わたしが責任を果たします[ルツ記3章]

ルツ記
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主御自身を求めて、身を整えて主に近づきましょう。

わたしが責任を果たします[ルツ記3章]

わたしが責任を果たします[ルツ記3章]

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【ノート】
ルツはボアズから驚くばかりの恵みを受けた。ルツはボアズの畑で豊かな命の糧を得て、感謝し、喜んだ。ルツにはそれ以上に望むものはなかった。しかし、ナオミのところに帰るとボアズが贖い主であるという福音を聞くことになる。ボアズはエリメレクの家を絶やさないようにする責任のある人の一人だったが、これは贖い主や訳せる言葉。ボアズにはエリメレクが売った畑を買い戻す義務と、亡き夫に代わってルツを妻として引き取り、家が絶えないようにしてくれる義務があった。代価を払って買い取ることを贖いという。ルツはその贖いを要求することができる。ルツは自分には贖いを受けることができる法律上の権利があると知った。ボアズと結ばれることで、ボアズが失ったものを贖ってくれるかもしれない。ルツはボアズから与えられる恵みだけではなく、ボアズ自身を期待するようになった。そのように、贖いには、自分自身を相手にささげることが含まれる。キリストがしてくださったことはまさにそれだ。エフェソ5:25。キリストは教会に恵みを与えただけでなく、御自分をお与えになった。キリストは夫と妻が結ばれるように、教会を花嫁として迎え、教会と結ばれたのだ。それによって私たちが負っているすべての負の遺産を精算し、御自分と共に父なる神様から全世界を相続する権利を与えてくださった。キリストの贖いは、キリストとの結婚によって完全に実現する。キリストの周りにはキリストが与えてくださる奇跡や教えを求めて、多くの人々が集まった。私たちもそのように、キリストが与えてくださる恵みを得て喜び、満足していたかもしれない。しかし、これからは、キリスト御自身を求め、キリストと一つになろう。
ルツはボアズの恵みを受け続け、大麦と小麦の刈り入れが終わるまでボアズとの交わりを深めていった。そして、1節。幸せになる落ち着き先と書いてある。落ち着き先というのは、休む場所、安息の場所、安全な場所、アットホームな場所という意味合いがある。結婚して家庭を持つことが幸せだということ。ナオミはルツのためにそういう場所を探していた。ナオミは最初、ルツがモアブで新しい嫁ぎ先を見つけることで幸せになると思っていた。しかし、決してそうではなかった。多くの人が間違った場所に幸せを探し求めている。ナオミがルツのために探し求めて、見い出した幸せになる落ち着き先はどこだったか?

2節。贖い主であるボアズのところだ。贖い主にこそ幸せがある。幸せがどこにあるのかということについて私たちは間違えてはならない。詩編16:2。贖い主、イエス・キリストは私たちに安息を提供してくださる。マタイ11:28-29。安息を得るためにはどうするのか?イエス様のところに行き、イエス様と共に軛を負うことだ。軛というのは、二匹の牛が1組になって負うもの。私たちはイエス様と結ばれて、イエス様と共に歩むのだ。そこに安らぎがある。

ナオミはボアズが「麦打ち場で大麦をふるい分ける」という話を耳にしていた。麦打ち場でのふるい分け作業は通常午後四時から日没頃までに行い、海から吹いてくる強くて涼しい風を利用して、麦と空っぽのもみ殻を分ける。この仕事は、土地の所有者が自ら行うべきもので、その作業を終えると、その麦打ち場で寝て、大事な穀物の番をする。これがルツがボアズのところに行くときにしていたことだ。これは、バプテスマのヨハネがキリストの働きとして予告したことだ。マタイ3:11-12。主は聖霊と火のバプテスマを授けてくださる。火のバプテスマは私たちをふるい分ける。主は御自分に近づき、御自分の贖いにあずかろうとする者をふるいにかける。主は私たちのお金の使い方をふるいにかけ、時間の使い方をふるいにかける。私たちの人間関係をふるいにかけ、心の思いと考えをふるいにかける。ふるい分けられるのが恐ろしくて、主に近づきたくないと思うかもしれない。しかし、ふるいわけは私たちのためになる。ふるい分けは私たちの内にあるもみ殻、つまり無価値なごみくずを取り除いて、純粋な神の愛の実で満たす。恐れずに主の御もとに行き、もみ殻を焼き尽くしていただこう。

