主を知らない別の世代が興る[士師記2-3章]

士師記
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主は私たちに信仰による戦い方を学ばせてくださいます。
私たちの武器は世の人々のものとは違います。

主を知らない別の世代が興る[士師記2-3章]

主を知らない別の世代が興る[士師記2-3章]

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聖書箇所:士師記2:1-3:31

2:1 主の御使いが、ギルガルからボキムに上って来て言った。「わたしはあなたたちをエジプトから導き上り、あなたたちの先祖に与えると誓った土地に入らせ、こう告げた。わたしはあなたたちと交わしたわたしの契約を、決して破棄しない、
2 あなたたちもこの地の住民と契約を結んではならない、住民の祭壇は取り壊さなければならない、と。しかしあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。
3 わたしもこう言わざるをえない。わたしは彼らを追い払って、あなたたちの前から去らせることはしない。彼らはあなたたちと隣り合わせとなり、彼らの神々はあなたたちの罠となろう。」
4 主の御使いがすべてのイスラエルの人々にこれらのことを告げると、民は声をあげて泣いた。
5 こうしてこの場所の名をボキム(泣く者)と呼び、彼らはここで主にいけにえをささげた。
6 ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの人々は土地を獲得するため、それぞれ自分の嗣業の地に向かった。
7 ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた。
8 主の僕、ヌンの子ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ、
9 エフライムの山地にある彼の嗣業の土地ティムナト・ヘレスに葬られた。それはガアシュ山の北にある。
10 その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。
11 イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。
12 彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。
13 彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、
14 主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。
15 出陣するごとに、主が告げて彼らに誓われたとおり、主の御手が彼らに立ち向かい、災いをくだされた。彼らは苦境に立たされた。
16 主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。
17 しかし、彼らは士師たちにも耳を傾けず、他の神々を恋い慕って姦淫し、これにひれ伏した。彼らは、先祖が主の戒めに聞き従って歩んでいた道を早々に離れ、同じように歩もうとはしなかった。
18 主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。
19 その士師が死ぬと、彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ断たなかった。
20 主はイスラエルに対して怒りに燃え、こう言われた。「この民はわたしが先祖に命じたわたしの契約を破り、わたしの声に耳を傾けなかったので、
21 ヨシュアが死んだときに残した諸国の民を、わたしはもうこれ以上一人も追い払わないことにする。
22 彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るためである。」
23 主はこれらの諸国の民をそのままとどまらせ、すぐ追い払うことはなさらなかった。彼らをヨシュアの手に渡すこともなさらなかった。
3:1 カナン人とのいかなる戦いも知らないイスラエルとそのすべての者を試みるために用いようとして、主がとどまらせられた諸国の民は以下のとおりである。
2 そうされたのは、ただ以前に戦いを知ることがなかったということで、そのイスラエルの人々の世代に戦いを学ばせるためにほかならなかった。
3 ペリシテ人の五人の領主、すべてのカナン人、シドン人、バアル・ヘルモンの山からレボ・ハマトに及ぶレバノンの山地に住むヒビ人がそれである。
4 彼らはイスラエルを試みるため、主がモーセによって先祖に授けられた戒めにイスラエルが聞き従うかどうかを知るためのものであった。
5 しかし、イスラエルの人々はカナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の中に住んで、
6 彼らの娘を妻に迎え、自分たちの娘を彼らの息子に嫁がせ、彼らの神々に仕えた。
7 イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、彼らの神、主を忘れ、バアルとアシェラに仕えた。
8 主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡されたので、イスラエルの人々は八年間、クシャン・リシュアタイムに仕えなければならなかった。
9 イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主はイスラエルの人々のために一人の救助者を立て、彼らを救われた。これがカレブの弟ケナズの子オトニエルである。
10 主の霊が彼の上に臨み、彼は士師としてイスラエルを裁いた。彼が戦いに出ると、主は、アラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡してくださったので、彼の手はクシャン・リシュアタイムを抑えることができた。
11 国は四十年にわたって平穏であった。こうしてケナズの子オトニエルは死んだ。
12 イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行った。彼らが主の目に悪とされることを行ったので、主は、モアブの王エグロンを強くすることでイスラエルを脅かされた。
13 彼はアンモン人とアマレク人を集め、攻めて来てイスラエルを破り、なつめやしの町を占領した。
14 こうしてイスラエルの人々は、十八年間、モアブの王エグロンに仕えなければならなかった。
15 イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主は彼らのために一人の救助者を立てられた。これがベニヤミン族のゲラの子、左利きのエフドである。イスラエルの人々は貢ぎ物を彼の手に託して、モアブの王エグロンのもとに送った。
16 エフドは刃渡り一ゴメドの両刃の剣を作り、それを右腰に帯びて上着で隠し、
17 モアブの王エグロンのもとに貢ぎ物を納めに行った。王は非常に太っていた。
18 エフドは貢ぎ物を納め終わると、貢ぎ物を運んで来た者たちを去らせ、
19 自らはギルガルに近い偶像のあるところから引き返し、「王よ、内密の話がございます」と言った。王が、「黙れ」と言うと、そばにいた従臣たちは皆席をはずした。
20 エフドは近づいたが、そのとき王は屋上にしつらえた涼しい部屋に座り、ただ一人になっていた。エフドが、「あなたへの神のお告げを持って来ました」と言うと、王は席から立ち上がった。
21 エフドは左手で右腰の剣を抜き、王の腹を刺した。
22 剣は刃からつかまでも刺さり、抜かずにおいたため脂肪が刃を閉じ込めてしまった。汚物が出てきていた。
23 エフドは廊下に出たが、屋上にしつらえた部屋の戸は閉じて錠を下ろしておいた。
24 彼が出て行った後、従臣たちが来て、屋上にしつらえた部屋の戸に錠がかかっているのを見、王は涼しいところで用を足しておられるのだと言い合った。
25 待てるだけ待ったが、屋上にしつらえた部屋の戸が開かないので、鍵を取って開けて見ると、彼らの主君は床に倒れて死んでいた。
26 彼らが手間取っている間にエフドは抜け出し、偶像のあったところを過ぎてセイラに逃れた。
27 到着すると、彼はエフライムの山地に角笛を吹き鳴らした。イスラエルの人々は彼と一緒になり、彼を先頭に山を下った。
28 彼は言った。「わたしの後について来なさい。主は敵モアブをあなたたちの手に渡してくださった。」彼らはそのエフドに従って下り、モアブに向かうヨルダンの渡しを手中に収めた。彼らはだれ一人そこを渡らせなかった。
29 彼らはこのとき約一万のモアブ人を打ち殺した。皆たくましい兵士たちであったが、一人として逃れた者はいなかった。
30 モアブはこの日イスラエルの手中に落ちて屈服し、国は八十年にわたって平穏であった。
31 エフドの後、アナトの子シャムガルが現れ、牛追いの棒でペリシテ人六百人を打ち殺した。彼もイスラエルを救った。

