お言葉通り、この身に成りますように[ルカ1:26-38]

ルカによる福音書
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マリアが選ばれたのは恵みによるものです。

お言葉通り、この身に成りますように[ルカ1:26-38]

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【ノート】
26節。エリサベトが身ごもってから6か月目。ガブリエルは神の人という意味の名前で、天使長だ。ガブリエルはまずザカリアにキリストの先駆者であるバプテスマのヨハネの誕生を予告し、次にマリアにイエス・キリストの誕生を予告する。どちらも19節にある「喜ばしい知らせ」、つまり福音を伝えるためだ。そして、その内容はキリストに関することだ。私たちを救ってくださるキリストについての知らせは喜ばしい知らせであり、福音なのだ!キリストについて聞くとき、私たちの霊は喜ぶ。ガブリエルがザカリア、マリアに現れたのは、決して突発的な出来事ではなく、遠い昔から計画されていたことだった。ガブリエルが現れたのは、ザカリアのときが最初ではない。ザカリアよりも約500年前に、ダニエルに二度現れた。そこでガブリエルがダニエルに伝えたのは、一度目はダニエル書8章で人間の世界帝国が人の手によらずに超自然的滅ぼされること、二度目は9章でキリストの到来の時期について。つまり、ダニエルのときにも、ガブリエルはキリストの福音を伝えたのだ。ガブリエルはエルサレムの再建が始まってから69週後に、油注がれた者が不当に断たれるということを予告した。これは紀元前445年にアルタクセルクセス王がネヘミヤに対して街の再建を許可を出した時から483年後にキリストが十字架にかけられて死なれることを意味する。ガブリエルはダニエルに対してした預言の成就の時期が近付いたので、福音を伝え始めたのだ。福音は、始め天使が伝えた。天使の次は、バプテスマのヨハネが荒れ野で神の国の福音を伝え、その次にイエス・キリストが福音を伝え、その次にキリストの弟子たちが福音を伝えた。では、いまは誰の番か?いまを生きるクリスチャンの番だ。あなたはクリスチャンか?そうであれば今はあなたが福音を伝える番だ。
27節。天使が遣わされたのは、ガリラヤの街、ナザレにいるダビデ家のヨセフの婚約者のおとめマリアのもとだった。旧約聖書によると、キリストは確かにダビデの家系から出ると預言されているが、生まれる場所はナザレではなくベツレヘムのはずだ。だから、旧約聖書に詳しい人だったら、部分的にしか預言にあてはまりそうにない人物としてヨセフとマリアはキリストの両親足りえないと判断しそうなものだ。しかし、神は人間の思いもよらない方法でヨセフとマリアを通してすべての預言を成就なさる。聖書に詳しいだけだと神の計画を見誤ることがある。聖書と何でも可能にする神の力の両方をもってして判断する者となろう。
当時のユダヤでは約1年くらいの婚約期間を経てから、一緒に暮らすようになる。婚約中は一緒になることはないが、婚約していれば、法律的にはもう夫婦だった。当時は13歳で結婚できたので、マリアも十代半ばくらいだっただろう。

28節。天使の発言からマリアがなぜキリストの母親として選ばれたのかがわかる。私たちはマリアの優れた点をいろいろと発見することができる。しかし、天使は「聖なる方!」とか「正しい方!」とは言わなかった。生まれながらにして、聖なる方、正しい方はキリストだけだ。天使は「優れた方!」とも言わなかった。天使は「おめでとう!恵まれた方!」と言った。マリアが選ばれたのは、ただ恵みによるものなのだ。マリアはその資格がないにもかかわらず、神の一方的なご好意によって無償で、キリストを宿すことになった。クリスチャンがキリストの霊を宿すのに選ばれる理由も同じだ。私たちはただ恵みにより、資格がないのに、神の一方的なご好意によって選ばれ、イエス・キリストの霊をこの身に宿す。そういう意味で、マリアの受胎とクリスチャンの聖霊内住は非常に似ている。
29節。ザカリアは天使を見て、不安になり、恐れにかられたが、マリアの場合は感情よりも思考が働いた。天使の言葉の意味について、考え込んだ。原語ではディアロギゾマイという「思いを巡らす、よく考える、議論する」とも訳する言葉ができる。マリアの考える傾向はほかの箇所でも見ることができる。一つは天使の話を聞いて乳飲み子のイエス様を探し当てた羊飼いの話を聞いて。ルカ2:18-19。もう一つは神殿に残って学者たちと議論していたイエス様の話を聞いてルカ2:50-51。
意味のよくわからない御言葉や神による不思議な出来事についてマリアはただ驚くのではなく、心に納め、思い巡らし、考え込んだ。よく意味がわからなくても、そうした。御言葉なるキリストをこの身に宿すには、御言葉を心に納め、その意味について深く考え、思い巡らすことが必要だ。神の計画に従うためには、不思議な出来事についてただ驚くのではなく、心に納め、その意味を深く考えることが必要だ。意味がわかってもよくわからなくても、信仰によってそうするのだ。そうすれば、いつか神が実を結ばせてくださる。

