デボラの預言と歌[士師記4-5章]

士師記
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最新兵器を持つ敵を倒すために主が用いたのは、一見、力のないと思われた女性でした。

デボラの預言と歌[士師記4-5章]

デボラの預言と歌[士師記4-5章]

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聖書箇所:士師記4:1-5:

4:1 エフドの死後、イスラエルの人々はまたも主の目に悪とされることを行い、
2 主はハツォルで王位についていたカナンの王ヤビンの手に、彼らを売り渡された。ヤビンの将軍はシセラであって、ハロシェト・ハゴイムに住んでいた。
3 イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫んだ。ヤビンは鉄の戦車九百両を有し、二十年にわたってイスラエルの人々を、力ずくで押さえつけたからである。
4 ラピドトの妻、女預言者デボラが、士師としてイスラエルを裁くようになったのはそのころである。
5 彼女は、エフライム山地のラマとベテルの間にあるデボラのなつめやしの木の下に座を定め、イスラエルの人々はその彼女に裁きを求めて上ることにしていた。
6 さて、彼女は人を遣わして、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せて言った。「イスラエルの神、主がお命じになったではありませんか。『行け、ナフタリ人とゼブルン人一万を動員し、タボル山に集結させよ。
7 わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前に対してキション川に集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す』と。」
8 バラクはデボラに言った。「あなたが共に来てくださるなら、行きます。もし来てくださらないなら、わたしは行きません。」
9 デボラは、「わたしも一緒に行きます。ただし今回の出陣で、あなたは栄誉を自分のものとすることはできません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです」と答え、直ちにバラクと共にケデシュに向かった。
10 バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに召集した。一万人が彼に従って上り、彼と共にデボラも上った。
11 カイン人のヘベルがモーセのしゅうとホバブの人々、カインから離れて、ケデシュに近いエロン・ベツァアナニムの辺りに天幕を張っていた。
12 シセラはアビノアムの子バラクがタボル山に上ったとの知らせを受けると、
13 すべての戦車、すなわち九百両に及ぶ鉄の戦車に加えて自分に属するすべての軍隊を召集し、ハロシェト・ハゴイムからキション川に向かわせた。
14 デボラはバラクに言った。「立ちなさい。主が、シセラをあなたの手にお渡しになる日が来ました。主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか。」バラクは一万の兵を従え、タボル山を下った。
15 主は、シセラとそのすべての戦車、すべての軍勢をバラクの前で混乱させられた。シセラは車を降り、走って逃げた。
16 バラクは、敵の戦車と軍勢をハロシェト・ハゴイムまで追いつめた。シセラの軍勢はすべて剣に倒れ、一人も残らなかった。
17 シセラは、カイン人ヘベルの妻ヤエルの天幕に走って逃げて来た。ハツォルの王ヤビンと、カイン人ヘベル一族との間は友好的であったからである。
18 ヤエルが出て来てシセラを迎え、「どうぞこちらに。わたしの主君よ、こちらにお入りください。御心配には及びません」と言うと、彼は彼女に近づいて天幕に入った。彼女は布で彼を覆った。
19 シセラが彼女に、「喉が渇いた。水を少し飲ませてくれ」と言うので、彼女は革袋を開けてミルクを飲ませ、彼を覆った。
20 シセラは彼女に、「天幕の入り口に立っているように。人が来て、ここに誰かいるかと尋ねれば、だれもいないと答えてほしい」と言った。
21 だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の釘を取り、槌を手にして彼のそばに忍び寄り、こめかみに釘を打ち込んだ。釘は地まで突き刺さった。疲れきって熟睡していた彼は、こうして死んだ。