【ノート】
イスラエルに信仰と勇気が欠けていたため、カナンの地の占領は不完全なものとなった。イスラエルは、主が滅ぼすように言われたカナンの地の住民たちを滅ぼさず、追い出さなかった。これは主のご命令に対する不従順だ。1節の前半。ここでいう主の使いは受肉前のキリストのこと。主御自身がここで顕現し、「わたしは」と語っておられるのだ。ギルガルというのは、イスラエルがヨルダン川をわたってカナンの地に入ったときに宿営して、割礼を受けて主との契約を新たにした場所。イスラエルの霊的にも軍事的にも中心的な拠点だった。ギルガルというのは石の円、ストーンサークルという意味で、主がエジプトでの恥辱を取り除いてくださった(ガラ)ことを記念する。良い意味だ。ところが1節では主がギルガルからボキムに上ったと書いてある。上るというのは、高低差の意味合いもあるがもう一つにはより重要な場所に行くときに使われる。たとえば、エルサレムが中心地になってからは必ずエルサレムに「上る」という表現が使われる。つまり、ここでは、主の臨在とイスラエルの中心地がギルガルからボキムに移動したということ。ギルガルは恥辱を取り除いた記念。ボキムの意味は泣く者。これはイスラエルの変化をよく表している。イスラエルは恥辱を除かれて諸国民の間で誉れ高い者にされていたのに、不従順によって再び恥辱にまみれて泣かなければならない者に転落してしまったのだ。

