衣を裂くのではなく心を引き裂け[ヨエル書2:1-17]

ヨエル書
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主の日が来る前に、心から主に立ち帰らなければなりません。

衣を裂くのではなく心を引き裂け[ヨエル書2:1-17]

衣を裂くのではなく心を引き裂け[ヨエル書2:1-17]

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【ノート】
ヨエルの時代、未曾有の災いとして、いなごの群れが襲ってきて作物を食い尽くした。しかし、それは主の日の前兆に過ぎなかった。主の日にはもっと大きな災いが来る。それは、異民族の侵略、バビロンとアッシリアの侵略だ。そして、主の日は究極的には大患難時代の反キリストの侵略によって実現する。聖書の預言というのは、このように繰り返し、段階的に、実現することがある。患難期に入る前にも、ヨエルの時のいなごのように前兆としての災いがある。イエス・キリストはそれを産みの苦しみと言われた。世の終わりに向かうにつれ、陣痛のように繰り返し方々で戦争、地震、疫病が起こる。私たちが直面しているのは、そのような災いだ。産みの苦しみの大きさがどれほどになるのか、その回数、長さがどのくらいになるのか、それは選ばれた神の民であるクリスチャンが災いに正しく応答できるかどうかによって決まる。クリスチャンが災いの最中で真心から主に立ち帰り、主に心を注ぎ出すなら、全世界的なリバイバルが起こる。それによって、救われる人が満ち、教会が引き上げられ、裁きとイスラエルの悔い改めのための患難期が始まるのだ。

1章はヨエルの時代に起きたいなごの群れの災いだ。2章1-11節までは未来の主の日の預言だ。いなごの姿と重ね合わされているが、いなごとは一言も書いていない。これは軍事的な危機だ。20節でこの軍勢を北から来る者とある。いなごであれば群れになるには熱さが必要なので、普通は南の方で大量発生したものが来る。この軍隊は北から侵略してきたアッシリア、バビロン、究極的にはダニエル書にある通り反キリストの帝国だ。

1節。イスラエルでは、安息日の始まりと終わり、ラッパの祭り、大贖罪日といった特別な日を知らせる合図として、国中に角笛が吹き鳴らされた。その日は主が聖別した日であり、主が決められた通りに過ごさなければならない。そして、もう一つ、戦争のときにも、角笛が用いられた。ヨシュア率いるイスラエルの民が、エリコの城を攻めるとき、角笛が吹き鳴らされた。最後の角笛と鬨の声と共に、エリコの城壁が崩れて占領することができた。聖なる礼拝と戦いの合図として角笛が用いられた。預言者は、今こそ角笛を吹き鳴らすときだという。どちらの意味での角笛か?両方だ。主の日が来る!主の日が近づく!預言者の目にはいなごの姿に重なって侵略者たちが迫ってくる様子が見えた。強大な民との戦争の危機が迫っている!もう災いは過ぎ去ったと思って安心して眠っている者たちは目覚めなければならない。霊的に目覚めて、すべての日常の活動をとめて、主が聖別した日として、主に集中しなければならない。

2節。闇と暗黒の日、雲と濃霧の日とある。イエス様は御自分が逮捕されるとき、逮捕しにきた祭司長の手下たちに対して「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」と言われた。主が意図的に、闇の勢力に対する神の民の保護を取り去るので、闇が思うままに力を振るう時があるのだ。闇に属する悪魔的な軍隊が力を振るう。主がそれを許される。主の日になってしまえば、いつも気づく気づかずにかかわらず私たちに与えられている神の超自然的な保護を全く期待することができない。だから、主の日になってからでは遅い。今主に立ち帰らなければならない。
曙の光というのは、夜明けに東の空からさしてくる太陽の光のことだ。曙の光は山々をぐんぐん覆っていき、数十分のうちに辺り一帯を覆い尽くす。つまり、隙間もないくらい密集した軍隊が、山々の端から端までいて、どんどん辺り一帯を埋め尽くし、国をまるごと飲み込んでしまうという様子だ。それは今までの戦争ではなかった規模の軍隊だ。古代の戦争でも、ペルシャ戦争では、ヘロドトスの記録によるとペルシャ軍はヨーロッパ各国からの援軍を含めると528万人と記録している。第二次世界大戦のときの米軍は最大約1220万人動員している。反キリストの軍隊は、世界中から徴兵した人々が動員されているので、これらを上回る。数千万人規模の軍隊だ。しかも強い。最高の科学技術を駆使した兵器で武装している。反キリストの強力なリーダーシップに導かれている。あらゆる点で歴史上で人間の持つ軍隊の中で最高レベルだ。その軍隊が大挙して雪崩打つように攻めてくるのだ。