22 そこへバラクがシセラを追ってやって来た。ヤエルは出て来て彼を迎え、「おいでください。捜しておられる人をお目にかけましょう」と言ったので、彼は天幕に入った。そこにはシセラが倒れて死んでおり、そのこめかみには釘が刺さっていた。
23 神はその日、カナンの王ヤビンをイスラエルの人々の前で屈服させてくださった。
24 イスラエルの人々の手は、次第にカナンの王ヤビンを圧するようになり、ついにカナンの王ヤビンを滅ぼすに至った。
5:1 デボラとアビノアムの子バラクは、その日次のように歌った。
2 イスラエルにおいて民が髪を伸ばし/進んで身をささげるとき/主をほめたたえよ。
3 もろもろの王よ、聞け/君主らよ、耳を傾けよ。わたしは主に向かって歌う。イスラエルの神、主に向かって/わたしは賛美の歌をうたう。
4 主よ、あなたがセイルを出で立ち/エドムの野から進み行かれるとき/地は震え/天もまた滴らせた。雲が水を滴らせた。
5 山々は、シナイにいます神、主の御前に/イスラエルの神、主の御前に溶け去った。
6 アナトの子シャムガルの時代/ヤエルの時代に/隊商は絶え/旅する者は脇道を行き
7 村々は絶えた。イスラエルにこれらは絶えた。わたしデボラはついに立ち上がった。イスラエルの母なるわたしは/ついに立ち上がった。
8 新しい神々を選び取ったので/城門に戦いが迫ったが/イスラエルの四万人の中に/盾も、槍も見えたであろうか。
9 わが心はイスラエルの指揮する者らと共に/この民の進んで身をささげる者と共にある。主をほめたたえよ。
10 栗毛の雌ろばに乗り/敷物を置いてその背に座り/道を行く者よ、歌え。
11 水くみ場で水を分ける者らの声にのせて/主の救いを語り告げよ。イスラエルの村々の救いを。そのときこそ、主の民は/城門に向かって下って行く。
12 奮い立て、奮い立て、デボラよ/奮い立て、奮い立て、ほめ歌をうたえ。立ち上がれ、バラクよ/敵をとりこにせよ、アビノアムの子よ。
13 そのとき、残った者は堂々と下って行く/主の民は勇ましくわたしと共に下って行く。
14 エフライムからは/アマレクにその根のある者が下り/ベニヤミンは/あなたの同族の者と共にあなたに続き/マキルからは指揮する者らが/ゼブルンからは指図の杖を持って率いる者らが/下って行く。
15 イサカルの将軍らは、デボラと共にいた。イサカルはバラクと同様/その歩兵らと共に平野に送られた。ルベンの諸支族には/大いに心に期するものがあった。
16 なぜ、あなたは二つの鞍袋の間に座して/羊の群れに吹く笛を聞くのか。ルベンの諸支族には/大いに心に究めるものがあった。
17 ギレアドはヨルダンの向こうにとどまった。ダンは、なぜ舟に宿るのか。アシェルは海辺に座し/舟着き場にとどまった。
18 ゼブルンは死ぬことをいとわぬ民/ナフタリも野の高い所に陣取った。
19 王たちはやって来て、戦った。カナンの王たちは戦った/メギドの流れのほとり、タナクで。だが、銀を奪い取ることはできなかった。
20 もろもろの星は天から戦いに加わり/その軌道から、シセラと戦った。
21 キション川は彼らを押し流した/太古の川、キション川が。わが魂よ、力強く進め。
22 そのとき、馬のひづめは地を踏み鳴らす。駿馬の一隊が突き進む。
23 主の御使いは言った。「メロズを呪え、その住民を激しく呪え。彼らは主を助けに来なかった。勇士と共に主を助けに来なかった。」
24 女たちの中で最も祝福されるのは/カイン人ヘベルの妻ヤエル。天幕にいる女たちの中で/最も祝福されるのは彼女。
25 水を求められて/ヤエルはミルクを与えた。貴人にふさわしい器で凝乳を差し出した。
26 彼女は手を伸ばして釘を取り/職人の槌を右手に握り/シセラの頭に打ち込んで砕いた。こめかみを打ち、刺し貫いた。
27 彼女の足もとに、シセラは/かがみこみ、倒れ、伏した。彼女の足もとに、彼は/かがみこみ、倒れた。かがみこみ、そこに倒れて息絶えた。
28 シセラの母は窓から外を見て/格子を通して嘆いた。「どうして彼の車は遅れているのか。どうして馬のひづめの音は遅いのか。」
29 賢い女官たちは答えた。母も同じ言葉を自分に何度も言い聞かせた。
30 「戦利品を得て、分けているのでしょう/兵士それぞれに一人か二人の女を。シセラには/染めた布が戦利品、染めた布が戦利品/刺しゅうした布、染めた布/その首には刺しゅうした布二枚/これが戦利品。」
31 このように、主よ、あなたの敵がことごとく滅び、主を愛する者が日の出の勢いを得ますように。国は四十年にわたって平穏であった。