3節。ナオミは、ルツがボアズに近づくにあたって、ボアズの目に魅力的に見えるように準備するようにアドバイスしている。美しく装うように言っている。ここにキリストの花嫁なる教会の結婚準備の内容がある。
体を洗うことは、罪の汚れを捨て去ることだ。ハバクク1:13には「あなたの目は悪を見るにはあまりに清い」と書いてある。そんな主の御前に出るにあたって、罪をきっぱり捨て去らなければならない。Ⅱコリント7:1。まずは罪を罪として御前に告白する。Ⅰヨハネ1:9。告白するならば、主イエス様の血潮によって清めていただくことができる。血潮の力を信じる。次に、罪に関わるものを全部実際に捨てる。もし偶像やオカルトのグッズがあれば捨てる。悪魔の教えを説く本があれば捨てる。罪に誘う悪い人間関係があれば断絶する。それらのものが主とあなたとの関係を隔てているのだから、惜しみなく捨てる。

香油を塗ることは、聖霊様の油注ぎを受けることだ。油は真理を悟らせ、神に仕えるための力を付与するものだ。イエス様は十人のおとめのたとえをされた。五人の愚かなおとめは油を持っていなかったので、夜中に突然来た花婿を迎えるいくことができなかった。油は常に主から滝のように注がれている。Ⅰヨハネ2:27。信仰の祈りによる聖霊様を通しての深い交わりを毎日続けるなら、油注ぎを受けとることができる。

肩掛けは、別訳では晴れ着となっている。ルツが持っている一番良い服だ。これはキリストの義の衣だ。イエス様は婚宴のたとえをされた。婚宴に招かれた客の中には、晴れ着を着ていない人がいた。彼は追い出され、泣きわめいて歯ぎしりにすることになった。罪意識に常にさいなまれ、自分が汚れた者だと叫ぶ人は、謙遜な人ではない。信仰のない人だ。良心が弱くて、キリストの義を身にまとっていない。信仰によってキリストの義を身にまとっているか?罪に定められないという確信をもっているか?ローマ3:21-24。この義は、律法と預言者に太鼓判を押され、イエス・キリストによって、何の差別もなく、無償で与えられる。あなたは神の目に正しい者とみなされている。このことをしっかりと信じよう。

4節。イスラエルは昼と夜で寒暖の差が激しいので、着ている上着が昼はマント、夜は毛布の代わりになる。そのボアズの上着で身を覆って添い寝しなさいということ。衣の裾で女性を覆うというのは、結婚を表している。エゼキエル16:8。だからこれはルツの方から求婚をするようにという指示だ。ルツはボアズに惹かれていたので、即座にナオミの言葉に従う。5-9節。ボアズがルツに求婚しのではなく、ルツの方がボアズに求婚している。ルツは非常に大胆にボアズに近き、ボアズに求婚した。私たちは、イエス・キリストを慕い求めるにあたって、受け身的であっては、ならない。主の方が何かしてくださったら、何かを言われたら、それに応答しようと心を開いて待つだけではいけない。主はすでに私たちのために死んでくださった。私たちは祈りによって大胆に恵みの御座に近づき、主への愛を表し、感謝と賛美をささげ、求めているものを告白しよう。主は私たちが熱烈に求めることを求めておられる。

