自分が蒔いたものを刈り取る

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誰のせいにもできません。

自分が蒔いたものを刈り取る

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【ノート】
農業をしたことがあるか?私の祖父の家は兼業農家だったので、田植えや稲刈りの手伝いをすることが時々あった。春になればトラクターで田んぼを耕し、田植え機で苗を植える。秋になれば、コンバインを使って稲を耕し、精米所に持っていって精米する。その間にも時々稲の育ち具合をみて、手入れをする。それが農家の仕事だ。そこまで大きな規模でなくてもミニトマトとか、みかんの木を育てて、食べたことがある人もいるだろう。自分で手をかけたものが食卓に並び、それを食べると、人間は自分が蒔いたものを自分で刈り取り、自分の栄養にすることができるということがよくわかる。

私たちは、たとえ農業をしていないとしても、自分が蒔いたものを収穫して、自分の栄養にして生きている。そして、蒔くものは良いものばかりとは限らない。良いものを蒔く場合もあれば、悪いものを蒔く場合もある。ガラテヤ6:7-8。

なぜ人は神を侮ることがあるのか?それは、どんな生き方をしても大丈夫だ、大した違いは生まないと思うからだ。人間がそのように錯覚して、神を侮ってしまうのは、蒔いてから刈り取るまで時間差があるからだ。田植えから稲刈りまで数か月あるように、肉に蒔いても霊に蒔いても、つまりどんな考えや言動をとってもすぐに結果には表れてこない。だから、人間は肉に蒔いても「大丈夫だ、何も問題ない」と思って神を侮ったり、霊に蒔いてもすぐ良い実を刈り取れないので「こんなことをしても意味がないのではないか」と不信仰に陥って忠実に蒔かなくなったりする。そして、いざ悪い実を刈り取る段になると、自分が霊に蒔かず、肉に蒔いたのを忘れてしまって「なぜ自分ばかりこんな目にあわなければならないのか」と不平を鳴らし、クリスチャンであれば「なぜ神は助けてくださらないのか」とつぶやく。そうやって、他人のせいにしたり、環境や状況のせいにしたり、神のせいにしたりする。実際には誰が蒔いたのか?自分が蒔いたのだ。自分が蒔いた種で自分が苦しんでいるに過ぎない。私たちは誰のせいにする権利も持たない。自分が蒔いたものを自分で刈り取っているのだ。悪い実を刈り取り始めたら、私たちはへりくだらなければならない。いや、その前に、肉に蒔くことをやめて霊に蒔くようにしなければならない。

蒔くというのは心に蒔く。すべてはまず、心から始まる。箴言23:7。『人は心の中で考える通りの人間である。』(英語の詳約聖書)心は、私たちが見るものや聞くことや過去と現在の経験によって左右される。テレビやスマートフォンやゲームや本によって左右され、記憶に左右される。悪魔の嘘を心におさめるか、真理の御言葉を心におさめるかに左右される。私たちの心の畑はどのような状態だろうか。荒れ果てて雑草が生い茂っていたり、とげとげの茨が生えていたり、苦い実や毒がある実が生えていたりはしないだろうか。
肉に蒔くとはどういうことなのか?肉とは神に反逆する人間の罪深い性質のこと。肉の業については5:19-21に書いてある。悪魔の嘘を信じてこういう肉のことに心を使い、肉についての言葉を語り、肉的な行動をとるなら、その人は肉に蒔いている。ある人の心の畑を見るなら、憎しみで覆われている。その人はいつも過去や現在の神や人に対する憎しみや怒りでいっぱいであり、いかに神からひどい仕打ちを受けたか、いかに人から嫌なことをされたか、いかに自分が被害を受けて不幸になっているか、うらみつらみを語り続ける。ある人の心の畑を見るなら、情欲で覆われている。その人はポルノの中毒になっていて、いつも欲求不満であり、異性を性的なものとしてしか見れない。ある人の心の畑を見るなら、虚栄心でいっぱいだ。その人は世的な価値観で物事を図り、自分自身がよりはえること、より有名になること、人がうらやむような学歴、職業、恋人、衣類、車、家を手に入れることに躍起になっている。
肉に蒔き続けるなら、私たちの心はどんどん病んでいき、欲求不満になり、体にも疾患が現れ、悪霊に攻撃にさらされ、神からどんどん遠ざかっていく。それをずっと続けるなら、私たちは滅びを刈り取ることになる。

では、霊に蒔くとはどういうことなのか?霊の結ぶ実についてはガラテヤ5:22-23。霊とは神の霊である聖霊様のことだ。神の愛を心に植え、聖霊様の導きに従い、自分の考えや経験に頼ることなく信仰を働かせ、神に祈り、真理の御言葉を心におさめる生活を送るなら、その人は霊に蒔いている。その人はイエス様が自分を許してくださったように、他の人のことを許す。心に怒りがわいてきそうなときには何度でも許しを宣言し、肉に蒔くことがない。その人は神の愛によって心が満たされているので、世のものを欲しがらない。その人はイエス・キリストによってとらえられているので、他の何ものもその人の心を占めることがない。その人は満たされている。満足がある。

私たちは肉に蒔くのをやめて、霊に蒔く者になろう。霊に蒔くことを可能にしてくださったのは、イエス・キリストだ。イエス・キリストは私たちが多くの良い実、命の実を結ぶことができるように、一粒の麦となって死んでくださった。ヨハネ12:24。これはイエス・キリストの十字架の死を表している。イエス・キリストはあなたのために死ぬほど、あなたを愛しておられる。この愛に答えて、イエス・キリストを罪からの救い主として受け入れるなら、すべての罪が許されて、肉の業による呪いと滅びから解放される。あなたは聖霊様を受けて、霊に蒔くことが可能とな

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