イエス様の洗礼と系図[ルカ3:21-38]

ルカによる福音書
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なぜ罪なきイエス様が悔い改めの洗礼を受けたのでしょうか?
なぜマタイとルカの系図は違うのでしょうか?

イエス様の洗礼と系図[ルカ3:21-38]

イエス様の洗礼と系図[ルカ3:21-38]

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【ノート】
今回の箇所はイエス様のバプテスマとイエス様の系図についてだ。ここでイエス様はメシアとしての油注ぎを受ける。21節。ここで、民衆のバプテスマとイエス様のバプテスマが並列で書いてある。しかし、よく考えたらイエス様にはバプテスマを受ける必要がなさそうだ。水のバプテスマは何のためか?悔い改めのしるしとして受けるバプテスマだ。イエス様には悔い改めるべき罪は何一つない!では、イエス様は何のためにバプテスマを受けたのか?人々の罪を負うためだ。罪なきイエス様がほかの人と同じようにバプテスマを受けることは、イエス様が私たちの罪を負って罪人の一人に数えられることをいとわない決意を意味している。そして、バプテスマそれ自体に、イエス様の最も重要な救いの御業が予表されている。バプテスマは水の中に入り、水から出る。水の中に入ることは私たちの罪のための十字架の死を意味する。水から出ることは死からの復活を意味する。イエス様はそのメシアとしての第一歩でメシアとして成し遂げることが何かを示された。そして、私たちが水のバプテスマを受けるときには、このイエス様の十字架の死と復活にあやかる。ローマ6:4-8。罪に死んで、罪から解放されて、新しい命に生きる。これが水のバプテスマだ。罪に苦しむのはなぜか?ちゃんと死なないから、あるいはちゃんと復活しないからだ。ちゃんと死なないのはなぜか?罪を認めようとしないからだ。古い自分がしたあらゆる悪、偶像崇拝、魔術、怒り、嫉妬、情欲、怠惰、高慢、不信仰、それらの罪を認めないから、古い人が死なない。イエス・キリストは罪がないのにバプテスマを受けることを恥じとしなかった。それであれば私たちも古い自分のメンツを守ろうとするのをやめて、すべての罪を認めて、ちゃんと死のう。そして、復活するものとなろう!私たちに働く神の力というのは、死者を新しい命に復活させるものだ。その神の力に不可能は何もない。そのことを信じる信仰によって神の力を体験し、罪から解放された新しい人生を歩むことができる。別人のように生きることができる。「できないできない」と口にするのはやめよう。私を強めてくださる方のお陰で私にはすべてが可能です。私には罪と関わりのない生き方ができる。私には新しい生き方ができる。主にあってできるできるできるというものとなろう。アーメン。

イエス様はバプテスマを受けた後、祈っておられた。このことはほかの福音書に書いてない。ルカによる福音書だけに書いてあるのは、ルカによる福音書が人間としてのイエス様を強調する福音書だからだ。人間としての美しい性質を最もよく表すのは祈りだ。主が祈っておられると、天が開けた。申命記28章では悔い改めない罪人に対して、天が赤銅になると書いてある。赤銅というのは、かたい金属だ。その人の上で、天がかたい金属のように閉じてしまっていてどこにいっても一切の恵み、一切の祝福を受けることができない。主がバプテスマを受けて祈っておられると天が開いた。天は悔い改めと祈りによって開くのだ。天が開けば、どこに行っても神様からの良い賜物を受け、神様との親しい交わりを持つことができる。その具体的な内容が22節。まず、聖霊様が鳩のような姿で降って来られた。続いて、父なる神の御声が天から聞こえた。このことから、聖霊様の油注ぎを受ける秘訣は祈りだということがわかる。神の御声を聞く秘訣も祈りだということがわかる。霊的なことで何かが足りない、というとき、たいてい足りないのは祈りだ。満たされないとき、祈ろう!心が騒ぐとき、祈ろう!力が足りないとき、祈ろう!導きが必要なとき、祈ろう!

