サムソンの壮絶な死[士師記16章]

士師記
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人間関係と神との関係のどちらを優先するかが問われます。

サムソンの壮絶な死[士師記16章]

サムソンの壮絶な死[士師記16章]

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【ノート】
サムソンはナジル人、主に一生涯献身した士師であり20年間イスラエルをペリシテ人の手から守った。これだけ聞くと非の打ち所のないすばらしい人物に思えるが、サムソンはすばらしい賜物ととんでもない人格をあわせもつ人だった。
1節。ガザというのはペリシテ人の五大都市の中で最もイスラエルから離れた南の方にある。つまり、サムソンは敵地の最も奥まで入り込んでいたのだ。そこでしたことというのは、遊女と遊ぶことだ。ナジル人としては考えられない不潔なことだし、士師としてはあるまじき不用意なことだ。しかし、サムソンは全く心配していなかった。サムソンは大勢のペリシテ人を倒したので、ペリシテ人の間ではお尋ね者だった。指名手配犯だった。この顔を見たら110番というようにペリシテ人の領地全体に触れられていただろう。にもかかわらず、敵地の最深部を平気で歩き、遊女のところに行くことができたのは、自分の怪力に絶対的な自信を持っていたからだ。ペリシテ人も、サムソンを恐れて、手出しすることができなかった。

2節。「サムソンが来た」と誰かが通報した。また、ガザの人々はみんなサムソンを知っていた。その悪名が響いていたのだ。サムソンは遊女のところにいたのだから、ある意味一番無防備な状態だ。ペリシテ人はすぐにでも攻撃をしかけてもよさそうなものだったが、サムソンを恐れて、なかなか手出しできなかった。それで「夜明けまで待って、彼を殺してしまおう」と相談したのだ。ところがあてははずれた。
3節。サムソンは街を敵の攻撃から守る門、つまり非常に丈夫に作られている門とその門柱を素手でひきぬいた。ガザからヘブロンまでは62-3km。しかもヘブロンは海抜935mもあって海沿いのガザからはかなりの上り坂だ。それをガザの門をかついで歩いたのだ。敵に自分の怪力を見せつけて、その気になれば、町の一つくらいは簡単に落とすことができるという威嚇だ。それを見てペリシテ人はもう誰も正面からサムソンに挑もうとする人はいなくなった。サムソンが登場する前は、イスラエルがペリシテ人におびえて、誰も手向かうことができなかった。しかし、サムソンが登場してからは、今度はペリシテ人がサムソン一人におびえて、誰も手出しできない状態になったのだ。そういう意味でサムソンの存在は痛快だ。

しかし、ガザに行って遊女と寝るよりもほかにやることがあるんじゃないか。何でも自分の力で解決できると思い上がっているのではないかと。すばらしい賜物が、サムソンを高ぶらせ、人格的に訓練されないまま生きるようにしてしまったところがある。すばらしい賜物があれば、めちゃくちゃな人格でめちゃくちゃな生き方をしても、ある程度なんとかなってしまうものだ。しかし、そういう人はいつか足元をすくわれることになる。サムソンの場合、デリラがそれだった。すばらしい賜物にはすばらしい人格が伴わなければならない。もし、自分の頭の良さや実力によって思い上がってしまっているところがあれば、能力によって人格的な欠点を補おうとしているところがあれば、早く悔い改めなければならない。そして、教会や家庭、学校や職場で権威者によく従って、訓練されるようにしなければならない。そうでなければ、いつかデリラによって倒されてしまうことになる。

