聖餐と愛餐[Ⅰコリント11:2-34]

コリントの信徒への手紙一
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聖餐は礼拝の頂点です。

聖餐と愛餐[Ⅰコリント11:2-34]

聖餐と愛餐[Ⅰコリント11:2-34]

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聖書箇所:コリントの信徒への手紙一11:2-34

2 あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。
3 ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。
4 男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。
5 女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。
6 女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。
7 男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。
8 というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、
9 男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
10 だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。
11 いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。
12 それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。
13 自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。
14-15 男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。
16 この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。
17 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。
18 まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。
19 あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。
20 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
21 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。
22 あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。
23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
30 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
31 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
32 裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。
33 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。
34 空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。

【ノート】
8章から続いていた偶像に供えられた肉を食べてよいかというテーマは10章で終わった。しかし、自由に対して然るべき制限を加える必要があるという点は続く。行き過ぎた自由、益とならない自由、造り上げない自由に対する戒めが11章でもなされている。

2-16節は当時のコリント教会にのみあてはまる一時的、地域的な内容だ。しかし、その判断材料となっている原則は、永遠的なもの、私たちにもあてはまるものだ。この箇所からも多くのことを学ぶことができる。この箇所は、礼拝でのかぶり物についてだ。この点については、コリントの信徒たちはよくやっていた。2節。コリントの信徒たちの中の一部の女性たちが自由を主張して問題を起こしていたようだが、ほとんどの人が使徒パウロが以前教えた通りに守ろうとしていた。

まず永遠的な原則が3節で語られている。頭というのは、頭を意味すると同時に、権威を意味する。どうか女の頭は男という箇所だけを読んで、拒否反応を起こさないでほしい。まずキリストの頭は神という点に注目しよう。御子イエス・キリストと父なる神はどのような関係にあったか?麗しい愛の交わりがそこにあった。協力関係があった。御父は御子を愛して御自分の権威をすべてゆだね、「これは私の愛する子、私の心に適うもの」と言われ、いつも御子と共におられた。御子は御父を愛して御父の御心に全面的に服従した。そして、イエス様は「私と父とは一つである」と言われた。そこには否定的な要素が一つもない。そして、男の頭はキリスト。男というのは、人類を意味するから、女性もそこに含まれると見て良いだろう。キリストは私たちを愛して私たちのために死なれた。キリスト者は自分のために死んでくださったキリストのために生きる。ここには麗しい愛の交わりがある。それでは、なぜ女の頭は男という点だけ拒否反応を起こさなければならないのか。なぜ世の中の考えに影響されて神の定めた摂理を悪く思おうとするのか。信仰によってこのことを受け入れるなら、そこにも麗しい関係を築くことができる。神は決して女性よりも男性をもっと愛しておられるというわけではない。ここで「女の頭は男」というとき、家庭の存在が前提にある。既婚者の男女に特にあてはまる内容だということ。男性と女性が家庭を築くならばどちらかが権威を持ち、リーダーシップを発揮しなければまとまらない。夫の役割はリーダーシップ。妻の役割は助ける。助けることは聖霊様の働きと同じ。非常に重要な役割。エフェソの信徒への手紙では、夫にはキリストのように命を捨てる愛で妻を愛することが要求されている。妻には夫に仕えることが要求されている。夫の方がずっと責任が重い。そして、それはキリストと教会の関係のように麗しい関係だ。
男女平等という考えがある。それは非常に優れた考えであって、聖書もそれを支持するところだ。しかし、盲目的に男女平等を絶対的なものとして強調するあまり、性別による役割の違いを全く考慮しないとすれば、それは不自然であって、不健全だ。結局のところ神が性別を造ったことを否定して神に逆らっている。そういうひねくれた考えによって御言葉を汚してはならない。妻は夫よりも権威がない、夫に仕えなければならないという点についていらだったり劣等感を抱いたりする必要はない。私たちがキリストに倣う者であれば、低くされていること、仕える者であるということを喜ぶべきだ。私たちの主は神御自身でありながら、御自分を無にして、低くなり、人間と同じものになり、すべての人に仕え、自分の命を与えるために恥を偲んで十字架にかかられ、陰府にまで降ったお方だ。この方に倣って、男性にしても女性にしても、仕える者であることを喜ぼう。

