悪魔に連戦連勝する

福音&主題メッセージ
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クリスチャンは連戦連勝するように召されています。

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【ノート】
私たちは毎日戦場にいる。この世全体が霊的戦場だ。そこで、神の陣営と悪魔の陣営の間で戦いが続いている。この戦いに無関係な人は誰もいない。神は私たちに教会、真理の御言葉、聖霊様を通して導こうとする。悪魔は私たちを世によって惑わし、嘘を植え付け、罪の誘惑をする。両方とも私たちに働きかけるが、両者の動機ははっきりとわかれる。ヨハネ10:10。盗人である悪魔は滅ぼすため、神の子イエス・キリストは命を与えるためだ。だから、私たちは、神につかなければならない。ヤコブ4:7。真理の御言葉を信じて従い、悪魔を退ければ勝利だ。戦いの経過は、私たちの考え、意思決定、感情、言葉、行動に表れる。つまり、私たちの人生全体を左右する。私たちが喜びと平和を持って幸せに生きるか、それともみじめで不幸に生きるかということも、戦いの勝敗による。そして、結局のところそれは永遠の未来を左右する。

多くの人は戦いが行われていることすら気づかずに悪魔の奴隷になっている。あるクリスチャンは負けることが多くてかろうじて倒れないでいる。あるクリスチャンは勝ったり負けたりしている。あるクリスチャンはすばらしいことに連戦連勝する。あなたはどれにあたるだろうか?勝ったり負けたりしているという状況かもしれない。連戦連勝というと何だか難しいように感じるかもしれない。それがもう悪魔の嘘だ。なぜなら、御言葉は勝利を約束しているからだ。ローマ8:35-39。輝かしい勝利と書いてある。新改訳第三版では「圧倒的な勝利者」となっている。口語訳だと「勝ち得て余りある」となっている。私たちをくじきそうないろいろなものが列挙されているが、その勝利はどんな妨害にあってもゆるぎない勝利なのだ。クリスチャンは五分五分の戦いではなく、圧勝し、連戦連勝するように召されているのだ。

毎日行われていて、人生全体を左右する戦いだけに、この戦いに勝利する術を身につけたいものだ。そこで、戦いに勝利するための励ましと役に立つことをいくつかお伝えする。すでにある程度取り組んでいることもあるだろう。そういう点については引き続き取り組み、ますます熱心に取り組むことをおすすめする。

第一に、神を信じること。つまり、信仰だ。戦いは信仰の戦いだ。信仰がしっかりしていれば勝ち、信仰を守れば勝ち。Ⅰテモテ6:12。ちゃんと信じていれば、私たちは負けなしなのだ。エフェソ6章は武器庫と言われている。悪魔の策略に対抗するために身に着ける神の武具が書いてある。その中でも、信仰は特にどういうものと書いてあるか?エフェソ6:16。信仰は盾と書いてある。そして、信仰についてだけ、悪魔の放つ火の矢を防ぐことができるということが書いてある。信仰は敵の攻撃を防ぐ上で最も重要なものなのだ。この武器庫の内容はローマの軍人の装備にたとえているものだ。ここでいう盾というのは、新改訳第3版では大盾となっている。長方形で、かがめば全身をすっぽり隠すことができるほどの大きい盾だ。ローマの軍隊は戦いのとき、百人隊が最小単位。敵の軍隊が矢を放つと、最前列の人全員が矢を地面に突き刺してたてて、二列目以降の人は上に盾をかざした。そうするとどの角度から矢が降ってきても防ぐことができた。私たちはそれを教会でやる。全員が一丸となって信仰によって敵の攻撃を防いで無傷の状態を保つ。だから、教会は個人個人の信仰というのではなく、百人隊のように結束して、教会としての信仰の歩みをするということが大切だ。
ここでいう信仰というのは、単に神が存在することを信じることにとどまらない。イエス・キリストは主であると信じて告白することがすべてでもない。神と神の御言葉である聖書全体を信頼することだ。たいていの場合、信仰が落ちているときというのは、悪魔の嘘にだまされて何かしら信じていないときなのだ。私たちは神と神の御言葉をしっかりと信じよう。
神の人格を信じよう。私たちはいつどんなときも、聖書に書いてある通り、神が良いお方であるということを信頼する。神が私を愛しておられるということを信頼する。
イエス様は私を十字架で死なれるほど愛しておられる。神が正しい方であるということを信頼する。約束を守ってくださるということを信頼する。
神の能力を信じよう。いつどんなときでも、聖書に書いてある通り、神は何でもおできになる方であり、私たちも主にあって何でもできることを信じよう。
御国の豊かさを信じよう。世のことに夢中になるのは、御国の力、御国による喜びと平和、御国における永遠の報いなどをちゃんと信じていないからだ。ちゃんと信じれば、世のことに時間やエネルギーを浪費するのがもったいなくなる。もっと御国のためにすべての力を投入したいと思うようになる。マタイ13:44-46。

信仰によって義とされていることを信じよう。ガラテヤ2:16。イエス・キリストを信じる者はすべての罪が赦されており、実際には足りないところがいっぱいあっても、神の目に常にキリストのように正しい者とみなされている。私たちはどんなときも神の子であり、イエス・キリストが御子として完全な人生を歩まれたように、完全に正しいものとみなされている。信仰義認は神の恵みに甘えてしまい、罪を犯しても良いとするものでは決してない。むしろ、信仰義認は、私たちが何があっても絶対に悪魔にノックアウトされずに立ち続けるタフネスを与える。絶対に倒れない者はいつか必ず相手を倒すことができる。悪魔をノックアウトさせることができる。
罪に勝利できることを信じよう。ローマ6:2、7、14。イエス・キリストを信じる者は罪に対して死んでいる。罪から解放されている。罪の力は、私たちには効力を発揮しない。そして、私たちにはキリストを復活させた神の力は私たちにも働く。エフェソ1:19-21。この絶大な力があるのだから、私たちは必ず罪に勝利することができるのだ。
イエス様の血潮の力を信じよう。血潮の宣言によってそれを私たちに適用しよう。血潮の十二の宣言には信仰による義も、赦しも、清めも、悪魔に対する勝利もすべて含まれている。