【ノート】
3章では左利きのエフドは呪われた方とされる左手によってイスラエルを救った。それは、イエス・キリストが十字架にかかって私たちの代わりに呪われた者とされることによって救いの御業を成し遂げたのと似ている。1節。左利きのエフドの死後、イスラエルに80年に渡って平穏な時期が続いたが、完全に世代が入れ替わると、またもイスラエルは主の目に悪とされることを行った。その悪の内容は5:8によると「新しい神々を選び取った」ことだ。本当は、私たちが神を勝手に選ぶのではなく、主が御自分の主権をもって私たちを選ぶ。「どの神を信じてもいい、すべては自分の都合で決めるのだ」という不遜な態度がイスラエルを背教に向かわせた。
2節。今度の敵はハツォルのカナンの王ヤビンとその将軍のシセラだ。ハツォルの王ヤビンというと、ヨシュア記の11章にも出てくるが、もちろん別人だ。ハツォルはもともとカナン人の王国の盟主だった。ハツォルはヤビンもろともヨシュアが滅ぼしたが、ヤビンの家の人間が別の場所で生き残っていて、ハツォルを再興したのだろう。イスラエルが80年間平穏を楽しみ、脅威に備えていない間に力をつけて逆襲に出たのだ。ヤビンは「賢い者」という意味。ヤビンは自分の手を汚すことなく、将軍のシセラを使って勢力を拡大した。シセラが住んでいた街はハロシェト・ハゴイム。異邦人の鍛冶屋の仕事場という意味。そこではイスラエルが恐れる兵器が造られていた。
3節。900両もの鉄の戦車だ。古代の戦車というのは2頭から4頭の馬を動力として2-3人が乗って、1人は御者として手綱をにぎり、ほかの人が弓や槍や盾を装備して戦う。戦車を持っているということは馬を持ち、あらゆる武具を造る手段を持っているということだ。そして、当時としては戦車は最新鋭の兵器であって、戦車を持っていない軍隊はそれを見るだけでも圧倒され、打ちのめされてしまった。貧弱な装備しかないイスラエルはまさにそうだった。カナンの地を完全に占領できなかった主な理由は、一部のカナン人が鉄の戦車を持っていて、それを恐れたからだ。ヨシュアが直々にイスラエルを率いていたときには鉄の戦車相手に勝利したこともあったが、新しい世代は未経験だった。ヤビンは将軍のシセラと強大な軍事力を利用して力づくでイスラエルを20年間圧迫した。そこで、イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫んだ。イスラエルは自分たちが選んだ新しい神々ではなく、主なる神に大声で助けを求めて叫んだ。世代が変わるごとに主に背くという過ちを繰り返したが、それでも危機的な状況になると、新しい神々ではなく、主なる神こそが助けてくださると直感的に知っているのだ。そのことをいつも知っていなければならない。本当にピンチのときに助けてくださるのは主なる神だけだ。
鉄の戦車という強力な相手に勝利するにあたって、神が士師としてお選びになった器は、意外にも男性と比較すれば力がない女性だった。主が私たちに勝利をもたらす上で私たち自身の力はほとんど必要ないということを、主は教えている。4-5節。これがイスラエルで女性の指導者が立てられた初めてのケースだ。そして、この後も新約聖書に至るまで、デボラをのぞけば、女性が明確に国や教会の指導者として活躍するというケースはない。確かに、性別というのは、男性が主にリーダーシップ、女性が主にサポートという役割を担う。それは正しい。それで中には女性が教会や宣教団体のトップになるべきではないと信じる人もいるが、デボラという一人の例外が、そんなことはないのだということを示している。神は女性をトップに立てることがある。そして、神が例外的に女性をトップに立てるときというのは、たいていその女性が特別な使命と油注ぎを与えられているからなので、その人はものすごく用いられる。女性であるからという理由で、神に指導者として用いられることをあきらめてはならない。デボラのようになれば良いのだ。ではデボラはどうやって指導者になったのか?デボラは戦士ではなく、預言者だった。デボラというのは、ミツバチという意味。蜜のように甘い主の御言葉を語って、恐れおののいているイスラエルを励ました。主の戦いにおいては、強い相手と戦うにあたって、軍事力よりも何よりも預言によってイスラエルの信仰を奮い立たせることが必要だった。主に求めて聖霊様の賜物を豊かにいただけば、デボラのように用いられることができるのだ。
デボラはエフライム山地にあるデボラのなつめやしの木で裁きを行った。なつめやしの実もまた蜜を含む。また、なつめやしの木は祝福された義人を象徴する。詩編92:13。デボラはなつめやしの木の下で御言葉に基づく正しい裁きを行って、女性が軽んじられがちな古代社会で人々の尊敬と信頼を勝ち取っていったのだ。