マリアの最初の考え込みはすぐに実を結んだ。ガブリエルは考え込むマリアを説明した。30節。ここでも、マリアに与えられたものは全面的に恵みによってマリアが神からいただいたものだということがわかる。少しでも自分の行いや自分の力によるものであれば、常に不確かであり不安定だ。良い行いを悪い行いで台無しにしてしまうかもしれない。力が及ばないことがあるかもしれない。全面的に神の恵みによるものであれば、確実であり、安心だ。恐れることはない。私たちがキリストの霊を宿しているのは、恵みによるものなので、恐れることはない。
31節。キリストの御名を決めたのは神御自身だ。イエスは、「主は救い」という意味。このことはマリアだけでなく、後でヨセフにも同じことが示された。夢で天使が現れて「マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい」と命じた。重要な啓示については、二人以上に同じことが与えられることを通してその真実性を確認することができる。イエスという名前は当時決して珍しい名前ではなかった。神がキリストの御名をイエスと定めた理由は、キリストが「主は救い」であることを示されるからというだけでなく、旧約聖書にその型を見ることができる。イエスはヘブライ語ではヨシュアだ。モーセは律法を象徴する人物だとするなら、ヨシュアは神の約束の実現を象徴する人物だ。イエス様を通して神の約束はことごとく実現するということ。さらに、イエスと同じ語根から派生した名前としては、ホセアがいる。預言者ホセアは姦淫の女ゴメルを妻とした。ゴメルがホセアを裏切って姦淫の罪を犯した挙句に市場で奴隷として売られていたとき、ホセアは大金を払って買い取った。イエス様はホセアのように罪の奴隷となって苦しんでいる人間を代価を払って買い取ってくださるのだ。
32-33節。イエス様はあくまでもいと高き方の子だ。つまり、神の子だ。「父ダビデ」というのは、預言の成就という点で意味がある。歴代誌上17:11-12。ダビデの王国は滅びた。永遠に支配した人はダビデの王家には誰もいない。人間はだれしも死ぬからだ。世の中の王や独裁者を信奉する人たちは必ず失望せざるを得ない。優れた政治家もカリスマ性を持つ指導者もみんな死ぬ。その統治はいつか必ず終わりを迎える。しかし、この預言をイエス様が成就するということは、イエス様はほかの王とは違って、死を打ち破り、世々限りなく生き続けられるお方だということだ。イエス様について行く者は失望することはない!

天使がマリアに告げたことはザカリアに告げたことよりもずっと信じがたいことだった。高齢な夫婦が子供を産むことはアブラハムの例もある。しかし、おとめが子供を産むというのは前例がない。おとめが子供を産まないというのは今も昔も変わらない。そこでマリアは尋ねる。34節。しるしを求めて口が利けなくなったザカリアとは少し違う。マリアの場合はしるしを求めてはいない。常識的には起こらないことなので、説明を求めている。

35-37節で天使はマリアの信仰を強めるために説明する。これは、信仰によってキリストの霊が宿るということについての説明にもなる。第一に、それは聖霊による。35節の前半。マリアは常識に基づいて質問したが、天使は超自然的な説明をしている。もし常識的、自然的、科学的に考えるなら、おとめが子供を産むことは不可能だ。そんなことは誰だって知っている。ましてや著者のルカはギリシア人の医者だ。当時の最先端の科学的知識を持っていた人だ。
そういうギリシア人の中には確かに自分の知識を鼻にかけて神の御業について嘲ってしまう人もいた。ルカがそれでも信じることができたのは、無知だったからではなく、神の御業については、常識的、自然的、科学的な説明をするのは不可能だということをわきまえていたからだ。科学は自然についての説明しかできない。神の御業は超自然的なもの。神が御自身のお造りになった自然界に干渉するもの。別のジャンル。聖霊が降り、力を受ければ何だって実現するのだ。

第二に、それはイエス様が聖なる者、神の子として生まれるために必要。35節の後半。もしイエス様が普通の人と同じように生まれたのなら、他の人の同じように生まれながらの罪人であり、聖なる者ではないし、神の子ではありえない。それでは私たちの罪の身代わりに死ぬことはできない。イエス様が聖なる者、神の子、私たちの罪からの救い主としてお生まれになるためには、どうしても神による超自然的な誕生が必要なのだ。

第三に、身近なところに類似した奇跡がある。36節。エリサベトとマリアでは経験したことは違うが、どちらも神の御業であるに違いない。すでに起こった神の御業について知れば、これから起こる神の御業についても信じやすくなる。たいていの人が一度や二度、九死に一生を得るような体験をしている。そのときに神に助けられたということを、はっきりと認識しなければならない。あなたの人生で過去に起こったその驚くべき御業について考えてみよう。それであれば、神がほかにも多くの御業を行われるのは当然だ。もしそういうことについて何も思いつかない場合は、いろいろなクリスチャンの証しを聞いてみるといい。神の世界中で今も数多くの御業を行っておられることを知ることができる。それであれば、どうして特定の御業だけ否定する必要があるだろうか?

第四に、神の属性。37節。全能であるというのは神が神として当然に持ち合わせている属性だ。神を神として信じれば、すべては一瞬で解決する。天地万物を創造された神、すべての生命体をお造りになった神が、どうしておとめを身ごもらせることだけできないことがあろうか。神には簡単におできになる。聖書に書いてある奇跡はすべて、神にできないわけがないのだ。全能なのにできないという方がおかしい。できるに決まっている。

このような説明を聞いても、いくらでもつべこべいうことはできる。しかし、マリアはそれ以上天使と議論しようとしなかった。マリアにとってはこれで十分だった。38節。ここにマリアの信仰による応答を見ることができる。自分の知識や経験に照らせば、やはりよくわからないことではあっただろう。しかし、マリアは自分を主のはしためと言っている。主に仕える者は自分自身よりも主の御言葉を信頼し、それを自分の中に受け入れる。自分の考えよりも御言葉を優先する。天使はその信仰を見て満足して、去っていった。福音は恵みによって提供されるが、そこには信仰による応答が必要だ。私たちもマリアのように、自分の考えを超えた主の御業を、信仰を働かせて自分の身に受け入れることのできる信仰者となろう。

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