第二に、悪霊が通れる扉をふさごう。悪霊は悪魔の手下だ。悪霊というのは、人間の中に不法侵入することはできない。悪霊が侵入するときというのは合法的に侵入する。私たちが悪霊に対して扉を開いているので、悪霊は入ってくる。マタイ12:43-45。この箇所から悪霊の特徴がいろいろとわかる。悪霊は人を自分の住処として宿る。悪霊はその人に罪の誘惑や否定的な思い、霊的な圧迫、病気など様々な悪い影響を与え続ける。そして、悪霊は人から出ていくことがある。悪霊の追い出しを受けたり、そうでなくても祈ってもらったり、教会でメッセージを聞いたりすることで、悪霊が嫌がって出ていくこともある。しかし、悪霊は自分が出てきた家を覚えている。この御言葉では、悪霊はまた自分の家に入ることができた。その人が悪霊に対する扉をふさいでいなかったのだ。そして、家の中は空っぽだった。聖霊様で満たされていなかったのだ。それで、多くの悪霊を引き連れて住み込んだので、前よりも悪い状態になってしまった。教会に通っていてもどんどん悪くなってしまう人がいるのは、その人が扉をふさいでいないからだ。

しかし、全部本人のせいで悪霊の攻撃にあうというわけではない。その人が悪人とは限らない。悪霊が通れる扉とはいったいなんなのか?大きく3つ。繰り返す罪の習慣、大きな心の傷、赦せない人がいることなどがそれにあたる。では、どうすれば、扉をふさぐことができるのか?罪の場合は告白し赦しと清めをいただくこと。Ⅰヨハネ1:9。何等かの処置によってその習慣を断ち切ることができるなら、すぐに断ち切らなければならない。

心の傷があれば、主にそのことを告白して、御言葉の真理に立って、癒していただくことだ。主がすべての罪を引き受け、すべての傷を十字架で引き受けてくださった。イザヤ53:5。私たちはその打たれた傷によって癒された。もう御業はなされている。それをしっかりと丁寧に、自分の状況に適用することだ。過去の最悪な出来事すら、主にあって、私たちに害を与えないもの、むしろ良いものに変えていただくことができる。
赦せない人がいると、悪霊に対する守りを失ってしまい、悪霊は自由に侵入できるようになってしまう。マタイ6:14-15。私たちには人を赦す権威が与えられている。ヨハネ20:23。これはイエス様と同じだ。イエス様が赦してくださったように、ほかの人を赦すことができるのだ。祈りの中で赦しを宣言しよう。それでも怒りの感情がわいてくることもあるだろう。そのたびに赦しを宣言しよう。感情にふりまわされるのではなく、信仰によって感情を支配しよう。必要あれば毎日宣言し、一日二回でも三回でも宣言する。何か月でもそうしよう。そうすれば、やがて怒りは消えてなくなる。

そして、悪霊の代わりに聖霊様を歓迎しよう。信仰によって聖霊様の満たしを求めよう。求めれば聖霊様の満たしを受けられる。聖霊様で満たされていれば、悪霊が入ってくることは不可能だ。

第三に、賛美をささげること。賛美は私たちの信仰を引き上げ、悪霊の扉をふさぐ上で大きな力を発揮する。賛美は力なのだ。ネヘミヤ8:10。賛美をすることは私たちの力の源となる!主を賛美しながら同時に鬱になることはできない。主を賛美しながら思い悩むことはできない。主を賛美しながら不信仰になることはできない。賛美は私たちを引き上げ、なすべきことを行う力を与える。

サウルが悪霊に取りつかれて悩んでいたとき、どうすると悪霊は離れたか?サムエル上16:23。ダビデはただ音楽として、いいメロディーを奏でただけだったのか?音楽それ自体もある程度私たちの気分を良くするだろう。しかし、ダビデの詩編を読めば竪琴は主を賛美するために奏でたものだった。賛美が悪霊を離れさせたのだ。

南ユダの王のヨシャファトはどうやって敵の大群を撃退したか?歴代誌下20:21-23。敵の大群は賛美によって主が働いてくださり、全滅した。私たちが絶えず主に賛美をささげるなら、悪霊の大群が大混乱に陥り全滅する。

パウロとシラスが鎖でつながれているとき、何をしていると解放されたか?使徒16:25-26。賛美をすると鎖がはずれた。私たちの心や体が縛られていて、圧迫されていて、不自由に感じるとき、主に賛美をささげるなら解放がもたらされる。私たちは自由に主に従うことができるようになる。

聖霊様で満たされることと賛美にも密接な関係がある。エフェソ5:18-20。聖霊様で満たされてすることは、ここでは賛美の歌を歌うことだと書いてある。主はその賛美の中で臨在し、働いてくださる。

教会にいるときだけでなく、平日も、家の中で賛美をささげよう。賛美のCDを買って、流そう。YouTubeでも良い賛美の曲はたくさん聴くことができる。それを聴こう。
クリスチャンの戦いというのは、苦しくて、しんどいものではなく、賛美をささげて、主を喜びながら勝利するものだ。ハレルヤ!
神を徹底的に信じること、悪霊に対する扉をふさぐこと、賛美すること、これを日々の生活の中で行っていこう。そうすれば、私たちは連戦連勝できる!

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