ダン族の移動[士師記17-18章]

士師記
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正しい者はいない、一人もいない状態です。

ダン族の移動[士師記17-18章]

ダン族の移動[士師記17-18章]

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【ノート】
12人の士師たち、彼らは弱さを持った人間で、「とんでもない」と思うようなところもあるが、それぞれ私たちが模範とすべき優れた点もあった。彼らは士師記の時代にあっては、実は非常に優れた信仰者だったのだ。今回の箇所には、私たちが信仰の模範とすべき点は何にもない。それだけ、士師の時代は混迷の時代だったのだ。これから私たちが読んでいく箇所は、すべて見倣ってはならないことだけだ!彼らもみんな主なる神を信じる人々のはずだ。主なる神を信じつつも、主の御言葉に背くことばかりして、それでいて「私は良いことをしているので、主から祝福されている」と勘違いすることがありうるのだ。クリスチャンも、同じように勘違いすることができてしまう。その警告として、今回の箇所をみていこう。

1-5節。ミカというのはヤハウェのような者という意味の名前。しかし、その名前に見合うような性質を持っていない。ミカは母子家庭で、かなり裕福の家の人。自分の家に神殿まで持っていた。ミカは銀1100枚を母親から盗んだ。ミカは母親がそのことについて呪いの言葉を口にするのを聞いたので、ミカは怖くなって、銀を盗んだのは自分だと白状した。ミカは悔い改めたのか?呪いの言葉を聞いて怖くなったのが動機なので、罪を犯したことを告白して悔い改めたというには不十分だ。母親は、ミカが盗んだことに対して何の戒めもしていない。それどころか、「私の息子に主の祝福がありますように」と言っている。果たして主は不十分な悔い改めをしたミカを祝福することができるのか?銀1100枚の用途は、彫像と鋳造を造るためのものだった。彫像は木や石を彫ったり刻んだりして造る像で、鋳造は金属を鋳て造った像。どちらも偶像だ。いかなる像も造ってはならないと言われた主の御言葉に背くものだ。ここでは主に対する信仰と偶像を造ることが何の問題にもされずに融合されてしまっている。5節ではエフォドとテラフィムが一緒にされている。エフォドは、大祭司が祭儀を執り行うときにつけるエプロンのようなもの。テラフィムは家の守り神の偶像だ。ここでも本来は絶対に相容れないはずの二つのものが融合されてしまっている。宗教混淆主義だ。日本に特にあてはまる。正月は神社に行き、結婚式は教会で行い、葬式ではお寺に行く。これは、一見寛容力があるように思えるが、宗教的に淫乱だ。霊的に汚れることだ。クリスチャンでありながら、初詣で神社に行ったり、七五三やひな祭りや七夕をしたりすることは言語道断である。
ミカは祭司の家系の人ではないので、自分の息子を祭司に任命するというのも、してはならないことだ。ここでは、主の御名が語られ、祝福、聖別、ささげる、祭司という信仰的な用語が使われている。しかし、実際には主が忌み嫌われることが行われているのだ。私たちはそれらしい用語を使っていれば、主が喜ばれると錯覚してはならない。

6節。イスラエルは無法状態だった。本来は主がイスラエルの王だ。しかし、人々は王である主の御言葉に従おうとせず、自分勝手な歩みをしていた。そうなってしまった責任はレビ人にある。本来はレビ人が祭司の部族として十二部族に散らばって、主の律法を教える役割を果たさなければならなかった。しかし、レビ人は律法を教えるどころか、自分たちも律法をないがしろにしてしまっていた。17-21章での2つの事件はどちらもレビ人が絡んでいるが、レビ人がしっかりとしてさえいれば防げたことだった。クリスチャンは王の系統を引く祭司として主から立てられている。だから、クリスチャンには御言葉を学び、守り、他の人にも教える責任がある。クリスチャンの中でも特に指導者の責任が重い。

