新しいぶどう酒を新しい革袋に入れる[ルカ5:27-39]

ルカによる福音書
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決して破れず、イエス様からの恵みを決して無駄にしません。

新しいぶどう酒を新しい革袋に入れる[ルカ5:27-39]

新しいぶどう酒を新しい革袋に入れる[ルカ5:27-39]

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【ノート】
27節。レビと書いてあるが、マタイによる福音書ではマタイと書いてある。レビというのは、十二弟子で、福音書を書いたマタイの別名だ。彼は徴税人だった。徴税人とは、当時のイスラエルの社会では最も評判の悪い職業の一つだ。徴税人はユダヤ人にとって敵であるローマ帝国の従って、同胞から税金を巻き上げる人だ。ローマ帝国は税を効率よくとるために地の利のある地元の住民から徴税人を立てた。徴税人になる権利をかけてオークションをして一番大金を出した人にその権利を与える。自ら志願して大金まで払ってなるのだ。徴税人は担当の地域の税収のうち一定額のみローマに納めるが、ほかは全部自分のポケットマネーにすることができた。だから、徴税人は必至で税金を取り立てた。ローマに納める税には様々なものがあった。生きていることにすら、人頭税を払わなければならない。穀物は十分の一、ぶどう酒と油は五分の一を税金として支払う。さらには、道路、港湾、市場の利用税、荷車の税、車をひく動物にかかる税などさまざまな名目の税の取り決めがあった。現代でも、どういうことにどのくらいの率で税金を払う決まりになっているのか、正確に知る人は少ない。当時であればなおさら、税金について告示されても、詳しくない人がほとんどだった。徴税人は人々の無知につけこんで、徴税の取り決めにはない分までだまして奪い取った。しかもバックにローマがついているので誰も逆らえない。ローマでは正直者の徴税人についての記念碑が造られたことがあった。徴税人はみんな嘘つきばかりなのに、「この人だけは正直者の徴税人だった」ということを称えた記念碑だ。そういうわけで、ユダヤ人は徴税人のことを泥棒や人殺しと同類とみられた。徴税人はシナゴーグに入ることを禁止され、裁判では証人に立つことが許されなかった。徴税人はお金の代わりに社会から追放されることを選んだ人々なのだ。

イエス様がご覧になったレビは、そんな背景を持った人物だ。いわばどのグループからも「出入り禁止」にされた人、やくざのような人。イエス様もそのことをよくわかっていた。イエス様は「レビという徴税人が収税所に座っているのを見た」。レビが徴税人だということはわかっていた。ほとんどの人はその視覚的な情報だけで判断してレビを避けた。しかし、イエス様は肉眼の視覚的な情報以上のことを知ることができる。イエス様は人の心の思いや考えを知ることができる。律法学者たちとファリサイ派の人々がイエス様を心の中で非難し始めたとき、イエス様はそれを知った。イエス様がレビの心をご覧になって、良いものを見出した。レビの心にへりくだった心、神を求め、救いを求める飢え渇きを見出した。それでイエス様はレビに「わたしに従いなさい」と言われたのだ。

28節。この箇所からわかることができる。人生は主にあってやり直すことができる!レビにとって徴税人は自分で選んだ道だった。レビは徴税人になって後悔した。お金と引き換えに失ったものが大きすぎた。道を踏み外し、神から離れてしまったと感じた。シナゴーグに行って聖書の朗読を聞くことすら許されない。それで人生をやり直したいと思う心があったが、ユダヤ人社会からは追放されてしまったので、いまさら徴税人をやめたところでほかに行くところはない。そういうレビにイエス様が「わたしに従いなさい」と言ってくださった。真剣に悔い改めようとするならば、イエス様が私たちの行くところとなってくださる。イエス様が私たちを受け入れてくださる。それでレビは「何もかも捨てて」イエス様に従った。財産も大金をはたいて買った徴税人としての特権も捨てたということだ。その悔い改めが本物だったのだ。私たちも主にあって人生をやり直そうとするなら、古い生き方を大事に抱えたままイエス様について行こうとしてはならない。それはきれいさっぱり捨てて、イエス様と共に第二の人生を歩むのだ。こうして、シナゴーグに入れなかった徴税人、神から最も遠いと思われた人が、神が人となって来られたイエス様と共に歩むようになった。

