荒れ野の誘惑[ルカ4:1-13]

ルカによる福音書
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アダムが人類を代表して誘惑に負けて罪を犯した結果から、イエス様が人類を代表して誘惑に勝利して救ってくださいました!

荒れ野の誘惑[ルカ4:1-13]

荒れ野の誘惑[ルカ4:1-13]

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【ノート】
イエス様は聖霊様に満たされていた。聖霊様で満たされているとどうなるか?悪魔の誘惑を簡単に退けることができる。1-2節。「荒れ野の中を“霊”によって引き回され」と書いてある。荒れ野に行ったのは、イエス様の意思ではなかったということがわかる。聖霊様がイエス様に悪魔の誘惑を通して試練を与えた。悪魔が誘惑をするのは滅ぼすためだ。悪い目的だ。神が試練を与えるのは信仰を強め、霊的にも人格的にも成長させるためであり信仰を本当と証明して祝福するためだ。良い目的がある。イエス様が試練を受けられたのは、良い目的、私たちの救いのためだ。イザヤ28:16。試みを受けた石なるイエス様がおられるので、私たちの信仰はゆるぎないものとなる。ヘブライ2:18。試練に打ち勝った者として、試練の中にある私たちを救ってくださる。試練によって、イエス様は頼りになる方となった。悪魔の誘惑と聖霊様の導きによる神からの試練がある。そして、聖霊様の方が悪魔よりも常に上手だ。聖霊様は悪魔をも利用する。だから、悪魔の誘惑があっても、聖霊様の導きの中にある私たちには善い目的が適用され、私たちにとって益となる。だから、大変なことがあっても恐れることはない!ハレルヤ!

このイエス様が誘惑を受けられたことは、イエス様の系図の直後に書いてある。イエス様の系図はアダムにまで至っている。これは、悪魔の誘惑によるアダムの堕落の結果から、イエス様の勝利によって救うためだ。アダムは人類を代表して誘惑を受けて罪を犯したが、イエス様は人類を代表して誘惑に勝利されたのだ。それでは誘惑の内容を見ていこう。これらの誘惑は、イエス様の宣教の中で何度も見られるものだ。イエス様はこの荒れ野ですでに誘惑に勝利しておられたので、何の問題もなく宣教を進めることができた。私たちはどうか。チェックしていこう。

3節。イエス様にはもちろんそれができる。しかし、それをするべきなのか?可能であるということとそれをするべきなのかどうかということは別問題だ。イエス様が神からの力を何に使うかということは、メシアとして働きの目的を決めることだ。悪魔はイエス様が経済的なメシアになるように誘惑したのだ。人間は罪を犯してからというもの、罪の呪いとして汗水流して働いてパンを得なければならなくなった。食べても食べてもお腹は減り続ける。パンのために働かなければならない。この呪いはすべての人が生きている限り常に抱えている問題だ。もしイエス様がそこらじゅうの石をパンに変えたら、人々は飢えへの恐れと仕事から解放されてイエス様を拍手喝采するだろう。実際イエス様がパンを増やしたとき、人々は熱狂した。イエス様は生けるパン工場となってパンを供給し続ける。

4節。イエス様はパンの必要性を否定はしなかった。この肉体が生きていくためにはパンが必要だ。神は空の鳥を養っているように、御自分に従う者が食べていけるようにしてくださる。しかし、人間は口に食べ物を詰めれば生きられるというものではない。人間には肉体以外に霊があり、心がある。人間は堕落によって霊が死に、心がとらえがたく病んでしまった。パンは腹を満たす。霊を生き返らせ、心を癒し、満たすのは、生ける神の御言葉による神との交わりだ。イエス様は罪の呪いの結果の一部を表面的に解決するために来られたお方ではない。罪そのものを解決して根本から人間を完全に救うために来られた。救いのスケールが違う!誘惑では、経済的な救いをもたらすメシアか、罪からの救いをもたらすメシアか。ただのパンを量産するメシアか、命のパンなるメシアかが問われた。イエス様は悪魔の誘惑を退けて、私たちの命のパン、命のマナとなり霊的な救いをもたらすメシアとして立つ決意を示された。イエス様を生けるパン工場程度にとらえてはいないか?すがれば経済的問題を解決してくれるメシア。もしその程度の認識しかなければ悪魔の嘘にだまされている。イエス様はそんなちっぽけなメシアではない。私たちはパンだけで生きるものではない。御言葉が不可欠だ。毎日食べ物を食べるように、神の御言葉である聖書を読んで、神との交わりを持って霊的な糧を得ていく者となろう。毎日少しずつでも!でないと霊的に健康的に生きられない。

5-7節。ここで悪魔の能力を垣間見ることができる。悪魔は神の許しさえあれば、全世界のすべての国々を一瞬で見せることができるのだ。そして、悪魔は全世界の国を「これと思う人に与えることができる」と言っている。これも事実だ。イエス様は悪魔に「嘘だ!」と言っていない。悪魔は実際に一人の人物に全世界を与えることができる。全世界の支配権は最初、人間に与えられていた。神は人間に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を支配せよ」と言われた。しかし、人間は悪魔に従って罪を犯してしまった。その結果、地上の支配権は人間から悪魔に移った。それで悪魔は「この世の神」などと言われている。悪魔は実際に、一人の人物に全世界を与えることになる。それが終わりの患難の時に出現する反キリストだ。悪魔はイエス様が政治的なメシアになるように誘惑した。政治的なメシアは求められていた。多くのユダヤ人たちは、メシアが来てローマ帝国を武力で倒し、ユダヤ人の独立国家を造り、世界征服するメシアを待ち望んでいた。そうすれば、そのメシアによって世界が平和になる。一つの世界帝国を作って世界平和を実現するというのは、多くの人々が望んでいることだ。国連はその予行演習だ。反キリストはそうする。だから、多くの人が反キリストを熱狂的に歓迎するだろう。