3節。バビロンのネブカドネツァルが侵略してきたとき、軍隊の前後は火で焼き尽くされた。世の終わりの戦争でも同じことが起こる。戦車や銃火器をふんだんに搭載した反キリストの軍隊が、砲撃しながら通るので、一帯が焼け野原になって何もなくなる。古くからある戦術だ。敵が食糧や物資を補給できなくするための焦土作戦だ。「この国はエデンの園のようだ」と書いてある。イスラエルは、20世紀初頭には全土が不毛の地だった。アジア、ヨーロッパ、アフリカの間にあってたびたび戦争に巻き込まれて荒廃し、1900年間異邦人の手に渡っている間に荒れ放題になってしまった。何の魅力もない土地として放置されていた。どこをどう見てもエデンの園のようには見えなかった。イスラエル緑化基金-ユダヤ国民基金が1901年に設立され、オリーブの木を中心に2億4000万本以上の木を植林した。その成果が出て、イスラエルは緑を取り戻している。国土の大部分が乾燥地帯なのに、食料自給率は90%以上に達している。この預言の通り、エデンの園のようだと言える状態を取り戻しつつあるのだ。それがまた火で焼き尽くされることになる。

4-5節。ヨエルは、この時、世の終わりの戦いの光景を見ていた。古代の戦争しか知らないヨエルが、今よりももっと未来に起こる戦争の様子を幻で見ていたのだ。だから、何と呼ぶべきか知らないものを多く目撃した。それで、馬のよう、軍馬のよう、戦車のようだと言っている。つまり、非常に速いということ。戦争では機動力がものをいう。ナチスがあっという間にヨーロッパの大半を征服してみせたのは、電撃戦といって機動力を生かした戦いで相手が準備して膠着状態になる前に短期決着したからだ。人々が無事だ、安全だ、と言っている矢先に突然、反キリストの軍隊によって破滅が襲うことになる。それを見た人々の反応が6節。イエス様は再臨の前に「人々は恐ろしさのあまり気を失うだろう」と言われた。

7-9節。軍隊が都市を攻略する様子だ。ここからも反キリストの軍隊の恐ろしさがわかる。まず、非常に訓練された軍隊だ。都市という非常に入り組んだ場所であっても、平地と同じように一人一人が互いとの距離をつかんで自分の進むべき道がわかっている。次に恐れ知らずの冷徹な軍隊だ。「投げ槍の間に突進してもひるむことはない」とある。反キリストの軍隊では個々人の命は非常に軽く考えられていて、隣の人が死んでも誰もなんとも思わない。第三に止められない軍隊だ。壁をよじ登ってしまう。どんな障害物も止めることができない。最後に奪いつくす軍隊だ。「家々によじ登り、盗人のように窓から入り込む」と書いてある。攻撃され攻め落とされる都市にいる人々の抱く希望はどんなものか。降参すれば助かるかもしれない。ほとぼりが冷めるまで家に閉じこもっていれば戦争が終わるかもしれない。隠れていれば見つからないかもしれない。それらがすべて通用しない。その軍隊は家の一軒一軒にまで侵入し、隠れている人をすべて見つけ出し、命も持ち物も奪ってしまう。

10節。反キリストの軍隊の侵攻にあたって天変地異が起こる。天と地を合わせれば、世界だ。世界全体が揺り動かされる。被造物世界全体が恐れおののき震える。被造物世界には頼りになるものが何もない。太陽、月、星というのは、ずっと光を放ち続ける代表的に3つのものだ。それらすら光を失う。希望の光が全く見えない。それでは、反キリストがその悪魔的な力でこれらの天変地異を引き起こしているのか?そうではない。悪魔には世界を揺り動かすことはできない。それでは誰がそうしたのか?

