あなたの神はわたしの神[ルツ記1章]

ルツ記
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いつまでもどこまでも主に従う覚悟が必要です。

あなたの神はわたしの神[ルツ記1章]

あなたの神はわたしの神[ルツ記1章]

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【ノート】
ルツ記は士師の時代の話だ。混乱した士師の時代の中にあって一条の希望の光をここに見ることができる。一つの貧しい家庭での悲劇と祝福についてだが、これが次の王政の時代に移行する重要な鍵ともなっている。一つの家庭を通して神は新しい時代を創る御計画を進められることがある。だから、自分の家庭が信仰に堅く立つということは決して小さいことではない。私たちは家庭に信仰によるビジョンを描く者となろう。

ルツ記は贖いについての書物。贖いというのは代価を払って買い取るということだ。クリスチャンがイエス・キリストによって贖われたということがどういうことかを表している。ボアズがイエス・キリストの型、ルツはキリストの花嫁である教会の型だ。私たちはルツのように呪われた罪人からキリストの花嫁になるように召されているのだ。
1-2節。4人の人物が登場する。まず、エリメレクは「私の神は王」という意味の名前の人でベツレヘム出身。その妻のナオミは「快い」とか「楽しい」という意味。その二人の息子、マフロンは「病気の者」という意味で、キルヨンは「消え失せる者」という意味。何で子供にこんな名前をつけるのか、という名前だ。二人とも体が弱かったのかもしれない。この名前は二人の末路を預言するものとなってしまった。

ベツレヘムはパンの家という意味だが、皮肉にも飢饉にあった。エリメレクたちは飢饉を避けるためにユダのベツレヘムからモアブの野に移った。これは、神の国を離れて、世の国、つまるところ呪われた国に移ってしまったということだ。1節の「移り住んだ」という言葉には一時的にとどまるという意味だが、4節の「暮らした」はすっかり根を下ろして定住するという意味。最初は世にほんの少しの間だけ身を置くつもりでも、いつの間にかに世にすっかり染まって堕落してしまうものなのだ。神の国、つまり神の統治下にとどまっていても、試練はある。飢饉が襲ってくることはある。主に信頼するなら、試練を乗り越えることはできる。実際、飢饉は一時的なものであって、ベツレヘムの人々は生き延びることができた。イエス・キリストは神の国について何とお教えになったか?マタイ6:31-33。神の国を慕い求めるなら必要なものはみんな与えられるのだ。しかし、エリメレクたちはイスラエル人なのに異邦人のような不信仰な考えをしてしまった。試練にあうと神の国を捨てて、利益を求めて世の国の方に行ってしまった。世の国の方が豊かで、うまくいくように思われたのだ。それで、それまで神から受けていた恵みを徐々に失うことになってしまった。
呪われた国に住んだ結果、被った呪いが3-5節。移り住んだ4人のうち、3人が死んだのだ。残ったナオミは呪われた国にとどまった結果、20節で、自分の状態が快いという意味のナオミから苦いという意味のマラに変わったと告白している。人間の目にうまくいくように見えても呪われた国にとどまるならば、その行く末は破滅であり、主にある楽しみを失って非常に苦い思いをすることになるのだ。

マフロンとキルヨンは死ぬ前にモアブの女性を妻にしていた。一人はオルパで女鹿という意味の名前。もう一人はルツで友情という意味の名前だ。ちなみに日本の漫画のワンピースはルフィとナミが出てくるがそれぞれルツとナオミからとられていると考えられている。ルツを日本ハリストス正教会ではルフィと読む。モアブの女性を妻にするというのは問題だ。申命記23:4-7。バラムはモアブ人とミディアン人の女性を使ってイスラエル人を誘惑して偶像崇拝の罪を犯させた。同じことがエズラ・ネヘミヤの時代にも問題になっている。主がモアブ人を受け入れてはならないと言われたのだ。しかし、ルツは最終的に主に受け入れられている。それはルツがイスラエル人と結婚したことをきっかけとして完全にイスラエル人になったからだ。ナオミたちは信仰が後退していても完全には失われておらず、ルツに主への信仰を伝えることができた。ルツはまだ神の国に入ったことがなく、呪われた国にいて主の恵みの深さを知らなかったが、それでもイスラエル人だった。それは、イエス・キリストを信じはしたが、まだ神の国の原則で生きておらず、イエス・キリストとの親しい交わりを持っていないクリスチャンのようなものだ。
その人も確かにクリスチャンではあるが、いつサタンの誘惑に陥って世のものになってしまうかもわからない非常に危うい状態だ。神の統治の下で生き、イエス・キリストと日々親しい交わりを持つ次の段階に進まなければならない。そのためには通らなければならない試練がある。