4節。ソレクの谷というのはおいしいぶどうの谷という意味。デリラというのは「思わせぶりをする」という意味。もう名前からしてあからさまな罠ということがわかる。しかし、サムソンは何でも切り抜ける自信があるので、飛び込んでしまう。箴言22:3。サムソンはペリシテ人の女性に弱い。サムソンはティムナのペリシテ人の娘を好きになったとき以上に、一途にデリラを愛した。すっかりデリラのとりこになってしまった。しかし、デリラも、ティムナの娘と同じように、サムソンにふさわしい相手とは到底言えない。サムソンはティムナの娘との間の破綻から少しも学んでいなかった。悪魔は同じ弱点を何度もついてくる。学ばなければ、私たちは毎回やられてしまう。
5節。領主は少なくとも五大都市の五人がいただろうから、銀貨5500枚だ。デリラは金に目がくらんですぐにサムソンを裏切ることに決めた。サムソンがデリラを愛するようには、デリラはサムソンを愛してはいなかったのだ。

6-12節。デリラはサムソンの弱点を聞いている。そして、サムソンをその弱点によって苦しめようとしている意図がはっきりしている。つまり、明らかにペリシテ人に味方してサムソンを害そうとしていることがわかる。それに対して、サムソンは嘘の答えをすることで何とか切り抜けようとした。つまり、なんとかごまかしてやり過ごそうとしたのだ。それでデリラから離れようとしなかった。誘惑する人を自分の近くに置いて、会話を続けていたら、どんなに強い人でもいつか誘惑に陥ってしまう。誘惑する人は私たちを倒す機会が無限にあるからだ。誘惑する人からは思い切って離れなければならない。

13-14節。ここでもサムソンはかろうじてデリラの問いかけをかわすことができた。しかし、サムソンは髪の毛ということにまで言及している。デリラの問いに対する答えが口から出かかっているのだ。

15-17節。デリラはサムソンの「愛している」という言葉をとらえて、サムソンを責め続けた。私を愛しているなら、本当のことを教えなさい。人を愛するということは、それ自体悪いことではない。しかしこのとき、サムソンが問われていたのは、神とデリラ、どちらを愛するかということだった。もし、あなたが異性から「私と神のどちらが大切なのか?」と問われたら何と答えるか?そのときは迷わず、神の方が大切だと答える者となろう。神よりも大切なお方は何もない。異性が偶像になってはならない。人間関係よりも神との関係を常に優先しなければならない。私たちは優先順位を間違えてはならない。サムソンはこのとき一線を超えてしまった。ナジル人として、絶対にしてはならないことをしてしまった。サムソンのその他の弱い部分を大目に見て、許してくださったとしても、これだけはしてはならないということをした。サムソンは神を裏切ってしまったのだ。