1節の後半から3節。神様は契約を決して破棄しなかった。イスラエルが神様の御声に聴き従わなかったのだ。それで、神様は「私もこう言わざるを得ない」として、カナンの地の住民を去らせないと宣言された。人は時々「神が約束を守ってくださらない」というふうに神に対して文句を言う。しかし、本当はそうではない。神は約束を守っておられたが、そのように文句を言う人の方が、神に聞き従わなかったことが原因で約束を実現できないでいるだけなのだ。人の側に責任がある。カナンの地の占領のように、約束を含む命令は、いつまでも従わないでいると取り上げられてしまうのだ。
4-5節。イスラエルは声をあげて泣いた。主の御言葉を聞いて悲しんだのだ。それではイスラエルは悔い改めたのか?そうではない。もし悔い改めたのなら、カナンの地の住民と契約を結ぶのをやめて、住民の祭壇を取り壊して、主の命令に従順しなければならない。イスラエルは泣いただけで何もしなかった。ただ悲しんだだけだ。涙を流して大げさに祈るけれども、内心少しも行いを改めようとしない人がいる。祈りが終わると、すっきりして罪悪感が減るのでいつものようにまた罪を犯す。そういう人の祈りを主は聞かれない。悔い改めは、行いを変えるものでなければならない。主に従順するものでなければならない。

2:6-3:6の記事は1章の内容と並行している。6-10節。イスラエルの人々の信仰は人間の指導者を見る信仰だった。偉大な御業に用いられた人間の指導者であるヨシュアや長老たちが生きている間は、ヨシュアの世代だけでなく、実際にそういう御業を体験しなかった人々も含めてみんな主に仕えた。しかし、人間を見る信仰は永遠には続かない。なぜなら、人間の指導者は死ぬ。偉大な御業に用いられた人々がみんな死んだ後には、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代に完全に入れ替わってしまった。人間を見る信仰はその人間の寿命に限られる。では、どういう信仰である必要があるのか?神を見る信仰だ。主イエス・キリストは死んでも復活し、今も生きておられる。父なる神は唯一の不死のお方だ。神を見る信仰であれば、ずっと続く。そういう信仰をイスラエルは次の世代に伝えなければならなかった。主の例祭をすれば、子供たちに主がなさった偉大な御業について説明する機会となる。たとえば、過越祭をするなら、羊の血を鴨居に塗るときに子供たちがたずねるだろう。それが信仰教育の機会になる。そのことは書いてある。出エジプト12:26-27。主はこのように次世代を担う子供たちの教育に強い関心がある。しかし、イスラエルは無関心で、自分たちの世代だけよければよかった。
主の例祭については、過越祭と仮庵祭をヨシュアの時代にささげた記録があるが、ヨシュアの時代が最後でそれ以降はサムエルの時代までまったくない。イスラエルは神の偉大な御業への感謝を怠り、子供たちにそれを伝えることを怠った。自分の代だけ良ければ良いのだとするのではなく、主が望んでおられる信仰教育を子供たちに施す者となろう。