6節。ナオミが主に立ち帰ったきっかけは、主が御自分の民に恵みをお与えになったということを聞いたことだった。罪人が主に立ち帰るきっかけを与えるのは、クリスチャンが主の恵みを受けたという証しだ。私たちはそういう証しをして、人々を救いに導く者になろう。

ナオミ、オルパ、ルツの3人がそれぞれ神の国に向かった。しかし、同じ場所に向かいつつもその思いは三者三様だった。ナオミは、主に立ち帰ろうとしつつも、あまり神の国に帰ることに期待を持っていなかった。御国に対して期待を持たないクリスチャン!そういうクリスチャンが主に立ち帰ろうとする罪人につまずきを与えてしまう。私たちはむしろ神の国の原則によって生きることがどんなに喜びであり、すばらしいことだということを証しすべきだ。ナオミの思いは良くないことだが、主は人間の最悪を最善に変えることのできるお方。主はナオミを通してオルパとルツに3つの試練をお与えになった。主に従おうとする志を持っているなら、その志は必ず試練を通るということを認識しなければならない。

7-10節が第一の試練。ナオミはオルパとルツに自分の故郷に帰るように命じる。もうあなたたちはすべきことをした。義理を通した。これ以上に私に尽くす義務はない。故郷に帰ることを主も祝福してくださるだろう。二人は良くしてくれたのはわかっているから、一緒に行かないことについて、何ら後ろめたい思いを抱かなくていい。ナオミは配慮の行き届いた言葉で二人が故郷に戻るように説いた。信仰の観点から見るなら間違っているが、ナオミなりに二人の幸せを思っての言葉だった。それだけに強い誘惑になる。もし二人が義務感にかられて、ナオミに悪く思われたくない、主に罰せられたくないという思いからナオミと一緒に行こうとしていたのなら、この言葉で思いとどまっただろう。しかし、二人とも食い下がった。この試練をパスすることができた。私たちが主に仕えるのは義務感から、人に言われて、手を引かれてというではいけない。自らの意思で主への信仰と愛に基づいて主に仕える者となろう。

11-14節が第二の試練。当時はレビラト婚といって、夫の死後、未亡人は夫の兄弟の一人と再婚することになっていた。しかし、ナオミ自身が未亡人で、子供がいなかったので、オルパとルツの再婚は困難だ。ほかにも、ナオミの縁続きの人と再婚する可能性があるのだが、ナオミはそれについては触れていない。ナオミはここで、私について来るのなら、一生涯やもめのまま過ごさなければならない可能性が高いと言っている。これは配偶者と子供に恵まれた幸せな結婚生活をあきらめなければならないということ以上に厳しいことだ。当時、女性だけで生きていくというのは、飢饉を生き延びるよりももっと望み薄だった。主の恵みがなければ、飢え死にしてしまうかもしれない。しかもナオミは「主の御手が私に下されたのですから」と主について否定的なことを言って、主への信仰をくじいている。だから、この言葉を聞いても耐えるためには、ナオミへの情以上のもの、命を捨てる覚悟を持つくらいのかたい決心が必要だ。主イエス・キリストも御自分に従う者にそういう覚悟を要求される。マルコ8:34-35。オルパにはそれがなかった。ナオミになんとなくついて行こうと思っていたけども、その決心はかたくなかった。献身の覚悟が欠けていた。それで、オルパはここで脱落してしまった。神の民としてアイデンティティを捨てて、モアブの故郷に帰り、また偶像崇拝者に逆戻りしてしまったのだ。詩編78:37。オルパは警告だ。信仰告白をして、水のバプテスマを受けた人の中にも、神の恵みの深さを知る前にちょっと不都合なことがあると信仰を捨ててしまう人がいる。もしあなたがまだ信仰を貫く覚悟をしていないのなら、今その覚悟をしよう。私はどんなことがあっても一生涯信仰を貫くと。ルツにはその覚悟があったのでナオミのもとにとどまった。