7-12節に問題のレビ人が登場する。彼はユダのベツレヘムに住んでいた。彼はユダ族の血を引く者ではなく、レビ人は十二部族の嗣業の地全体に分散して住むようにされていたので、ユダ族の地に寄留していたに過ぎない。しかし、ユダ族の地にもカナン人たちがかなり残っていて、イスラエル人を圧迫していたので、レビ人はもっと住みやすい場所を求めて旅をしていた。その旅の途中にミカの家に立ち寄ったのだ。ミカは年俸10シェケルと衣服、住み込みで食事つきという条件でレビ人をミカの家の霊的な指導者、祭司としてとして雇おうとした。
レビ人はそのことに同意した。高収入、好条件だと思ったのだ。このレビ人が、神に仕える祭司としての仕事を引き受けた動機はお金だった。神に仕える働きの動機がそんなものであってはならない。お金が動機なら、お金が手に入らなくなったら途中で投げ出してしまう。もっとお金が手に入る仕事があれば、そちらに鞍替えしてしまう。実際にこのレビ人は後でもっと好条件の職場に転職している。神に仕える働きをするのなら、神の御心を問わなければならない。そして、それが神の御心であれば、お金になってもならなくても、命をかけて全力でその働きに献身しなければならない。主の御心ではなく、お金によって動かされるなら、結局その人は神ではなく金に仕えているのだ。その点、このレビ人は、動機の面ですでに神に仕えるにふさわしくない人だった。

13節。ミカは「主が私を幸せにしてくださることがわかった」と解釈している。自分の勝手な行動が主のご計画によるものであり、主が喜ばれるととらえているのだ。「旅の途中のレビ人が自分の家に来て、祭司になってくれるなんて、主の思し召しに違いない!」果たして本当にそうか?確かに、レビ人は祭司の部族だから、ミカの息子を祭司にするよりは適任のように思われる。しかし、祭司というのは本来、レビ人の中でもアロンの家系の人がなるものだ。このレビ人は18:30によるとモーセの子孫にあたる人であって、アロンの家の人ではない。祭司になる資格のない人なのだ。資格のない人を勝手に祭司に任命するというのは主に喜ばれないことだ。自分にとって都合の良いことがあると、なんでも「これは神からのものだ!神がよしとしておられる!」ととらえるのはやめなければならない。本当に神からのものなのか、御言葉にはなんと書いてあるか、点検しなければならない。ミカはレビ人という点だけに着目して、動機の面でも資格の面でも問題のある人を勝手に祭司に立ててしまった。

18:1-5。ダンの部族は嗣業の地が割り当てられていなかったわけではない。ヨシュア記19章にはダン族の割り当て地が書いてある。イスラエルの中では南の方だ。その中には18:2に出てくるツォルアとエシュタオルもある。割り当てられていた嗣業の地をダン族が征服することができず、逆にアモリ人に圧迫されて山地に追いやられてしまったいたのだ。窮地に陥ったダン族は、イスラエルの中に、どこか手に入れられる土地がないか調査隊を派遣した。その調査隊がミカの家で寝泊まりし、レビ人に託宣を求めたのだ。6節。新改訳第三版だと、「あなたがたのしている旅は、主が認めておられます」になっている。主は本当にこの旅を認めておられたのだろうか。ダン族の嗣業の地は主がお決めになったのではないか。それを敵に圧迫されたからといって放棄して別の場所を探す旅を本当に主が認めておられたのだろうか。そんなことはない。ダン族は信仰を奮い立たせて嗣業の地を征服するべきだった。この祭司もどきが語った言葉は主からの言葉ではなく、自分の言葉で人々を喜ばせたに過ぎなかった。

7-10節。ライシュは、リスクを犯さずに簡単に手に入る土地だった。調査隊の5人はダン族の人々を説得し、いかに簡単に良い土地が手に入るのかということを力説した。そして、神が手にお渡しになったという。しかし、聖書を読むとわかるのは、神が私たちに良いものをお与えになるときというのは、困難な状況を信仰によって乗り越えることによってだ。戦いがあり、困難があるが、信仰によって行動を起こすとき、神の御業によって良いものが与えられるのだ。最初から人間の目に簡単に思えるものを神が与えてくださるということはない。私たちは易々とした道を探して通ろうとするのではなく、それが神の御業を必要とする困難な道を信仰によって進む者となろう。