そのように士師として、また預言者として、忠実に仕えている中で、主からのバラクに対する命令を受けた。6-7節。バラクはナフタリ族だ。バラクというのは、稲妻という意味。イスラエルを呪おうとしたモアブの王もカタガナでは同じバラクという名前だが、ヘブライ語では綴りが違っていて別の名前だ。ヤビンの拠点であるハツォルはナフタリの嗣業の地にある。つまり、バラクは最もヤビンから圧迫されている部族の人だった。ゼブルンはナフタリに隣接している。主の命令はナフタリとゼブルンの1万人戦士を動員し、タボル山に集結させること。主の約束はシセラの軍勢をキション川に集結させ、彼をバラクの手に渡すというもの。主は勝利を約束しておられる。しかし、勝利の具体的な方法は示されていない。貧弱な装備のイスラエルがどうして最新鋭の軍隊に勝てるのか。人間の頭で考えてもわからない。ただ、主の御言葉の約束を信じるしかない。

バラクは1万人もいたナフタリトゼブルンの戦士の中から主から名指しで選ばれたのだから、指導者としての地位にあって、特に勇敢な人物だったはずだ。それではバラクは何と応答したか?8節。バラクは無条件で御言葉に従順することができず、条件をつけてしまった。デボラが一緒に来てくれるなら戦うけど、デボラが来てくれないなら怖くて戦いたくない。情けない!主がこの時代に女性を指導者に用いたのは男らしい男がいなかったからだろう。9節。もしバラクが御言葉に無条件で従っていたら、バラクは栄誉を手にすることができただろう。デボラよりもバラクの名前が先にきていたことだろう。しかし、バラクは主を直接見上げることができず、デボラに従属する形で従うことを選んだ。それで、聖書にはより重要なデボラが先に来て従属する者としてバラクの名前が後に来る。女性に頼ったので、栄誉は女性の手に渡る。従うことに条件をつけるなら、それでもうまくいくこともあるが、天の報いはその分目減りすることを知らなければならない。
ここでは「主は女の手にシセラを売り渡される」と書いてある。2節でも、イスラエルをヤビンの手に「売り渡された」と書いてある。すべてのものは神のものなのだ。主が所有者なので、主は望みのままに誰かを誰かの手に落ちるようにすることができる。私たちの頭では難しく思われるかもしれないが、主にとっては勝利をもたらすことも、懲らしめることも、非常に簡単なことなのだ。

10-13節。すべて主が約束された通りにことが運んだ。ケデシュで1万人を動員することができた。人を集めることは簡単なことではない。これも主の御業だ。私たちは自分の力では教会の出席が一人増えることもやっとかっとかもしれないが、主はその気になれば救いのために何万人でも集めることがおできになる。そして、タボル山に集結させると、シセラはすべての鉄の戦車と軍隊を招集した。これも主の御業だ。主は敵を一気に滅ぼすために敵の戦力を一か所にかためることができる。すべて主が約束された通りだったが、もしかしたらバラク一人だと敵の戦車を恐れて攻撃をしかけるのをちゅうちょしていたかもしれない。そこで、預言者の最後の一押しがある。14-15節。ここで主がシセラの戦車と軍勢を混乱させたというのは、具体的には主が集中豪雨をふらせてキション川が氾濫して、ぬかるみの中で戦車を動けなくしたものと思われる。最新鋭の軍事力が相手でも主は天候をも自在に操り勝利をもたらしてくださるのだ。16節。バラクは稲妻という名前の通り、その機会にシセラを除いて、シセラの軍勢をみんな滅ぼした。

