サムソンの不思議な誕生[士師記13章]

士師記
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主は不思議なお方で、不思議なことをなさいます。

サムソンの不思議な誕生[士師記13章]

サムソンの不思議な誕生[士師記13章]

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【ノート】
ギレアドとエフライムが衝突して、エフライムに42000人も死者が出る戦いとなった。そういうイスラエル内部での抗争もあって、イスラエルの平和な時期は短くなった。逆に、苦しめられる時期が長くなる。1節。ペリシテ人はイスラエル南部の地中海沿いの細長い地域に住む海洋民族であり、鉄の武具を持つ非常に好戦的な軍事国家だ。パレスチナという地名はこのペリシテに由来する。ペリシテ人は主に、南部に位置したユダ族とダン族を圧迫した。それで、イスラエルはペリシテ人の武力に屈服して奴隷のように仕えなければならなかった。誰もペリシテ人に立ち向かうことができる人がいなかった。その状況を覆すために用いられた士師が、サムソンだ。サムソンは単独でペリシテ人と戦った怪力の士師。一騎当千の士師だ。サムソンは規格外だ。それだけにサムソンの評価は難しいが、御言葉にのっとってありのままに評価しよう。13章はサムソン誕生の由来だ。

2節。マノアというのは、休息という意味。マノアの妻は不妊症で、子供がいなかった。不妊の女性というのは、聖書にたくさん出てくる。アブラハムの奥さんのサラ、イサクの奥さんのリベカ、ヤコブの奥さんのラケル、サムエルを生んだハンナ、預言者エリシャを迎え入れたシュネムの婦人、そして、ザカリアの奥さんでバプテスマのヨハネを生んだエリサベトだ。全員信仰によって、主の不思議な御業を体験し、不妊を打ち破り、子供を産んでいる。そして、シュネムの婦人以外は、全員、神の救いの計画に関わる重要な人物を生んでいる。不妊というのは、救いの実を結ばないということに通じる。しかも、自分ではどうすることもできない。私たちが信仰を貫くなら、救いの実を結ばない呪いは、主の不思議な御業によって大きな祝福に変えられ、豊かに救いの実を結ぶようになるのだ。

3節。主の御使いと書いてあるが、御使いは使者という意味。使者は使者でも、この使者は受肉前のキリストのことだ。主はマノアではなく、マノアの妻に現れた。マノアではなく、マノアの妻の方が不妊でもっと心を痛め、主に求めていたからだろう。マノアの妻が不妊で子供を生んだことがないということを主はご存知でそのことに特別に目をとめておられた。主は長らく実を結ばない人のことを憐れんでくださるのだ。もしあなたが長年主に仕えても実を結んでいないのであれば、主はあなたを特別に目をとめてくださることを期待しよう。主に祈って、祝福を与えてくださるときを待ち望もう。

4-5節。サムソンの召命に基づいて、守らなければならないことを命じられている。サムソンは胎内にいるときからナジル人として召されていた。ナジル人というのは、聖別された者という意味。民数記6章に出てくるが、神に対して特別な誓願をするために一定期間献身する人のこと。サムソンの場合は、一定期間ではなく、一生涯ナジル人だ。7節でも胎内にいるときから死ぬ日までナジル人と書いてある。一生涯献身者なのだ。すべてのクリスチャンも一生涯献身者として召されている。ローマ6:13。クリスチャンになった瞬間から、私たちは神に献げられたもの。聖別された者なのだ。ナジル人にはいろいろと制約事項がある。面倒なように思うかもしれない。しかし、サムソンの怪力はこれらの制約を守ることによってもたらされた。つまり、主にあっていろいろな掟を守るということは、大きな力をもたらすということだ。

まず、ぶどう酒や強い飲み物を飲んではならない。ぶどう酒は今では嗜好品だが、当時は飲料水の代わりのようなものだった。きれいな水を得るのが簡単ではない時代、ぶどう酒を断つというのはなかなかの献身だ。その意味としては、私たちは世のものに酔ったり依存したりしてはならないということ。そうすれば、聖霊様の満たしを期待できる。エフェソ5:18。

続いて、汚れたものを一切食べてはならない。このことは民数記6章には出てこないがそもそもイスラエルの全員が守らなければならない掟だ。ナジル人なのだから、特にこのことを守らなければならないということが念を押されている。献身者は普通の人よりも高い基準で生きるのだ。普通の人であれば妥協があるかもしれない。ふだんは守れても、苦しい状況や守るのが難しい状況ではいろいろな言い訳をしながら掟を破ってしまうかもしれない。献身者の場合、一切食べない。つまり、一切妥協のない生き方をする。
そして、ぶどう酒を飲まないことと汚れたものを食べないことはサムソンにではなく、マノアの妻に命じられている。親が生まれてくる子供に影響を及ぼすからだ。まずは親が献身しなければならない。私たちの人生は私たち自身の幸せを左右するだけでなく、私たちの子供や霊の子供、つまり、伝道して救いに導く相手にも影響を与えるものだということを心得なければならない。

最後に頭にかみそりをあててはならないということが命じられている。髪を伸ばし続けろということ。なかなか手入れが大変だろう。長髪は、主に献身する者であるという目に見えるしるしだった。つまり、その人は24時間365日誰の目にもその人がナジル人なのだ。髪は常に頭にあるので、「今は献身者じゃなくて一般人に戻ろう」というわけにはいかない。献身していないふりをすることができない。ごまかしがきかない。クリスチャンでいえば、日曜日だけクリスチャンのようにふるまうサンデークリスチャンではなく、常にクリスチャンとして歩み、どこに行っても自分がクリスチャンであるということを公に言い表すということ。