11-13節。イスラエルは自分たちを救ってくださった主を捨てて、他の神々に従い、ひれふした。その代表的な神々はバアルとアシュトレトだ。バアルはカナン人が崇拝していた男性の偶像。主人、所有者、夫という意味。豊穣をもたらす神として農耕をする人々の間で広く崇拝されていた。アシュトレトはバアルの妻にあたる女神の偶像。多産と快楽の神としてバアルと並んで崇拝された。カナンの地で出土した女神の偶像の多くは裸体で性的な特徴が強調されたもの。バアルとアシュトレトの儀式には女祭司の売春婦との性的関係を持つものや子供の命を犠牲にするものなど罪深いものがある。イスラエルはカナンの地に定住する前までは、遊牧生活をしていた。主に家畜を飼うことで暮らしていたのだ。しかし、カナンの地に入ってからは農耕による定住生活をするようになった。それで、農耕での豊穣をもたらす神としてバアルを崇拝するようになり、過酷な荒れ野での遊牧生活から平和で豊かな定住によって気がゆるみ、性的に堕落して、快楽をもたらすアシュトレトを崇拝をするようになった。人間は不安定な自分の存在を支えてくれ、満たしてくれる何かを渇望する。イスラエルにとって、バアルとアシュトレトは新しい生活様式にマッチするように思えた。しかし、実際には、カナンの地での豊かな生活を与えてくださったのは主なる神だ。主は遊牧民の神なのか?そう、主は遊牧民の神だ。では、主は農耕民の神ではないのか?いや、主は農耕民の神でもある。主なる神は私たちの必要のすべてを満たしてくださるお方だ。主なる神を限定してはならない。主は御自分を限定しようとすることをゆるさない。あるとき、アラムの王の家臣たちは、イスラエルと戦って負けた理由については、「主は山の神だからです。平地で戦えば勝てます」と王に進言した。主はそれを聞いておられた。列王記上20:28。当時のイスラエルの王はアハブであり、特に悪い王だったが、主は御自分が平地の神でもあることを示すためにイスラエルに勝利をお与えになった。何か自分に欠けているものがあるか?飢え渇きがあるか?何であれそれを満たしてくださるのは主だ。主はすべてにおいて神だ。
そして、豊かな生活によって堕落してしまわないようにという警告はあらかじめなされていた。申命記8:17-18。豊かな生活はそれだけで落とし穴になりうる。豊かな生活の中でこそ、主に感謝をささげ、ますます熱心に主に従うことは意識して取り組まなければならない。

14-15節。ここでも主は御自分が誓われた通りに働いておられる。主は私たちを赦すときにも、私たちを懲らしめるときにも、いつも真実で正しいのだ。主を捨てるなら神の民は苦境に立たされることになる。それは良いことだ。順調に行くなら悪いメッセージを与えることになる。苦境は、私たちがへりくだり、悔い改めて主を求めるための契機となる。

16-19節。ここでは、イスラエルが主に助けを求めて叫んだということが書いていないが、神が士師たちを送ってくださる直前にはいつもイスラエルが主に助けを求めて叫んだことが書いてある。その祈りは、必ずしも徹底した悔い改めによるものではなかった。その証拠に、イスラエルは救ってもらっても、士師の言うことを聞かず、主の戒めに聞き従う道から早々に離れて、他の神々と姦淫する状態に逆戻りしてしまったからだ。そのような不徹底な悔い改めでも、主は士師たちを送って略奪者の手からイスラエルを救ってくださった。それはうめく彼らを、主が哀れに思われたからだ。イスラエルが苦しんだのは当然の報いだが、主は御自分の哀れみのゆえにイスラエルを苦しめ続けることができない。士師記というと、士師たちの活躍に注目してしまいがちだが、実際には主の哀れみによって救われるのだ。
20-3:4節。主はもう一度、イスラエルの契約違反に対する報いとして、諸国の民をこれ以上一人も追い払わないことにすると決意された。それは単なる罰則ではなく、主の良い目的がある。