まず、聖霊様が降って来られたことについて考えてみよう。イエス様はメシア、油注がれた者だが、イエス様が油注がれたのはこのときの聖霊様の油注ぎによる。聖霊様は本来目に見えない。聖霊様は目に見える姿で降って来られた。これは、それだけ聖霊様の臨在が強力だったからだ。神の臨在が人間に知覚できる現象となって現れたものをシャカイナグローリーという。シャカイナはヘブライ語で、シャカンという隣人の間に住むという意味の動詞の名詞形。グローリーは英語。出エジプトした後、イスラエルの民を導いた雲の柱と火の柱はシャカイナグローリーだ。
シナイ山でモーセが十戒を受け取るときに見えた火や角笛の響きはシャカイナグローリーだ。そこに神が力強く臨在された。シャカイナグローリーは臨在の幕屋にも、ソロモンの神殿にも表れた。それが、イエス・キリストの上に降った。しかも聖霊様はこのときからずっとイエス様の内にとどまられた。イエス様はこのときからシャカイナグローリーを運ぶお方となられた。イエス様は生ける臨在の幕屋、生ける神殿として歩まれた。

そのしるしは、イエス様を通してなされた様々な奇跡、癒し、悪霊の追い出し、嵐を静める、パンを増やすなどを通して表れている。ただし、このとき、イエス様の上に降った聖霊様は火や雲ではなく、鳩のような姿というところに特徴がある。聖霊様はいろいろな姿をとることができるがこのときは鳩だった。鳩の特徴は何か?イエス様は「鳩のように素直になりなさい」と弟子たちに命じられた。素直という言葉には原語では無垢、単純、無害という意味のあるギリシャ語が使われている。聖霊様が鳩のように降って来られたのは、イエス様の素直な品性を表している。イエス様は自分を主張せず、いつも父なる神から言われたことに素直に従われた。素直な品性と奇跡を行う力、聖霊様が降られてからというもの、この二つがイエス様には伴っていた。イエス様は神御自身だ。にもかかわらず、奇跡を行うにあたっては御自身の神としての力を使わず、聖霊様に依存していた。ということは、イエス様のなさった奇跡はイエス様に限定されることではなく、同じ聖霊様を受けているクリスチャンにもできるということだ。そのことはヨハネ14:12でも明らか。聖霊様の油注ぎを祈り求めよう。私たちも生ける神殿として、シャカイナグローリーを運ぶ者となろう。そして、油注ぎを保つためには、ダイナミックな奇跡ばかりでなく、鳩のように神に素直に従順する品性を合わせて求める者となろう。

バプテスマに続いて、父なる神の御声が聞こえてきたが、その御言葉の内容について考えよう。第一に、それは愛の告白だ。祈りによる父なる神様との交わりというのは、このように神の愛を啓示していただくものだ。第二に、それはイエス様が神の子であることを意味する。イエス様は12歳のときにすでに神を父として認識していたが、神からこのような声を聞いていたからだ。第三に、それは承認の御言葉だった。私の心に適う者と言われた。新改訳第三版では「私はあなたを喜ぶ」と訳されていてこちらの方が正確。イエス様はまだこの時点でメシアとしての働きを何もしていない。主はイエス様を最初から承認し、喜んでおられたのだ。私たちに対してもそうだ。主は私たちが良い行いをして初めて認めてくださるのではない。だから、主の承認を得るためにがんばる必要はない。主は愛する我が子である私たちを最初から認めてくださっていて、喜んでいてくださる。このような御声をしっかり聞くことが、与えられた使命を果たしていく力となる。

この直前にイエス様は水のバプテスマを受けられたので、聖霊様と父なる神様はイエス様が水のバプテスマを受けたことを喜ばれたということがわかる。水のバプテスマのことを単なる儀式だから受けなくて良いとする人がいるが、そうではないということが良くわかる。イエス様は水のバプテスマを受けられた。イエス様のバプテスマを聖霊様と父なる神様も御自身を表し、祝福し、承認なさった。水のバプテスマは三位一体のすべての位格がその価値を認めるものであり、クリスチャンに求めるもなのだ。それで、イエス様は大宣教命令で「父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい」と命じておられる。