本当は民数記6章にはナジル人の規定で死体に触れてはならないというものもあるが、それは言及されていない。サムソンは自分の手で大勢のペリシテ人を倒す士師として召されているので、死体に触れないというのは不可能だ。だから、この掟は除外されたのだろう。献身の内容というのは全員が一律同じものだと考えるべきではない。各々の召しに応じた献身がある。あなたはどのように神に献げて生きていくか?忠実に献身すれば、主はサムソンに与えたように、あなたに賜物を与えてくださるだろう。

5節の最後には生まれてくる子供が「ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者」と書いてある。サムソンのすることは先駆者としての働きだった。40年間も圧迫され続け、すべての人がペリシテ人にあらがう気力もなかった時に、恐れずにペリシテ人と戦い、突破口を開いたという点で功績が大きい。そして、ペリシテ人との戦いは、サムソンで終わりでなく、次の世代に引き継がれる。サムエル、サウルを経てダビデの時代に完全に倒すことになる。

マノアの妻はマノアに事の次第を話す。6-7節。ここでマノアの妻は敏感な霊性を持ち主だということがわかる。受肉前のキリストは人のようにも見えたが、その異様な姿と強力な臨在によって、ただの人ではないのではないか、神の御使いなのではないかということを感じていた。そして、マノアの妻は受肉前のキリストから聞いたことをかなり正確に記憶していて、夫に説明することができた。御言葉が心に根差す正しい心畑を持っていたのだ。

8節。この箇所からマノアはマノアの妻の話を信じたということがわかる。不妊だったが、主に不可能はない。預言通りに子供が生まれると信じた。その上で、マノアは妻から聞くのではなく、自分で直接神の人に会い、話を聞きたいと願った。それは良い心がけだ。私たちは他の人から御言葉を聞いて信じるだけでなく、自分で直接御言葉を得たいと願い求める者になろう。自分で聖書を手にとって開いて、神が自分に対して何を語っておられるのか、直接御言葉を受け取る者になろう。主は御言葉をメッセンジャーを通してではなく、直接あなたに与えてくださる。
主はマノアの願いに答えてくださった。9-14節。主はマノアに対しても、マノアの妻に語ったことと同じことを語られた。主は言うことをころころ変える方ではなく、一貫した真実なお方だ。

15-19節。マノアの妻と違って、マノアは鈍感だった。受肉前のキリストを恐れなかった。食べ物をごちそうしたり、名前を聞こうとしたりした。なんとかお礼をしたかったのだ。感謝をすることは良いことだ。食べ物については、感謝の気持ちがあるなら、主に焼き尽くす献げ物をするようにと言われた。キリストは御自分にのみ焦点があたることではなく、御父の栄光を現すことを願っておられる。名前を聞かれて、受肉前のキリストは、「それは不思議という」とお答えになった。主は不思議な方であり、不思議なことをなさるお方だ。被造物である私たち人間にとって、創造者である主は不思議だ。三位一体という主の在り方は不思議だ。三つでありながら一つであるというのは理解できない。主は無限であり永遠だが、無限というのはどういうことなのか?永遠というのは何なのか?そういう言葉は存在しても誰も体験した人はいない。主の人間に対する取り扱いも不思議だ。ダビデにはそれが不思議でならなかった。詩編8:4-5。どうして偉大な主が人間を御心にとめてくださるのか不思議でならない。そして、最も不思議なのは、キリストの十字架だ。どうして神が罪人のために命を捨てるほど愛してくださるのか?その愛はすばらしすぎて人間には理解できない、不思議でならない。十字架には神の不思議な愛が現わされている。サムソンの人生も不思議な誕生に始まり不思議な一生だ。聖書は不思議なエピソードで満ちている。私たちの人生も単純ではない。不思議でよくわからないことがいろいろ起こる。良い意味で主の不思議な御業が起こることもあれば、悪い意味で何でこんなことが起こるのか不思議でならないという不条理なことが起こることもある。何であれ十字架の不思議な愛を覚えて、主を信頼しよう。

20-23節。マノアは受肉前のキリストが天に上る様を見て、今さら主の御使いであると知って恐れた。マノアは「神を目の当たりにしてしまった」と恐れたのだ。マノアの妻の方が落ち着いていて、献げ物を受け取り、お告げを与えてくださったからには主が私たちを死なせようとお望みなわけではないと諭している。主の取り扱いが私たちにいろいろあるということは、命の保障となるのだ。実際に主は死なせるためではなく、イスラエルに救いをもたらすために訪れたのだった。人間は主が救おうとしているときにすら、主が自分を滅ぼそうとしていると誤解してしまうことがある。主は確かに罪を悔い改めない人を裁き、滅ぼすが、主の御心は救うことだ。

24-25節。サムソンというのは、太陽を意味するシェメシュと似た言葉で、太陽の子という意味。両親は主の戒めを守ってサムソンを育てたので、主はその子を祝福された。マハネ・ダンというのはダンの陣営という意味。ダンの陣営にいるとき、主は聖霊様によってサムソンを奮い立たせ始めた。サムソンに怪力の賜物を与え始めたのだ。その怪力の片鱗を見ることができるようなことが起こり始めていたのだろう。主はこうして人々の知らないところで、着々と救いの御業の準備を進めておられた。イエス様は「私の父は今も働いておられる。だから、私も働くのだ」と言われた。私たちにはわからなくても、いつも主は救いのために働いてくださっておられるのだ。私たちも人々の救いのために、今日、自分のできる献身をしよう。

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