ルツはボアズに近づくにあたって、へりくだっていた。ルツはボアズの足元で寝ていた。ボアズの足元で完全に身をゆだねた。あの罪を赦された女性がイエス様の足を涙で濡らし、髪でふいて、接吻して香油を塗ったように。イエス様の足元に身をゆだねるということは、砕かれた心で、身も心も主にささげるということ。ベタニアのマリアはイエス様の足元で教えを聞いた。足元でこそイエス様の真理の光を受けることができる。私たちはイエス様の足元に近づこう。祈るときどういう姿勢をとるか?いろいろな方法があるが、時にはイエス様の足元にひざまずき、ひれ伏して祈ろう。

ルツはただ求婚をするだけでなく、主の律法で定められている権利に基づいて求婚した。「あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」と。多くの人がこの責任を果たそうとせず、放棄してしまっていた。しかし、ボアズなら責任を全うしてくれるだろうという期待を込めて求めた。
私たちの主イエス・キリストなら、御言葉で定められている責任を全うしてくれるに違いないと期待して、御言葉で約束されている権利に基づいて求めるのだ。主は真実で正しい方だ。聞かずにはいられない。私たちは御言葉に基づいて、祈り求めよう。

10節。ルツは姑のナオミに尽くしてきたという点で真心を示してきたが、ルツのボアズに対する求婚はもっと大きな真心を示すものだった。「若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった」と書いてある。ボアズは、若者ではなかったかもしれない。もしかしたらルツよりも一回り上か、ナオミと同じくらいの世代だったかもしれない。しかし、ルツは若くてイケメンだったら飛びつくという軽率なことをせず、エリメレクの家が絶えないことを願い、母親の指示のもと、主の律法に基づいてボアズに求婚した。ボアズは、ルツが結婚について思慮深かったという点が今までしてきたことの中で最もすばらしいと言っているのだ。誰と結婚するかというのは人生を左右する大きな選択。だから、婚活に人間性が現れる。もしあなたが婚活をしているなら、どういう基準でしているだろうか?ルツに倣うと良い。

11-13節。「主は生きておられる。私が責任を果たします」。主にあって、私があなたを贖うという意味。これがボアズとルツの婚約だ。ボアズはルツとナオミの幸せを願い、自分の財産を犠牲にしてでもエリメレクの家を絶やさないようにすると決断した。そのように、イエス・キリストはすべてを犠牲にして、私たちの贖いの御業を成し遂げてくださった。ルツは約束を得ることができた。しかし、ボアズはあくまでも律法に基づいて進める。自分よりもエリメレクに近い親類がいるので、まずその人に聞いてみなければならない。ルツは約束を得た。しかし、まだそれは実現していない。それでも、贖い主のはっきりとした約束を得たので、それを信じて、そこを去ることができた。

14節。ボアズは情欲に負けずに清さを保った。愛の誓いをしたとしても、自分より近い親類のことが解決するまでは、二人は夫婦ではない。清さを保った交際をすることが、結婚後の幸せにつながる。それだけでなくここでは、悪い噂が立たないように、ルツをまだ暗いうちに去らせるという配慮をしている。何もなかったとしても、人前で疑われるようなふるまいをするべきではない。

15節。ボアズは口での約束だけでなく、豊かな恵みをルツに示した。このことによって、ボアズがきっと約束を守るということを堅く信じることができる。私たちが贖い主のもとに進み出るとき、すぐに聖霊様の激しい訪れや神の強力な臨在と油注ぎを感じなかったとしても、空しく帰るということはない。必ず多くの恵みを受けることができる。

16-18節。もう足元に身をゆだねて、法律上の特権を求めたから、確かな約束を得たから、後は待つだけだ。ボアズは必ず約束の通り動いて、贖ってくれるだろう。主から約束が与えられて確信を得たら、じっとしていて、主が実現してくださるのを期待して待つのが信仰だ。余計なことをして失敗してしまわないようにしよう。「今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう」とあるように、約束の実現のときは遠くない。主の約束を覚えて待ち続けよう。

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