11節。主だ。主が天変地異を引き起こされた。主がその軍隊を御言葉によって導いておられた。バビロンの王ネブカドネツァルによって諸国を打ったのは主だ。主はネブカドネツァルのことを僕と呼んでおられる。エレミヤ27:6。ネブカドネツァルは邪悪な異邦人の王であって、反キリストの型だ。しかし、神はそのような悪い王を用いてすら正義を行うことがおできになる。ネブカドネツァルは確かに悪い王でいっぱい悪事を行ったが、神が悪を行うように強制したわけではない。ネブカドネツァルが自分の意思で悪を行ったのだ。神はその悪を良い目的で用いて裁きを行った。同じように、神は反キリストの軍隊をも裁きにお用いになる。反キリストはサタンによって権威を得て世界を支配するが、それらも全部ひっくるめてすべては神の御手の中なのだ。主の日は、主の御言葉によって実現される裁きの日だ。主の御言葉は必ず実現する。それは決定事項であり、誰もその裁きを避けることはできない。だから、その日を迎えてしまったらもう遅い。「誰がその日に耐ええよう」と書いてある。主の日には誰も耐えることはできない。

主の日が迫っている。どうすればいいのか。
12-14節。「今こそ」と書いてある。今でも遅くはないという意味の言葉が使われている。主の日は迫っているが、今ならまだ主に立ち帰るチャンスはあるということ!軍事力を強化するのでもない、食糧を備蓄しておくのでもない。そういうのは二の次。主に立ち帰る!これが主の日が迫っているときにすることだ。立ち帰るというのは、方向を変えて主の方を向くということ。しかも、心から立ち帰らなければならない。ヨエル書を読むなら、偶像崇拝について書いていないし、神殿では日ごとの献げ物がちゃんと献げられていた。具体的な罪が指摘されていない。だから、外面だけ見れば南ユダ王国は主に対しての務めを果たしていた。足りなかったのは「心」だ。主はいつも心を見ておられる。主は私たちを燃えるような愛で愛しておられるが、私たちの応答はどうか?心を尽くして主を愛していない。霊に燃えて主に仕えていない。主に対する愛があまりにも薄くて、主への礼拝が義務的で、そっけないものになっている。初めのころの愛から離れている。もしそうであれば、主は心から立ち帰れと言われる。

「衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」と書いてある。イスラエルには、激しい怒りや悲しみを表すために、上着の襟の部分を引き裂くということがあった。今でもユダヤ人のお葬式では、参列者の衣は引き裂かれている。これが悪い習慣だということではない。これが乱用されることがあった。衣を裂くだけなら、力さえ入れればできる。だから、衣だけ裂いて悲しんでいるふりをするということがあった。しかし、心を裂くというのは簡単なことではない。深い嘆きによって心を裂いて、主に対して心を注ぎ出して死に物狂いで祈るとき、私たちは大きな災いを逃れて、大きな祝福にあずかることができる。

しかし、主が直に語られた御言葉では、心から立ち帰った者に対する祝福の約束がない。そこで預言者が改めて立ち帰れと勧告する。そして、祝福を得る根拠として、「主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられる」と言っている。これは出エジプト記の引用だ。出エジプト34:6-7。主御自身がここで御自分がどういうお方であるのか紹介してくださっている。そして主のご性質も御言葉も変わらない。私たちも、この御言葉を根拠に、主の憐れみを期待することができる。
主が「思い直され」と書いてある。これは主に「立ち帰れ」と同じ「シューブ」という言葉が使われている。私たちが立ち帰るなら、主も厳しい裁きから憐れみに態度を変えてくださるのだ。これは主御自身が変わるということではない。主は私たちが真心から立ち帰るなら、いつでも祝福しようと待ち構えておられる。それが主の御心だ。

