すべての人にわが霊を注ぐ[ヨエル書3章]

ヨエル書
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終末の大リバイバルの教会として用いられるように祈りましょう。

すべての人にわが霊を注ぐ[ヨエル書3章]

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【ノート】
新共同訳のヨエル書はヘブライ語の原文と同じで、2章が27節までで、3章が聖霊降臨についての内容になっている。新改訳と口語訳では聖霊降臨が2章28-32節までになっているので要注意だ。2:18-27までは主に、私たちが心から主に立ち帰って断食して祈るなら、農業の祝福が与えられるという約束だ。それによって肉体に必要な糧が満たされる。3:1-2は霊的な祝福だ。私たちが心から主に立ち帰って断食して祈るなら、聖霊様が降って来られ、私たちの霊的な必要が満たされるのだ。

1節。「その後」と書いてある。その後とはいつのことなのか?ヨエルの時代のことではない。ヨエルの時代に主に立ち帰った人々はいなごの災いから回復し、農業の祝福を受けることができたが、3章の内容は、それよりも後の時代の預言ということだ。ペンテコステの日に聖霊様が降ってきたとき、ペトロはヨエル書3章をまるまる引用して「この御言葉が成就したのだ」と言った。確かにこの御言葉は部分的に成就した。しかし、完全には成就していない。1節では「すべての人にわが霊を注ぐ」と書いてある。ペンテコステのときに聖霊様を受けたのは120人の弟子たちだ。ほんのひとかたまりのグループ!これですべて成就したとは言えない。

むしろ、ペンテコステの日はヨエル書の預言が成就し始めた日だ。主ははるか昔からすべての人に聖霊様を注ぐ計画を持っておられた。すべての人が聖霊様を受けることは、モーセが願っていることだった。主はモーセの負担を減らすため、モーセに与えた聖霊様を70人の長老にもお与えになった。そうすると長老たちは預言する状態になった。ヨシュアは自分が仕えるモーセだけが聖霊様を受けるべきだと思ったのでやめさせたかった。民数記11:28-29。モーセは、主の民すべてが預言者になればよいと切望した。これは主の御心に適った願いだ。主御自身、御自分の民すべてが預言者になることを切望しておられた。それで、このヨエル書でそれを約束された。その約束はイエス様を通して実現可能となった。バプテスマのヨハネはイエス様が聖霊のバプテスマをお授けになる使命を持ってこられたと言った。イエス様は公のミニストリーの中では聖霊のバプテスマを授けることなく天に昇られたが、天に昇られることを通して、聖霊のバプテスマを授ける準備が整った。そして、ペンテコステの日に至る。ペンテコステの日以降、心から主に立ち帰って断食して祈る人々の上に聖霊様が激しく臨むようになった。聖霊様はサマリア人の上にも降り、コルネリウスの家に集まった人々の上にも降り、エフェソでパウロが出会ったバプテスマのヨハネの弟子たちの上にも降った。今でも心から主に立ち帰る人々の上に、イエス様は聖霊様のバプテスマを授け、異言や預言をお与えになる。

それでは、どのような形でヨエル書の御言葉は完全に成就するのか?主が来られるのは異邦人の完成とイスラエルの救いのときだとローマ11:25-26に書いてある。ここから大宣教命令が成就するには順番がわかる。福音はイスラエルから始まって全世界に伝えられるが、まず全世界の人々が救われてからイスラエルが救われるのだ。まずは、異邦人の完成だ。反キリストが出現して患難期に突入する前に満たされていなければならない条件は大きく2つ、教会の成熟と大宣教命令の成就だ。これら2つが満たされることが異邦人の完成であって、その条件はまだ満たされていない。もし仮に教会がすでに成熟していて救われる人の数も十分と主がみなしておられるのであれば、すでに携挙と患難期への突入が起こっているはずだ。そうなっていないということは、教会は未成熟、しみやしわやその類のものが何一つない栄光に輝く教会となっていないし、救われている人の数も十分ではないのだ。では、教会の成熟と大宣教命令の成就を成し遂げるためには何が必要か?何か魔法のような新しいプログラムを考え出すことか?そんなものはない。教会が質的にも量的にも急激に成長するのは、いつもクリスチャンが心から主に立ち帰ることで、聖霊様がペンテコステの日のように激しく臨んで、リバイバルが起こるときだ。患難期の直前には、全世界規模で主に立ち帰る運動が起こる。それで、全世界規模で聖霊様が降り、リバイバルが起こる。世界中で何百年かけても難しいと思われるような数の救いの実を短期間で結ぶ。私たちはペンテコステの日に誕生した初代教会の姿にあこがれを持つ。しかし、初代教会すら未成熟の教会だ。将来の教会の栄光は初代教会の栄光にまさる。

そして、患難期にはイスラエルが心から主に立ち帰り、イスラエルの上に聖霊降臨が起こる。ゼカリヤ書にはイスラエルがメシアを見て民族的な悔い改めをするので、主が憐れみと祈りの霊を注ぐことが書いてある。ゼカリヤ12:10。このときにもペンテコステの日のように、聖霊様が激しく降って来られるのだ。このときにイスラエルの主を呼び求めるすべての人が聖霊のバプテスマを受ける。

ペンテコステの日までの10日間、120人の弟子たちは集まって一つになって熱心に祈っていた。弟子たちはイエス様が約束された祝福を受けるまで祈るのをやめなかった。私たちは集まって一つになり、神が約束しておられる祝福を完全に受けるまで祈るということの重要性を認識しなければならない。