18-20節。神を裏切ったサムソンは神の御守りを失った。大勢のペリシテ人に囲まれていても何の害も受けなかったのはすべて神の御守りによるものだったのに、それを失ってしまった。それで、怪力無双のサムソンはたった一人の女性の膝の上で無力化されてしまった。サムソンは、主が彼を離れたことに気づいていなかった。サムソンの力は髪が長かったからではない。それであれば長髪の人はみんなサムソンみたいに強いことになるがそうではない。サムソンの力は制約を守ることで、主がサムソンと共におられたことによる。主が共におられること、主の臨在、それが私たちの力だ。そして、主の臨在は、非常にデリケートなものだ。サムソンは主の臨在を失ったことに気づいてすらいなかった。主の臨在は非常に強力でありながら、失っても気づかないほど繊細なのだ。いま主の臨在はあなたと共にあるか?主の臨在に敏感になろう。主の臨在にずっととどまっていただくべく、主によく従う者となろう。
21節。神が共におられないなら、私たちは悪魔に手も足も出ない。サムソンは捕らえられ、視力を奪われ、青銅の足かせをはめられた。そして、牛がその力で臼をまわして粉をひくように、粉をひかせられた。ペリシテ人はサムソンをすぐには殺さず、見せしめにして辱めることにしたのだ。その間、サムソンは神よりも女性をもっと愛したことを悔い改めただろう。そして、デリラのことを完全にあきらめ、士師としてペリシテ人に一矢報いたいと思ったことだろう。その兆候として、サムソンの髪はまた生え始めた。22節。これは、一度は離れた主の臨在が再びサムソンの上に臨み始めたということでもある。何の不自由もないときに神を裏切って、自分で手放してしまうことはできる。しかし、視力も手足の自由もない牢屋で見せしめにされているときであっても、誰も神への信仰を奪うことはできない。主の臨在を奪うこともできない。
23-30節。サムソンは祈った。主はサムソンの祈りに答えてくださった。主とサムソンの関係は回復していた。サムソンは愛する人に裏切られ、敵に捕らえられた。しかし、敵が偶像の神殿で勝ち誇り、敵からの辱め、嘲りを受けていたときに、サムソンは自分の命を引き換えに大勢のペリシテ人を葬って、ペリシテ人からイスラエルを救う士師としての役割を果たした。そういう意味で、サムソンはイエス・キリストに似ている。イエス・キリストはユダに裏切られ、悪魔が勝ち誇り、敵からの辱めと嘲りを受けていたときに、十字架で自らの命を引き換えに救いの御業を成し遂げられた。サムソンがイエス・キリストの型というにはあまりにも弱点が多い。しかし、それでもサムソンはイエス・キリストの型に違いない。
サムソンは死によって、それまでに倒したペリシテ人よりも多くのペリシテ人を殺すことができた。そこにはペリシテ人の領主たちも含まれる。主はペリシテ人を集めて、ダゴンの神殿ごと一網打尽になさったのだ。ということは、主はサムソンがデリラに籠絡されて怪力の秘密を漏らしてしまうということすらも利用して救いの御業を進められたのだ。サムソンがデリラの手に落ちることは明らかに良くないことだった。主はそういう全然良くないことを通してすら救いの御業を成し遂げられる不思議なお方だ。

31節。列王記や歴代誌には、尊敬されていた王に対して盛大な葬儀が執り行われたが、尊敬に値しない王たちが王の墓にすら葬られることはないということが出てくる。だから、どういうふうに葬られるかによって、人々がその人物をどう見ていたかがわかる。サムソンももともとは、イスラエルの人々からペリシテ人に歯向かって余計なことをする人と思われていた。しかし、サムソンの死体を家族が回収して墓に葬ったということは、少なくとも家族からは尊敬されていたということがわかる。ガザは敵地の一番奥の都市なので、そこに行くだけでも命懸けであり、建物の下敷きになったサムソンの死体を探し出してもツォルアの方まで運び、マノアの墓に納めるというのは大変な事だ。サムソンは最後には人々の尊敬を勝ち取っていた。

これで士師記の士師たちについての記述は終わりで、これ以降はダン族の移動とベニヤミン族の犯罪という二つの事件について。これまで、特にギデオン、エフタ、サムソンの働きについて見た。3人とも優れた点もあれば、残念な点もあった。だから、人によっては持ち上げ、人によっては落とした。それでは、主は彼らをどう評価しておられるのだろう。ヘブライ11:32-34。ヘブライ11章は信仰の章。そこには信仰によって優れたことを行った人々の記録が羅列されている。その中にギデオン、エフタ、サムソンの名前がある。詳しい内容は省かれているが、主は彼らの信仰による行動のことを喜んでおられたのだ。正義を行いというのはエフタのことかもしれない。獅子の口をふさぎというのはサムソンのことだろう。弱かったのに強い者とされたのはギデオンのことではないか。3人とも欠点を咎められるのではなく、その優れた点を褒められている。主にとって、彼らは自慢の士師だった。主は信仰者を信仰によって義とされた者として見てくださるのだ。私たちに対してもそうだ。もちろん、彼らの失敗から学ぶ必要がある。しかし、自分が完璧ではないということをずっとクヨクヨし続けることは良くない。むしろ、信仰によって雄々しく主からの召しを全うする意気込みを持とう。そうすれば、私たちも信仰によって、主の目に自慢のクリスチャン、主がその優れた点を語りたくて仕方ないと思われるクリスチャンとなることができる。

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