11-26節。ダンの人々は武力にものを言わせてミカの家から彫像、エフォド、テラフィム、鋳造、それに祭司を盗んだ。ダン族はアモリ人のように力を持っている人々に対しては弱いが、ミカのように自分たちよりも力のない人々に対しては強かった。非常にかっこ悪い。
ダン族の人々が偶像を盗んだということは、彼らも主への信仰と偶像崇拝を融合することに違和感を持っていなかった。そもそも、主は盗んではならないと言われるお方だ。盗んではならないと命じられるお方への礼拝を盗んだものを使ってすることを喜ばれるのか。そういうことすら考えにない。イスラエルは偶像崇拝によって主が人格をお持ちの神であるということがわからなくなっていた。偶像崇拝をする人は無意識のうちに神を偶像のように無人格で無能力なものとみなす。偶像のように、目があっても見えず、耳があって聞けず、口があっても話せないものとして神をとらえる。だから、偶像崇拝をすると神を恐れなくなり、道徳的にも退廃するのだ。
祭司の態度もいやらしい。祭司もどきは強盗を働くダン族の人々から、「ダン族の祭司になってください」と要請を受けると、快く承諾した。ミカに良くしてもらったのに、恩知らずだ。お金や待遇で動き、偶像崇拝をして、強盗を働く人々をよしとする祭司、この人からいったい主についてのどんな教えを聞くことができるか?登場する人間はみんな悪いことばかりして、正しい者はいない、一人もいないという状況だ。

27-29節。ライシュは非武装で、外交的な努力も全くしない平和主義の街だった。それで、ダン族に簡単に滅ぼされてしまった。平和を志向することは良いことだが、ただ口で平和平和と言うだけで何の備えもしないなら、このライシュのようになってしまう。平和を実現するためには、最低限敵からの攻撃に備えることが必要だ。霊的なことについていえばもっとそうだ。聖書でいうところの平和、シャロームは戦って勝ち取る平和だ。イエス・キリストが悪魔に勝利したように、私たちは悪霊どもに打ち勝って、シャロームを勝ち取っていかなければならない。平和平和といいながら、平和ボケしてしまうのではなく、霊的に武装して戦いに勝利する者となろう。
ライシュはイスラエルの最も北の方にある。このライシュがダンという街に変わった。ダンからベエル・シェバというとイスラエルの最北端から最南端、つまり、イスラエル全体を指す表現だが、それはダンが移住した後の地理をもとにしている。嗣業の地を捨てたにもかかわらず、ダン族はライシュを滅ぼして、そこに移住することができた。主が認めておられないことでも、やってみればたまたまうまくいくということはある。だからといって、主が祝福してくださっているわけでは決してない。いつかその報いを受けることになる。

30-31節。祭司もどきは、30節で「その血の民が捕囚とされる日までダンの部族の祭司を勤めた」と書いてある。これは北イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされて捕囚として連れて行かれたことを指している。もし、ダン族が主から与えられた嗣業の地にこだわり、そこを征服してとどまったなら、もともとの嗣業の地は南の方にあったので、南ユダ王国に属すことになっていたかもしれない。神殿が建てられることになるエルサレムからも非常に近い場所になっていたはずだ。アッシリア帝国に捕囚に遭うこともなく、イスラエルとしてのアイデンティティを失ってしまうこともなかっただろう。
しかし、ダンは移住したことで、エルサレムから最も離れた北部の部族になってしまった。31節で「神殿がシロにあった間、ずっと彼らはミカの家にあった彫像を保っていた」とある。偶像崇拝がずっと続けられてしまったのだ。一度よしとされてしまった間違った礼拝というのはなかなか正されず、長く尾を引いてしまうのだ。シロが荒れ果てて、神殿がエルサレムに建てられた後には、王国はすぐに二つに分裂し、ダンは北イスラエル王国に属することになった。そして、北イスラエル王国のヤロブアムが金の子牛を置いたのはベテルとダンだった。霊的な脈というのは残り続けるのだ。ライシュをうまく手に入れることができた、そう見えるが、嗣業の地を捨てたというのはダン族にとって最悪のことだった。ヨハネの黙示録の7章には十二部族の名前が出てくるが、そこにはダンの名前だけがない。私たちは主から与えられたものを捨ててはならない。大事にしなければならない。
主からの身分、賜物、使命、奉仕、預言、御言葉、教会、そういうものを大事にしよう。そして、お金で買収されてしまう雇い人ではなく、主に信仰をもって忠実に仕える良い僕となろう。

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