第一に、イスラエルを試すことだ。22節の「試し」という言葉は、原語のヘブライ語ではナーサーという言葉で、創世記22:1でアブラハムにイサクをささげるように言われたときにも使われている。人が主に従うかどうかは、試されないと明らかにならない。アブラハムはそのテストに合格して、神に認められ、祝福を限りなく受けた。イスラエルはというと、もう契約を破り、主に背いていたので、「失格」として主は切り捨てることもできないではなかった。しかし、主は諸国の民による試練の中で、もう一度イスラエルが御自分に立ち帰るためのチャンスを与えたい、イスラエルが試練に合格して祝福を受けられるようにしたいと願われた。試練があるということは、神が私たちを見捨てているからではなく、神がまさに私たちに目をとめておられるからなのだ。その御心を知って、試みに合格する者となろう。

第二に、新しい世代に戦いを学ばせるためだ。ヨシュアの世代はみんな戦いを知っていたが、新しい世代は戦い方を知らなかった。人には、子供たちに対する愛情から、苦労するのは自分の世代で終わりにして、子供の世代には楽をさせたいという傾向がある。それは、実は御心にかなわない発想だ。楽をさせるということは、信仰の勝利を体験させないということになる。次の食事のために祈る、次の仕事のために祈る、今月の支払がすべてできるように祈る、それは確かに大変なことだが、そういう経験をしないと神が必要を満たしてくださるというすばらしい御業を体験する機会が得られない。大宣教命令の遂行は成就するまで、終わりにすることはありえない。リバイバルは世代を超えて継続していかなければならない。そして、霊的な戦いは、私たちが勝利を得たとしても、次の世代で勢いを緩めるなら攻守が逆転し、攻められてしまうことになる。この世で生きている限り、クリスチャンには戦いがある。そのことをわきまえて、主がそうなさったように、次の世代にも戦い方を教えなければならない。

5-6節。主がイスラエルの不従順に対して、懲らしめの中にも教育的な目的をもっておられるのを尻目に、イスラエルはどんどん主に背いていった。

3:7から16章までが士師の活躍。ここから罪⇒裁き⇒悔い改め⇒救い⇒また罪というサイクルに入る。7-11節は最初の士師、ユダ族のオトニエル。7節。主は私たちを片時も忘れることはないが、私たちの方は主を忘れてしまうことがある。アシェラというのはアシュトレトのような性的な不道徳の女神の偶像で、バアルの母にあたると考えられている。8節。アラム・ナハライムというのは、二つの川のアラムという意味で、メソポタミアのこと。クシャン・リシュアタイムとは二重の悪、クシャンという意味。メソポタミアはアッシリア帝国とバビロン帝国を生んだ場所。大国が生まれやすい。そこの王が遠征して侵略したということは、単純な軍事力では絶対に敵わない。そこで主が救いのために立てられたのがオトニエルだ。9節。オトニエルというのは神の獅子という意味。10節。強大な軍事力に対して、オトニエルは主の霊によって対抗した。私たちは主の霊によってどんな敵をも倒すことができる。11節。40年というのは1世代にあたる。平穏な時期は40年経って世代が入れ替わるまで続いたということ。

