人が、いつでも主の御前に立つことができるようにしてくださった。ヘブライ9:11-12,10:19-22。かつて、神は近寄りがたいお方だった。しかし、私たちは偉大な大祭司イエス・キリストによって恐れることなく、神に近づくことができるようになった。大胆に主の御前に進み出て、主の臨在にとどまろう。主の臨在の中では、主が生きておられることを体験できる。主の愛と力を体験できる。洗われ、清くなる。喜びが爆発する。大胆に主の御前に進み出て、主の臨在にとどまろう。

契約の箱はキルヤト・エアリムに運ばれた。そこで、しばらくとどまるが、まだゴールにはたどりついていない。契約の箱の旅は続く。

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