17-22節はヤエルの活躍。ヤエルはカイン人で、モーセのしゅうとの一族の女性だ。イスラエルとカイン人は友好関係にあったが、カナンの王ヤビンとカイン人の間も友好的だった。
だから、カイン人がどちらにつくかというのは何とも言えない状況だった。しかし、ヤエルははっきりとイスラエルの味方をすることを決めていた。それは、優勢になった方の味方をしようという日和見主義からではない。もしそうだったら、自分の手で直接シセラに引導をくだすということは絶対できなかっただろう。ヤエルはカナン人の偶像ではなく、イスラエルの主なる神を求める心を抱いていたのだ。それで主はヤエルの手にシセラを売り渡された。ヤエルはいったんシセラを安心させるという作戦を用いつつ、シセラへの杭の一撃は力によるもの。女性は非力とは限らない。23-24節。神がその日、イスラエルに勝利を与えた。その後も戦いが続いたが、鉄の戦車を倒したイスラエルはもう恐れることはない。最終的にカナンの王ヤビンを滅ぼした。一度の信仰によるブレイクスルーが勝利を決定づける。

5章はデボラとバラクの歌。デボラはイスラエルがこの主の救いの御業を覚えるようにするために、歌を造ったのだ。歌というのは、頭に残りやすい。良い曲だと歌っているうちに歌詞を自然と覚えてしまう。讃美歌、ゴスペル、プレイズなど、主を賛美する歌はそういう効果がある。1-2節。髪を伸ばして身をささげるというのは、ナジル人の誓願による献身のこと。献身したのはバラクを始めとする戦いに参加した人々だ。多くの人々が主に背いていた中でも、悔い改めて主の献身する少数の人々がいたのだ。主はその献身に答えてくださる。ハレルヤ!たとえ日本のクリスチャンが少数であったとしても、私たちが進んで主に献身するなら、主は答えてくださる。ハレルヤ!
3節。イスラエルには王がいなかったので、もろもろの王、君主らというのは、異邦人の王たちのこと。神の民が賛美をささげれば、世に対して証しになる。賛美伝道は良い伝道方法なのだ。
4-5節。主の威光を歌っている。地、天、雲、山々という大きな被造物も、主の御前では揺り動かされる。シナイといえば、出エジプト後に主とイスラエルが契約を結んだ場所。主は契約を守ってくださる。主はかつて救ってくださったように、御自分と契約を結んだ民をまた救ってくださる。

6-8節。シャムガルは3章の最後に出てきた士師だが、彼は北部のハツォルとは離れたペリシテ人のいたイスラエルの南部で活躍したのであてにできなかった。シャムガルの時代、ヤビンが交通の要衝をおさえていたので、商人たちの隊商は危険すぎて幹線道路を行き来することができなくなった。旅をするにも回り道をしなければならなかった。イスラエルは経済的に打撃を受けていたのだ。城壁の外で働く農民たちの村々はあるものは略奪で、あるものは危険を避けて逃げ、みんななくなってしまった。そういう状況でデボラはついに立ち上がった。イスラエルを母親のように憐れに思ったからだ。カナン人の新しい神々を導入したので、城壁のある街の戦いは城門にまで迫ったが、イスラエルにはまともな武器すらなく、勝ち目が全くなかった。
9-11節。デボラは献身者たちと同じ心を持った。主に献身する少数の者がいるのは、主が救いのためにそういう人々を残していてくださり、新たに立ててくださっているからだ。それゆえ、主をほめたたえよ!デボラはすべての人々に主をほめたたえ、主の救いを語り伝えるように呼びかける。栗毛の雌ロバに乗る者というのは上流階級の人のこと。ロバに乗っていても敵から攻撃されることもあった。敷物を置いてその背に座るというのは、富裕層のこと。富は敵に奪われることもあった。道を行く者は一般市民のこと。道を行くのも命がけだった。水汲み場で水を汲むのは羊飼いたちだ。水汲み場では敵の弓の標的にされた。だから、すべての身分の人がこの救いの歌を歌うべきなのだ。そのときには、逃げて隠れていた農民たちは戻ってきて城門で主による救いを喜び祝う。主による救いはすべての人のためのものなのだ!ハレルヤ!