15-16節。再び角笛を吹くように命じる。今回は断食して祈るための聖会を開くためだ。仕事、家事、主への奉仕、いつも行っていることを全部一度やめて、ただ主に立ち帰るためだけに聖別された集会に集う。その対象はすべての人だ。老人は体が弱くて断食にあまり向いていないし、育ち盛りの幼子、乳飲み子にも断食は過酷だ。それに乳飲み子には何が起こっているのか、わからない。預言者の語る御言葉を理解できない。それでも、そう最も弱い部類の人々に至るまで、一人残らず聖会に出席しなければならない。誰も自分は弱い、とるに足りないといった理由をつけて傍観者となることはできない。
乳飲み子の心が悪かったので主の日が迫っているということもないだろう。乳飲み子というのは、最も罪が少なく、純粋なものと主からみなされている。乳飲み子のように主の日の災いの原因となる要素が全くない人であっても、例外なく聖会でなければならない。だから、誰も心の中で「私は心から主を愛して主に従っているから心から主に立ち帰るための聖会とは無関係だ」と言ってはならない。私たちは王の系統を引く祭司として他人のために執り成す者として召されている。私たちは個人的に召されたと同時に神の教会としても召されている。教会の問題が自分自身の問題であるかのように主に執り成して祈るのだ。
花婿と花嫁というのは、結婚してから1年間、兵役を含めたあらゆる義務を免除される特権を持っている。しかし、主に立ち帰るにあたっては、そういう特権を主張できない。結婚式当日であっても結婚式場から呼び出されてしまう。初夜のために建てた天幕から出て、禁欲してひたすら主に立ち帰られなければならない。誰も自分には特権があるという理由で主に立ち帰ることを免除されない。
一人や二人くらいいなくても変わらないのに、と思うだろうか。そうではないのだ。私たち一人一人の存在が主の目に大きい。あなたが祈るか祈らないか、主に立ち帰るか立ち帰らないかは、この世界に大きな違いをもたらす。
実際的な主への従順として、この災いのときに、断食して祈ることをおすすめする。律法書では、特定の日に断食するように定められているが、そのような祭儀律法はキリストによって完成して今は実施しない。しかし、主は御自分が天に昇られた後は断食すると説かれた。山上の説教では人知れず断食するように説かれた。それは決まり事だからではなく、主に立ち帰り、主に特別に熱心に祈るにあたって断食するのだ。今こそ主に集中して祈るときだと信じて、週に一度一食でも、「この時間に断食して祈る」と決めて祈るのだ。実践することをおすすめする。

17節。祭司たちは祭壇のある祭司の庭で主に祈る。この祈りは、主を説得する内容だ。非常に大胆な祈りだ。主に立ち帰ると、主に対して大胆に祈ることが可能となる。私たちは祈るとき、主がその祈りを答えなければならない理由を持っていなければならない。そして、祈りの中で主に対してその理由をあげて説得するように祈ると効果的だ。そうすれば、私たちの信仰が増し加わる。主はその祈りを聞かざるを得なくなる。ここであげられているのは、イスラエルが主の民であり、イスラエルの地が主からの嗣業の地だということ。主は御自分のものを守る責任がある。また、もし主が何もしなければ、諸国の民が神を嘲り、神の栄光を汚すことになってしまう。それはもっともなことだ。主もそれを否定できない。南ユダ王国の人々は、最終的に預言者ヨエルに従って、これらのことを行った。その結果、祝福を得ることになる。災いを避けることができるようになる。私たちはどうか?私たちも心から主に立ち帰ろう。傍観者であることをやめて、災いの終息と大きなリバイバルに用いられる者となろう。

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