15-18節が第三の試練。ほかの人がそうしたのだから、あなたもそうしなさいというものだ。人間は人の行動に流されやすい。特に善いことよりも悪いことに倣ってしまう傾向がある。だから、信仰の弱い人は誰かがつまずくと自分もつまずいてしまう。ドミノ倒しになってしまう。
日本人には特にそういう傾向が強いかもしれない。まわりを気にして、ほかの人の顔色を伺う人が多い。誰かが音頭をとると、たちまちそちらに流れていく。良く言えば協調性があるともいえる。しかし、私たちは不信仰については、決して同調してはならない。ルツの場合、長い間一緒に過ごしたオルパが神に背いてしまった。身近な存在が背教するとその影響、その痛みは大きい。それでもルツの信仰は折れなかった。私たちも、たとえ自分の周りの誰が神に背いたとしても、最後まで神に従い続ける者となろう。
ルツはナオミと家族関係以上に、信仰による結びつきがあった。ルツは主と主にある家族であるナオミを愛していた。愛は簡単にあきらめない。ルツは16節で「あなたの行かれるところに行き、お泊まりになる所に泊まります」という。どこまでもナオミとナオミが信じる主なる神についていくという献身を表明している。さらに、「あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神」と言っている。はっきりと自分のアイデンティティを主なる神に置いている。ルツはいつまでついていくと決意していたか?17節では「死んでお別れするのならともなく」と言っている。死ぬまでだ!主は「死に至るまで忠実であれ」と言われる。ルツはその通りに死に至るまで忠実であろうとしている。 ルツの心は定まっていた。もうモアブ人に戻るとか、偶像に戻るという選択肢はなかった。ナオミに3度帰れ、帰れと言われても、帰る場所は神の国以外になかった。私たちも世の生き方を完全に捨て去って、誰に何と言われようと揺るぎない心でクリスチャンとして、主なる神を自分の神として生きる者となろう。

19-21節。この帰国の時の態度に、ナオミの心情が良く表れている。ナオミは神に立ち帰った。しかし、ナオミは罪を自覚していない。ナオミは堕落して長い間神から遠く離れていた人だ。その結果、不幸になった。それなのに、罪を深く悔い改める様子もなければ、神の恵みが与えられることを喜ぶ様子もない。逆に自分の不幸について神をうらむような発言をしている。自分の罪によって打たれたのだから、神の恨んではならない。それでも、とにかく神に立ち帰ったことは良いことなので、ナオミには恵みが与えられる。全能者は自分の蒔いた種で苦しんでいる人についても、御自分のもとに帰るなら憐れんでくださり、恵みを与えてくださるのだ。しかし、私たちはそういうところを目指してはならない。私たちは立ち帰るとき、罪を自覚して砕かれた心で神に立ち帰る者となろう。今までの苦しみは自分の罪の結果であることを知って、今までの堕落は自分の汚れによるものであることを知って、主の恵みに感謝して立ち帰るのだ。そうすれば、苦々しさは消え、主にある快さが回復する。詩編34:19。

22節。ナオミが神から離れたときは飢饉のときだったが、立ち帰るときは、収穫のときだった。ルツにとっては、試練を乗り越えて神の国に入るやいなや、さっそく収穫を刈り取ることができるシーズンを迎えた。神は御自分に立ち帰る者には、すぐにでも収穫の喜びを豊かに味わわせてくださるのだ。では、収穫とは何を表しているのか?過越祭の一週間後の初穂の祭り、今でいう復活祭から大麦の収穫が始まり、七週祭、またの名はペンテコステの日まで50日間続く。七週祭のころには小麦の収穫が始まる。これはルツ記でルツがベツレヘムに着いたときからボアズと婚約したときまでに相当する。それで、2千年前のユダヤ人には七週祭のときにルツ記を読む伝統があった。いまでもそれは行われている。だから、大麦の収穫はキリストの十字架の死と復活の恵みにあずかることであり、小麦の収穫は聖霊のバプテスマの恵みにあずかることを意味する。神に立ち帰り、イエス・キリストと親しく交わり、これらすべての恵みにあずかる者となろう。
すべては信仰の決断によって始まる。ルツに倣おう。私たちはルツのように、一層に世を離れ、完全に偶像を離れ、何があっても、誰になんと言われようとも、死に至るまで神の民として主を礼拝し続けるということを今一度かたく決断しよう。主イエス・キリストに霊肉ともに完全に献げる者となろう。そうすれば、主はすぐにでも恵みを注いでくださり、神の国の豊かさを知らしめてくださる。

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