12節。救いの御業は聖霊による預言によって始まる。まず、預言者であるデボラが、次にデボラの預言によってバラクが霊的に覚醒させられる。預言者が語るのは他人事ではなく、まず自分も受けたメッセージでなければならないのだ。デボラのすることは、「ほめ歌を歌う」ことだ。
まだ何も起こっていないが、主の約束の御言葉によってすでに救いが与えられたものと信じて、主を賛美するのだ。バラクがすることは戦うことではなく、とりこにすることだ。戦いは主がしてくださるからだ。このように信仰は結果を先取りする。

13-18節ではバラクによって動員された勇敢な主の民たちの内訳。中心で用いられたのはナフタリとゼブルンだが、ほかにもエフライム、ベニヤミン、ヨルダン川の西側のマナセ、イサカルも動員された人々の中にいたことがわかる。ところが、いろいろな理由から、動員に応じなかった人々もいた。ギレアドというのはヨルダン川の東側のガドとマナセの半部族のこと。ヨルダン川の向こう側のルベン、ガド、マナセは「どうせ対岸の火事だ、自分たちとは関係ない」と思い、ふだん通りの生活を送ってしまっていた。クリスチャンにもそういうことがあるかもしれない。「どうせ対岸の火事だ。自分はもう救われていて安全なので、ほかの人に地獄の火が迫っていても関係ない」そういう思いがあるなら、私たちは悔い改めなければならない。ダンとアシェルは舟の方にいた。イスラエルが負けたらすぐにでも約束の地を捨てて逃げてしまいそうな態勢だ。これは苦難に遭うといつでも信仰すら捨ててしまう準備ができている人を表している。もし私たちに信仰から離れるための舟が残っているなら、全部燃やしてしまい、信仰の戦いを戦い抜く一択をとる者となろう。

19節。シセラはカナン人の王たちと連合してイスラエルと戦った。ここでメギドという地名が出てくる。メギドの丘のことをハルマゲドンと呼ぶ。つまり、この場所は世の終わりの最後の戦争の舞台なのだ。王たちの軍隊は大勢だったので、楽勝だと思い込み、銀をどれだけぶんどることができるかを期待した。しかし、予想だにしなかった敗北が待っていた。バラクはまずタボル山をくだってキション川でシセラの軍隊を撃破し、続いてメギドの流れのほとりのタナクでカナン人の王たちの連合軍を撃破した。20-22節。最初は星が出ていて明るかったが、両軍が激突するころに暗くなり、キション川は戦車を押し流した。戦車はぬかるみの中で動けなくなり、馬は手綱をふりほどいて暴れ回る。自然界全体がシセラの連合軍に襲い掛かる中、バラクの軍隊は何の妨げも受けずに悠々と進むことができた。

23節。主の御使いは名指しでメロズを呪うように命じた。このメロズという街に対しては、主自らが戦いに参戦するように呼び掛けたにもかかわらず、応じなかったのだろう。それで、「主を助けに来なかった」と言われている。メロズという街は聖書全体でこの箇所しか出てこない。主の命令に対してあからさまに不従順した結果、メロズは呪いを受け、歴史から完全に姿を消してしまったのだ。一方で、ヤエルは異邦人にもかかわらず、女たちの中で祝福されることになった。24-27節。主はこの戦いを異邦人の女性の手によって終止符を打ち、イスラエルを救った。ここにまずイスラエルによって異邦人が祝福され、世の終わりには異邦人によってイスラエルが救われるという構図、異邦人の完成の後のイスラエルの救いということを見ることができる。

28-30節。これは痛烈な皮肉だ。実際には戦利品として分ける対象と思われた女性によってシセラが殺された。

31節。勢いという言葉は力とも訳される言葉が使われている。デボラがそうだったように、新しい世代も主との愛の交わりによって霊的な力を得るようにという祈りだ。主との愛の交わりは誰かが代わりにしてあげることはできない。新しい世代の当人たちが経験しなければならない。しかし、祈ることはできるので、イスラエルの母なるデボラは子供の世代のために執り成して祈った。実際に、国は一世代分の40年間平穏だった。祈りが聞かれ、新しい世代は聖霊の力によって世に打ち勝つ世代となったのだろう。デボラのように次世代のために執り成す者となろう。

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