では、聖霊様が降って来られるとどうなるのか?「息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」と書いてある。夢と幻は預言者が神から啓示を受ける方法だ。つまり、預言、夢、幻は全部、預言者として啓示を受けるということだ。すべての世代のあらゆる種類の人々が預言者になる。2節。奴隷は社会の最下層の人々だ。聖霊様の賜物は身分をも超えて与えられるということ。その人が貧しかったとしても、学歴がなかったとしても、教会で何の役職もなかったとしても、聖霊様の賜物を受ける上で何の妨げにもならない。これは考えられないことだった。ファリサイ派の人々は「預言がとどまるのは、賢くて力強くて裕福な者だけだ」と語った。私たちにもそのような感覚があるかもしれない。神様がえこひいきをするとは思わないとしても、普通の人は無理だという発想だ。預言の賜物を持つことができるのは、ほんの一握りの人だけだ。不動の信仰を持ち、喜んで隣人のために命を捨てる愛を持ち、毎日何時間も熱心に祈り、罪深い習慣を何一つ持たず、長年神と人とに仕えることに人生をささげている、そういう人が求めたらもしかしたら受けることができるかもしれない。もちろんそういう人は受けることができるだろう。しかし、そういう人だけにしか与えられないというものではない。誰にでも雨が降るように、聖霊様が降って来られるときというのは、預言の賜物は子供にも恵みで与えられる。聖霊様を祈り求めてすらいない人与えられることもある。ただ聖霊様が働いておられる場所に行けば、完全な人でなくても、とりわけ優れているわけでもない平凡な人、資格がないように思える人にもその力は及ぶのだ。聖霊様が降るまでは、長期間にわたって信仰と忍耐と祈りが要求される。しかし、ひとたび聖霊様が降ってこられ、リバイバルが始まるならば、そのために労苦したのではないあらゆる人々にも恵みが与えられる。雨にあたりたければ雨が降っている場所に行けばよい。もしリバイバルが起こっている場所があれば、そこに行ってみることをおすすめする。

3-4節は主の日の前に起こる兆候だ。血と火と煙の柱は戦争を暗示している。しかし、ただの戦争は人類史でずっと行われてきた。エゼキエル戦争などほかの預言を成就する戦争が起こるのだろう。太陽は闇に、月は血に変わるというのは、日食や月食を意味するかもしれない。皆既月食の際の月は赤くなるので、ブラッドムーンと呼ぶ。しかしただの日食や月食であれば毎年起こる。珍しいことではない。それがよほど特殊な条件が重なる時期なのか、周期的には決して起こらない天体の異変なのかどちらかだろう。現時点ではその正確な意味がわからない。しかし、そのしるしが現れるときには多くの人がそれに気づく。そのしるしが現れるときというのは、世界規模で聖霊様が降って、大勢の人々が預言の賜物を得た後だ。預言者たちは主が見せてくださる天変地異によるダイナミックなしるしを見逃さない。その意味を教会で解き明かす。そのときには、数人というレベルではなく、世界中で預言者たちが「これこそがヨエルが預言した主の日の前のしるしだ」と次々と宣言することになる。そのときには未信者の悔い改めは待ったなしだ。戦争、天体、誰でも簡単に目にすることができるものがしるしとして選ばれた。戦争、天体の異変、それは時々起こることであり、必ずしも主の日の直前のしるしとは言えないが、それらを見るとき、主の日が近いしるしの一つとして主に立ち帰る機会として用いよう。

4節では「主の日、大いなる恐るべき日」と書いてある。ところが、使徒2:20では別の表現になっている。「主の偉大な輝かしい日」!どっちなのか?どちらの日として迎えるかは私たち次第だ。ペンテコステの日の弟子たちと悔い改めた3千人の群衆たちにとって、それは主の偉大な輝かしい日に違いなかった。それは主が悪を裁き、完全勝利なさる日だ。しかもクリスチャンは主の日の災いに遭うことはない。それは待ち遠しい希望の日なのだ。しかし、未信者や患難期に悔い改めるイスラエルにとってはヨエル書の通り、主の日は大いなる恐るべき日だ。私たちは偉大な輝かしい日として主の日を待ち望む者となろう。

5節。主の御名とは具体的にどの御名のことか?イエス様だ!「ほかの誰によっても救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は天下にこの名のほか、人間は与えられていないのです」と書いてある。今の恵みの時代で主イエス様の御名を呼び求める人はみんな救われる。すべての罪が赦され、神の子とされ、永遠の命をいただく。それだけでなく、力のないとき、困難な状況に直面しているときにイエス様の御名を呼ぶなら、イエス様が力を与え、状況を打開させてくださる。

患難期の主の裁きの中にあっても希望がある。聖霊様が再びイスラエルに注がれたので、イエス様の御名を呼ぶ者はみんなすべての罪が赦され、反キリストの手や患難期にふりかかる様々な災いから逃れられるよう保護が与えられる。詩編91編にあるように、あらゆる悪いものがふれることがなくなるのだ。イスラエルにいる多くのユダヤ人は患難期に滅ぼされてしまうだろう。しかし、主はイスラエルの歴史を通して、常に全部を滅ぼしてしまわず、残りの者が必ずいるようにしておられる。この残りの者のことをレムナントという。レムナントの存在は、主の憐れみと正義を表している。主はすべてを一緒くたに滅ぼしてしまわず、一人一人をご覧になっておられ、真実な信仰を持つ者には憐れみをかけてくださるのだ。エルサレムの逃れ場にいるレムナントは、反キリストの手にかかる直前に再臨されるイエス・キリストによって救われることになる。

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