29節。レビはイエス様のために盛大なパーティーを開いて、自分の仲間をみんな招待した。このパーティーのお陰でレビは友人をイエス様に紹介することができた。自然な形で伝道集会となったのだ。友人を伝道する上では、友達と自分の教会のクリスチャンを一緒に招待して食事をするというのが良い方法だ。徴税人の仲間といえば、徴税人や同じく社会からつまはじきにされた人々しかいない。いつもはあらゆる種類の人々から毛嫌いされるのに、有名人で権威ある教師であるイエス様が自分たちと一緒に食事をしてくださるということで、徴税人たちはみんな喜び、パーティーは大いに盛り上がったに違いない。
そんなパーティーに水を差す人々がいた。30節。またファリサイ派の人々と律法学者たちだ。ここでもたまたま居合わせたというよりは、イエス様を追跡していた。自分の本分の律法の実践や研究に励めばいいのに、イエス様の邪魔ばかりしてしまっている。彼らはイエス様と弟子たちが徴税人と食事をするのに我慢ならなかった。ファリサイ派の人々は徴税人とすれ違うとき、服のすそを結ぶことがあった。服のすそが徴税人に触れると汚れてしまうと思ったからだ。汚れるとその衣服を洗わないといけないし、夕方までシナゴーグに入ることができなくなる。一緒に食事をするというのはもっと悪い。徴税人が触れて汚れたパンを食べる。しかも、食事には一つとなるという意味がある。同じパンを分けて食べるから食べた人みんな一つになるということだ。徴税人と食事をしたら徴税人と一つになる。それはありえない。

31-32節。イエス様は自分が正しいと思い込んでいる人ではなく、自分の罪を認める人を招いて悔い改めさせるために来られた。すべての人は罪人だ。ファリサイ派の人々と律法の教師たちは自分が正しいと思い込んでいたが、彼らもイエス様をねたんだり殺そうとしたりする罪人だ。徴税人たちは少なくとも、罪の自覚をもっていた点でファリサイ派の人々よりも優れていた。
イエス様は罪の問題を解決する医者だ。自分が罪深い者だと思う人の中には、「私は罪深いので、もっと清く正しくなってからイエス様を信じる」という人がいる。それは「元気になってから病院に行く」と言っているようなものだ。罪深いからこそ、イエス様のもとに行く。そうすれば、イエス様が罪を赦し、罪を清め、罪に打ち勝つ力を与えてくださる。
イエス様は罪人を招いておられる。誰から何と言われようと罪人を弟子にし、罪人と食事をし、親密になってくださるお方。罪人を悔い改めさせ、救いに導くためだ。私たちもそのお陰で救われた。そこにイエス様の私たちを包む大きな愛を見ることができる。そうであれば、イエス・キリストの教会も、いつも罪人に対して門を開いていなければならない。教会は貴族や知識人の社交クラブのようになってはならない。いつも外部の人々に扉が開かれていて、聖書の知識が全くない人、世的な人、心が病んでいる人、孤独な人、貧しい人、前科のある人、そういう人々が安心して入れる、敷居の低い集まりでなければならない。さらには、ただ扉を開けておいて歓迎するというだけでなく、イエス様がレビに声をかけたように、積極的に罪人を招く教会になろう。イエス様の御心を心として、罪人を招待する教会になろう。

33節。今度は食事自体の話題となった。イエス様が飲み食いばかりしているように見えて人々は不思議だった。ファリサイ派の人々は週に二度断食していた。日の出から夕方まで断食し、その後に食べるという日を習慣的にもっていたのだ。ヨハネの弟子たちもそうだった。旧約聖書では、特別な祭りにあたる日の断食が定められていたほか、神に切実な嘆願が必要なときに断食するように命じられているが、習慣的に断食するようにとまでは定められていない。しかし、習慣的に断食することは非常に良いことだ。食べ物は体を養うが、断食して祈るなら、霊を養うことになる。断食して祈るなら、より主に集中して主と親密な交わりを持つことができる。教会でもたとえばメソジストでは週に二度の断食を勧めていた。イエス様御自身、水のバプテスマを受けた後、荒れ野で40日間断食して祈った。それがイエス様がメシアとしてすばらしい滑り出しをすることができた要因だ。イエス様は断食の価値を知っている。