12-30節はベニヤミン族の左利きのエフド。12-14節。なつめやしの街というのは、エリコのことだと考えられている。東の方からヨルダン川を超えて侵略されてエリコをとられ、イスラエルを支配するための拠点とされてしまったのだ。そこで主が立てられた救助者はエフドだ。15節。エフドというのは「私は賛美する」という意味。彼の特徴は左利きだ。
当時としては左利きが珍しかったので、左利きのエフドと呼ばれたのだろう。左利きというのは聖書的に見てもあまり印象が良くない。右は力、幸い、祝福を意味するのに対して、左は悪い、呪いを意味していた。イエス様は右側にいる羊に対しては「祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と宣言しましたが、左側にいる山羊に対しては「呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火の中に入れ」と言われた。どれだけ左が悪いかということが良くわかる。しかし、エフドは左利きであるということを自分の強みとしてエグロンを倒すことになる。このことから、神は悪いものを持ってしてすら、救いを成し遂げることができるということがわかる。神が用いるなら悪は悪で終わらずに善いものに変えられるのだ。神はあなたが持っているウィークポイント、欠けているところ、人々から悪く思われているところすら用いてすばらしいことをなさることがおできになる。エフドは貢ぎ物を持っていく代表団だった。
16節。左利きの人は少ないので、ボディーチェックがあまくなる。それを見越してのことだ。17-29節。まず偶像のあるところというのが二回出ている。モアブ人が自分たちを守る神の像を置いていた。偶像の目の前で、エフドは計略を実行した。エフドは主への信仰を持っていたので、偶像を全く恐れていなかったのだ。偶像には目があっても見えず、口があっても話せず、動くことすらできない。エフドがそこを通っても何の害を受けることがなかった。このことから偶像がいかに無能で恐れるに足りないかということがわかる。
次に、エグロンは非常に太っていた。エグロンのぜい肉はイスラエルから奪い取って貢ぎ物によってできていた。そのぜい肉が命取りになる。エグロンはエフドと一対一になったとき、太っていたので、動きがにぶく、短刀をよけることはできなかった。エフドはやすやすとエグロンをしとめた。しかもその死に様は汚物まみれになるという非常に惨めなものだ。不正に得たもので自分を肥やすなら、報いを受けることになるということが良くわかる。
最後にエフドの計略の周到さを見ることができる。エフドは代表団として貢ぎ物を届ける機会を利用した。そのことからエグロンに歯向かう意思は全くないのだと思わせた。そして、一度ほかの者たちを去らせ、一人になってからエグロンに内密の話を持ち掛けて安心させた。一対一になると「あなたへの神のお告げを持って来ました」と言って期待させたところで、一撃でしとめた。
ところで、エフドはエグロンを計略にかけて暗殺したわけだが、このことは罪にならないのか。おそらくはならないだろう。主はヨシュアがアイを攻撃するにあたって、敵を倒すために伏兵を配置するように言われた。エフドの短刀は確かにエグロンへの神のお告げだったに違いない。広く適用できることではないが、エグロンを倒すにあたって限定的に許された行為だろう。
30節。エフドによる救いによって、国は80年間平穏だった。この80年というのは、ほかのどの士師よりも長い。悪い左手を使う者と思われていたエフドが、最も長い平穏を築くのに用いられたというところから、神による逆転のすばらしさを見ることができる。

31節。シャムガルについてはあまり書かれていない。その特徴はペリシテ人相手に牛追い棒で戦ったということ。ペリシテ人はアブラハムの時代からカナンの地の南部の沿岸地域に住んでいた。イスラエルが出エジプトした際には、ペリシテ人の住む地を通ってカナンの地に入るのが近道だったが、主はイスラエルの民が戦わなければならないと知ってエジプトに引き返してしまうと考えて、ペリシテ人の地を通らなかった。ペリシテ人はそれだけイスラエルが恐れていた民族なのだ。そのペリシテ人に対して、シャムガルは牛追い棒で戦った。追い棒というのは別訳では突き棒。動きの鈍い家畜を追い立てるために使う先が尖った棒だ。戦いの武器ではない。シャムガルは訓練された兵士ではなく、平凡な農夫だったのだ。神は平凡な農夫と武器ともいえない牛追い棒を用いて救いを成し遂げられた。神が用いるならどんなにとるに足りないものによっても、偉大な救いの御業を成し遂げることができる。
あなたは平凡な人か?あなたはとるに足りないものしかもっていないか?神にとってはそれで十分だ。神にとってあなたとあなたが持っているもので十分だ。あなたが自分の人生をささげるなら、神はあなたを通して想像もできないような大きなことをすることがおできになる。士師たちのように、神の憐れみの業に用いられる者となろう。

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