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福音&主題メッセージ
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【ノート】
教会は、誰に対しても扉を開いている。誰でもウェルカムだ。イエス様は誰も御自分のもとに来るのを拒まなかった。人が御自分の下に来るのを妨げようとする人がいたらしかりつけた。なぜなら、神はすべての人を愛しておられ、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられるからだ。Ⅰテモテ2:4。人間の形をしていれば、教会は歓迎する。イエス様御自身であるかのように、もてなす。イエス様は最も小さな者の一人にしたことは、私にしたことなのだと言われた。また、アブラハムは誰かれなくもてなしていたら、知らないうちに天使をもてなした。もし教会がある人に対して扉を閉ざすなら、それはイエス様を締め出していることになるかもしれない。天使を締め出していることになるかもしれない。

教会は、本当はもっと出て行って福音を宣べ伝えなければならない。イエス様が十二人を遣わし、その後七十二人を遣わしたように、教会は本当は福音をたずさえて出て行き、全世界をキリストに勝ち取らなければならない。このことが十分にできている教会は少ない。それであればせめて、教会に勇気をもって自ら来てくださる方であれば、歓迎すべきだ。よほど問題ばかり起こして交わりを破壊してしまう人でない限りは、迎え入れ、愛を実践し、罪を悔い改めて、イエス様を信じて受け入れて救われるように促すのだ。

しかし、その人は本当に自らの意思だけで教会に来たのか?決してそうではない。誰も偶然に教会に足を運ぶということはできない。神がその人を教会に送ってくださるのだ。ある私の友人は一度伝道されて教会に導かれた。しかし、悔い改めについてのメッセージを聞いてあまり良いイメージを持たず、もう行かないでおこうと思った。あるとき、その人は酒にべろんべろんに酔っぱらって適当にふらふら歩いていた。気づいたらそこがもう行かないでおこうと思っていた教会だということがわかって愕然とした。その人はその年の内に救われて洗礼を受けた。

教会というのは人が救われ、信仰を育む上で絶対に欠かせない場だ。そこに人が導かれることは偶然ではない。イエス様がその教会を信頼して、救われてほしいと思う人の足を導き、教会に送ってくださるのだ。本当は教会の方がもっと出ていかなければならないのに、イエス様が送ってくださる人がいる。私たちはイエス様からの信頼に答えて、教会に来る人たちを受け入れなければならない。

しかし、問題は、教会に来る人たちは受け入れやすい人たちばかりではないということだ。罪の問題、人格的な問題、精神的な問題、経済的な問題、健康上の問題などなど、様々な問題を抱えて教会にやってくる。今後もそういう人たちが特にたくさん来るだろう。イエス様が信頼して送ってくださる。もし教会がイエス様を愛して、イエス様の信頼に答えて問題だらけの人々を暖かく迎え入れて、仲間に加え、一つとなるならどうなるか?問題だらけだった人たちが変えられて、非常に力あるクリスチャンになる。多く赦された者は多く愛するようになる、と書いてある。そして、イエス様は喜んで、さらに救われる前から有能な人々、社会的地位のある人々をも送ってくださるようになる。ルカ16:10。私たち一人一人がイエス様の信頼にこたえて、教会に来る人たちをウェルカムする、暖かく迎え入れるにはどうすればいいのか?御言葉を通して学んでみよう。

第一に、へりくだる。イエス様を中心とした集まりが教会だ。ファリサイ派の人々は、教会に徴税人や罪人が集まるのを非難の目で見た。徴税人はいろいろと理由をつけて人からお金をむしり取る公認されているヤクザのような人々、罪人は貧しくて旧約聖書の律法通りの生活ができない人々。どちらも正統派のユダヤ人から軽蔑されていた。当時のユダヤ人社会で一番お近づきになりたくない類の人々だ。それに対するイエス様の答えは何だったか?マルコ2:17。
罪人を招くイエス様が教会の頭なら、教会に罪人や問題だらけの人が来るのは当たり前のこと。イエス様が招いておられる!ファリサイ派の人々がそれを受け入れようとしなかったのは、高ぶりがあったからだ。自分はこの徴税人や罪人とは違う!安息日を守り、週に二度断食し、十分の一をささげている。自分は正しい者だという高ぶりだ。それは事実ではない。すべての人はイエス様なしでは問題だらけだ。ローマ3:10。私たちはイエス様なしではみんな呪われた罪人だ。人間が自分の力で勝ち取ることができるのは地獄だけだ。クリスチャンも時々そのことを忘れてしまうことがある。ある敬虔なクリスチャンが道端で泥酔している人を見て、軽蔑の念を抱いた。神がその人の心に語った。私なしではあなたもこの酔っ払いと何ら違いはない。「私の功績は何もなく、ただ恵みによって今の私がある」そう、悟ってへりくだろう。そうすれば、他人と自分の間に線を引くのではなく、「この人は私と何ら違いがない。いや、私よりも優れている」として受け入れることができる。そう考えるとイエス様がいかに謙遜で愛のお方かということがわかる。イエス様はファリサイ派の人々や高ぶったクリスチャンと違って、本当に正しい方だ。にもかかわらず、徴税人や罪人と一緒に食事をする。彼らを救いに導くためだ。イエス様は愛と謙遜が肉をまとったようなお方だ。クリスチャンの成長は、人々をより多く受け入れ、愛する者になるという点に現れる。

第二に、愛の実践の機会とする。教会に来る問題だらけの人を愛するというのは、自分の家族や友人を愛するよりも少しハードルが高い。しかし、そういう人がいるということは大きなチャンスだ。マタイ5:46-47。もし自分と親しい人だけを愛するなら、それは簡単なことだが、天では何の報いもない。イエス様からほめられることはない。そんなことは誰でもできるからだ。とんでもなく愛するのが難しい人、敵のような人を愛するなら、それは神の子ならではのことだ。天では大きな報いがある。苦手な人、馬が合わない人、嫌だなと思う人がいたら、チャンスだ。挨拶をしよう。友達になろう。食事をごちそうしたり、悩みの相談に乗ったりしよう。それは牧会者だけがすることではなく、ここにいる全員がすることだ。そうでなければ私が報いを独り占めして、みなさんの報いは何もないということになる。
クリスチャンは愛が成長することを願う。では、愛はどういう状況で成長していくか?筋肉が使うことで成長するように愛も実践することによって成長する。愛は忍耐強いと書いてある。しかし、忍耐が必要な状況が全くなかったら、愛が成長することはない。そういう意味で、難しい人というのは、愛を教えてくれる先生だと言える。だから、自分の愛の成長のためにも、感謝してその人を受け入れよう。

イエス様は罪人の私たちを愛して、受け入れてくださった。罪人の私を愛して、私のために死んでくださった。それであれば、私たちも教会に来られる方を愛して、暖かく迎え入れよう。

このメッセージを聞いて、自分はイエス様から招かれ、教会の人々に歓迎されたけれども、まだイエス様を受け入れていない。自分が受け入れられたのに、イエス様を受け入れていない。いま、イエス様を受け入れよう。そう思われた方は・・・。
また、このメッセージを聞いて、ああ、自分は高ぶってしまい、イエス様を教会から追い出すようなことをしていたと思われる方がいれば、いま悔い改めることをおすすめする。

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