では、なぜイエス様は弟子たちと断食しなかったのか?34-35節。婚礼にたとえている。ユダヤ人は結婚すると、自分の家を解放して友人たちを招待して一週間にわたって結婚披露宴を持つ。花婿と花嫁にとって、苦しみの多い人生の中で、その期間が人生最大の晴れ舞台、ただひたすら喜び楽しむことができる日々だ。婚礼のたとえで花婿はイエス様。婚礼の客は弟子たちだ。結婚披露宴を盛大に行い、喜び祝っているのに、断食できるわけがない!そのくらいイエス様が共におられる喜びというのは大きいのだ。イエス様が天に昇られた後は、弟子たちも断食をするようになった。しかし、イエス様が共におられる喜びは変わらない。使徒言行録では弟子たちが主にある喜びを表す箇所が何度も出てくる。断食は断食で有益だ。おすすめする。しかし、信仰者の歩みというのは、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちが思っていたような、いつもしかめっ面で苦しそうに重荷を背負って足を引きずりながら進むというものではない。イエス様が私たちの人生にもたらされたのは、結婚披露宴のような爆発的な喜びだということを忘れてはならない。

人々がイエス様の行動を理解できなかったのは、古くて凝り固まった宗教的な体質のせいだった。イエス様はそのことを指摘する。36-39節は2つのたとえが出てくるがどちらも同じ意味のたとえだ。36節。新しい布は水を含むと縮むのに対して、古い服は縮まない。だから新しい布切れで古い服に継ぎをあてると新しい布が縮んで古い服に合わなくなる。新しい服も破り取るのはもったいない。古い服とは肉的な性質のこと。その服を着た人の特徴は人間の肉の努力だけでなんとかしようとする結果、ボロボロになってしまう。新しい服はキリストの性質。その服を着る人は、キリストの義をいただいて、聖霊様の力によって前進する。新しい服は日々新たにされるので常に新しい。古い服を着ていたら、イエス様が私たちに与えてくださる新しい服を着て、喜びにあふれた新しい生き方をすることができないのだ。かといって、新しい服で古い服に継ぎをあてるわけにもいかない。では、どうすればいいのか?古い服を脱ぎ捨てて、新しい服を着れば良い!コロサイ3:9-10。古い服を脱ぎ捨てて、新しい服を着よう。古い性質を捨てて、キリストの性質を着て、キリストに頼り切る生き方をしよう。

37-39節。新しいぶどう酒を革袋に入れると発酵してガスが生じる。革袋が新しいと持ちこたえるが、革袋が古いと破れてしまう。古い革袋とは凝り固まった古い心のこと。その特徴はかたくて融通が利かない、変化に弱い、すぐに破れてしまい、主からの恵みを無駄にしてしまう。すぐに「駄目!」「無理!」と音を上げてしまう。古い革袋では、イエス様が私たちに与えてくださる新しいぶどう酒、つまり新しい教え、新しい契約、新しいイベント、新しい啓示、さらには聖霊様の力を受け入れられない。新しいぶどう酒には新しい革袋が必要だ。新しい革袋とは新しい心のこと。その特徴は弾力性があって融通が利く。フレキシブル。変化に強い。決して破れず、主に恵みを無駄にはしない。イエス様から新しいぶどう酒をいただくべく新しい革袋、新しい心を持つ者となろう。古くからある伝統や習慣が全部悪いというわけではない。それに固執してしまい、新しいものを欲しがらなくなること、古いものの方がよいとしてしまうところに問題がある。いつも同じ賛美しか歌わない。いつも同じ祈りしかささげない。クリスチャンになって何年も経つのに主の祈りしか祈れない。いつも同じように誘惑に陥る。それでは成長がない。もし古いものに固執するなら、私たちは学ぶことも成長することもない。もし古いものに固執するなら、私たちは主の御業を体験することもない。イエス様が御自分の新しい服、新しいぶどう酒と言われたように、主は新しいことをなさるお方なのだ。イザヤ43:19。主が大いに働いてくださってリバイバルが起こるとき、どういうことが行われるようになるか?新しいムーブメントが起こる。宗教改革、メソジスト運動、聖霊運動。新しい教えが語られる。主がそれまで注目されてこなかった御言葉に光をあてられるのだ。新しい歌で賛美がささげられる。リバイバルのときは多くの新しい曲が生まれる。主は新しいことをされる。それを受け取ることができるように、新しい服を着、新しい革袋を持とう。何歳になっても、主からの新しいものに開かれている者となろう。主から新しいものを歓迎して、新しいことを行う教会となろう。

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