イエス様の返答は8節。誰も二人の主人に仕えることはできない。もし悪魔を拝むなら、父なる神様との関係を損ねることになる。つまり、霊的な命を失ってしまうことになる。イエス様は「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われた。命の方が常に何よりも大事だ。多くの人が全世界どころか、この世のつまらない地位や財産のためにキリストのうちにある命を失っている。損得勘定をしてみよう。それは大損だ。私たちはイエス様のように、ただ主を拝み、ただ主に仕えよう。そうすれば、父なる神様がくださるものは、永遠の命だけではない。悪魔が約束するものよりもずっと大きい。父なる神様は神の国をくださる。新しい世界において全世界をくださる。そこで王としてキリストと共に統治できるようにしてくださる。いまの世界は過ぎ去ってしまうものであり、私たちも短い間しか生きられない。反キリストの統治も長く見積もっても7年しか続かない。しかし、新しい世界は永遠に続く。永遠の統治が約束されているのだ。イエス・キリストに至ってはあらゆる名にまさる名が与えられ、王の王、主の主として君臨する。だから、この誘惑では、目先の空しい世の国の王か来るべき永遠の神の国の王かが問われている。目先の空しいものに心を奪われて悪魔に従ってはならない。信仰の目で神の国のすばらしさを見て、ひたすら神の国を求め、神の国に全力を注ぐ者となろう。

9-11節。これは詩編91編の引用だ。悪魔は聖書すら引用して誘惑する。御言葉は非常に強力なので、御言葉を曲解して誘惑するのだ。異端やスピリチュアリズムが聖書を引用するからといって驚いてはならない。それにしても、神殿の屋根から飛び降りろというのは、いったいどんな誘惑なのか?神殿では礼拝のために常に大勢の人が集まっている。もし、イエス様が神殿の屋根から飛び降りても、天使たちによって支えられて無傷だったらどうなるか?人々の脚光を浴びることになる!すごい!偉大な力がこの人に働いている!みんなの視線がイエス様に集まることになる。そうすれば、一躍人気者だ。ごいことをするメシアというのは、人々の期待するところだった。人々はメシアについて、ヨルダン川の水を割ったり、天からマナを降らせたりする奇跡をしるしとして行うのではないかと期待していた。そういうニーズを満たしてあげれば、否応なしに全員がイエス様を信じるだろう。
12節。神殿の屋根から飛び降りる必要がないのに、飛び降りるのは神を試みることだ。切迫した必要がなければならない。イエス様が無暗に奇跡を行わなかったのはこのためだ。イエス様は必要があるときにだけ父なる神様の御心に従って奇跡を行った。病める人、悪霊にとりつかれた人がいるとき、パンや葡萄酒やお金がないとき、嵐のとき、舟がないとき、そういう必要があるときに奇跡をなさった。しかし、人間の目を楽しませる目的で奇跡を行ったことは一度もない。
ましてや、神殿というのは神様を礼拝する場所だ。そこで飛び降りたら神様に向けられようとしている目を自分に向けてしまう。人間に見せるためのパフォーマンスか神への礼拝かが問われている。私たちは何をするにしても、注目を浴びたいという誘惑に勝たなければならない。すごいことを行うことは良いが、自己顕示欲を満たすためではなく、神の栄光を現わすためという意識を持とう。神への感謝と賛美をささげ神に栄光を帰することを忘れないようにするのだ。集会での奉仕、賛美、献金、祈りにしても、仕事や私生活のことについても、人間の目を喜ばせるためではなく、神への礼拝として神にささげよう。

3つの誘惑に共通しているものがある。イエス様は悪魔と長々と議論をしていない。もし私たちが悪魔と議論をするなら、悪魔は非常に賢いのですぐに論破され、まるめこまれて、誘惑に陥ってしまうだろう。どんな暴論でも詭弁を使えば正論のように聞こえるのだ。イエス様は全部についてただ書いてあると言われた。聖書に書いてあるということだ。イエス様は御言葉をひとこと言われただけだ。悪魔が長く語るのに対して、イエス様はシンプルな御言葉のひとこと。それで十分なのだ。聖書の御言葉には絶大な力がある。これにまさる権威は何もない。悪魔も御言葉を出されたら太刀打ちできない。御言葉ひとことですべてが片付く。長々とした議論、人間的な詭弁を使うのはやめよう。それは悪魔がすることだ。御言葉の権威を信じて従い、御言葉を用いる者となろう。

13節。あらゆる誘惑と書いてある。新改訳第三版では「誘惑の手を尽くした」となっている。ルカによる福音書には代表して3つの誘惑が書いてあるが、実際にはありとあらゆる種類の誘惑をイエス様にしたのだ。アダムはたった一度の誘惑に負けた。しかし、イエス様は40日間にわたって、およそ人間が経験しうるありとあらゆる誘惑に勝利したのだ!私たちが今直面している誘惑、それについても主は経験済みであり、勝利済みなのだ。私たちは主の歩まれた道をたどっている。主にあって勝利しよう。「悪魔は時が来るまでイエスを離れた」と書いてある。悪魔は時が来ると最後の誘惑をするために戻ってくる。その時とは十字架だ。悪魔はイエス様に十字架から降りるようにと誘惑した。イエス様はその誘惑にも打ち勝ち、救いの御業を成し遂げるために最後まで十字架を耐え忍んだ。その十字架によって私たちは救われた!私たちにもそれぞれの十字架がある。主のために経験しなければならない苦しみ、犠牲しなければならないものがある。私のための主の十字架を覚えて、耐え忍ぶ者となろう。アーメン。

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