23-38節はイエス様の系図。イエス様は30歳のときに宣教を始められた。民数記4章では臨在の幕屋で主に仕える働きをすることができたのは30歳から50歳の人だ。神にささげるのは最も良いものでなければならない。精神的にも肉体的にも成熟していて働き盛り、最も脂がのった壮年の時期を主にささげて仕えるのだ。イエス様はちょうどその時期に働きを始めた。壮年の方は主からの召命に応えて、神への奉仕を始めることをおすすめする。
続いて名前の羅列が出てくる。新約聖書にはもう一か所、系図が登場するところがある。マタイによる福音書の1章だ。マタイとルカの系図は、よく見るといろいろな違いがある。

そもそも同じ系図ではない。ダビデからヨセフまでの間の名前が違うのだ。これはどういうことなのだ?23節では「イエスはヨセフの子と思われていた」と書いてある。そう思われていただけで、天から「あなたは私の愛する子」という御声があったように、実際には神の子だ。イエス様はヨセフにとって義理の息子だ。同じように、「ヨセフはエリの子」と書いてあるが、これはエリの義理の息子という意味。ヘリはマリアの実父で、ヨセフにとっては義父だ。マタイの系図はヨセフの系図だが、ルカの系図はイエス様の母方のマリアの系図なのだ。

ほかにも違いがある。マタイは福音書の最初にイエス様の系図があるが、ルカはイエス様が水のバプテスマを受けた後に系図がある。マタイはアブラハムから始まって、イエス様に至っているが、ルカはイエス様から始まってアダム、そして神に至っている。それはそれぞれの系図が示そうとしている内容が違うからだ。マタイでは、イエス様がユダヤ人の王としてお生まれになるということを示している。ルカでは、イエス様がアダムによって全人類にもたらされた罪を身代わりに背負い、全人類に永遠の命をもたらすということを示している。新約聖書はイエス様のことを最後のアダムと書いてある。最初のアダムによって罪と死が世に入った。最後のアダムによって罪の赦しと永遠の命が入る。ローマ5:17-18。Ⅰコリント15:22,45。だからこそ、水のバプテスマによって私たちの罪を背負うことを示された後に、系図が登場するのだ。

36節にカイナムという人がいる。この人は創世記11章のセムからアブラハムに至るまでの系図に出てこない。それはなぜか?これをもって聖書が間違いだと指摘する人がいるが、それは間違い。聖書では子という言葉で孫のことも、ひ孫のこともさす。父という言葉で祖父のことも、曾祖父のこともさす。だから、系図に何人かの名前を省いたり増やしたりしても、意味は通るのだ。聖書の系図に書いてある名前というのは、全員の名前を網羅するのではなく、優れた信仰を持つ人に限定されている。聖書の系図はすべての人を十分に含めることにこだわっておらず、数を良い数にあわせることにこだわっている。創世記5章では、アダムからノアまで10代。創世記11章ではセムからアブラハムまで10代と数が合わせてある。もしカイナムを書くと11代になってしまい、数が合わない。マタイの系図は数の意図がはっきり書いてある。マタイ1:17。マタイでも実は3人の王の名前が省略されて14代に調整されている。ルカの系図は、カイナムを入れると77人になる。完全数が二つ並んでおり、7の倍数でもあるという非常に良い数字だ。おそらくカイナムは悪い評判があった人物だったのだろう。それでモーセは創世記11章には書かなかった。しかし、ルカは良い数に調整しようとした結果、カイナムを加えた。このことから、イエス様の救いの恵みは、歴史から抹消されてしまうほどの悪評のある人物にすら及ぶのだ。こんな過去は消し去りたい!そういう記憶にもイエス様の恵みは及ぶ!こんな自分はいなくなりたい!他人からもそう思われ、のけ者にされている!そういう人にすら、イエス様の恵みは及ぶ!主はあなたの名前を覚え、あなたを救ってくださる。

そして、この系図は大事なことを思い起こさせてくれる。38節。神に至る。このことはイエス様に限ったことではない。すべての人はその系図をさかのぼるなら神に至る。本来、すべての人にとって、神は父なのだ。すべての人は本来神の子なのだ。罪が、神の子としての身分を失わせてしまった。イエス様にあって私たちはその本来の在り方を回復することができる。イエス様にあって、神の子であり、お互いが兄弟姉妹であることを感謝しよう。

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