4節から原則の適用に入る。女の頭は男といっても、特別権威主義なことは言われていない。4-5節。頭に物をかぶりながら男が祈ったり、預言したりすることは、自分のかしら、つまりキリストを侮辱することになる。女が頭に物をかぶらずに祈ったり、預言したりすることは、自分のかしら、つまり夫を侮辱することになる。それは髪をそったのと同じ。
これは集会でのことだ。集会で人は祈ったり、預言したりする。祈りは人間の言葉を神に話すこと、預言は、神からの御言葉を人間に話すことだ。初期の教会では預言が当たり前になされていた。この霊性を回復したいものだ。
さて、男の場合、頭に物をかぶることはまずかった。これはユダヤ人の習慣に反する。ユダヤ人の男性は頭にものをかぶった。それは、臨在の幕屋を出たモーセの顔が神の栄光によって光り輝いたときに顔に覆いをしたことに由来する。モーセはなぜ顔に覆いをかけたのか?Ⅱコリント3:13。旧約の栄光が消え去ってしまうのを見られまいとするためだった。そうであれば、キリストに属する男性が頭に物をかぶるのはキリストに対する侮辱になる。なぜなら、キリストによって覆いはすべて取り除かれている!キリストの栄光は永遠の栄光だ!モーセに倣って頭に物をかぶるなら、キリストの永遠の栄光を認めないことになる。

女の場合、頭に物をかぶらないといけなかった。祈ったり、預言したりすることについては何ら否定されていない。このことから、女性も集会で祈ったり預言したりすることが許されていることがわかる。女性の使役者が立てられることは良いことであり、時々、主の計らいによって女性の偉大な働き手が出ることもある。モザンビークの宣教に用いられたハイディー・ベイカーが良い例だ。
頭に物をかぶらなければならなかった理由はいたって簡単で、当時のコリントでは頭に物をかぶらない女性は売春婦だったからだ。かぶりものというのは特にヴェールのことだ。ヴェールをまとっている女性は既婚者であって、男性はそういう女性に対して視線を注ぐだけで大変失礼なことであり、アプローチをするのはもってのほかだった。ヴェールをかぶっていない女性は、男性に対してオープンであることを意味する。そのつもりがなくても誤解され、その身に危険がおよぶことになる。特にコリントでは売春婦がヴェールをかぶらなかった。こうした女性は頭に物をかぶらないだけでなく、髪の毛を切ったり剃ったりしていた場合もあった。それで6節だ。集会で、売春婦のように頭に物をかぶらないで、自分の夫を侮辱しておきながら、「自由だ!頭に物をかぶらないことも許されている!」と叫ぶ婦人がいた。それに対してパウロは、「そのように売春婦のかっこうをするなら、髪を剃るところまで徹底して恥を知りなさい。それが嫌なら頭に物をかぶりなさい」と命じる。
7-12節では、性別による違いと男女平等が調和されている。まず差がある。7-9節。男は神の栄光を映すもの。女は男の栄光を映すもの。その理由は女性が男性を助けるために造られたからだ。10節はよくわからない。天使は権威を重んじる存在だから、権威をないがしろにすると不快に感じるのかもしれない。11-12節は男女平等。男性と女性、どちらが欠けても人間はなりたたない。優劣ではなく、男性と女性で違った二つの性質、領域、役割を担うことでひとつをなしている。
13節。パウロの答えを聞いた上での最終判断はコリントの信徒たち自身にゆだねられた。女性の頭のかぶり物は権威の下にあることを示す。しかし、それは恥辱ではない。かぶり物は女性を売春婦と区別する。女性を守る。それは女性の純潔、貞操、名誉を守るものであり、長い髪のように、誉れとなるのだ。
16節。人々につまずきを与えないように、その時々の習慣にのっとることは、多少なりとも大事だ。当時のコリントでのこの習慣は私たちには全然あてはまらないので、そのまま採用してはならない。私たちはいまの教会の良い習慣や現代社会でのマナーなどを多少なりとも大事にし、大きく逸脱しないようにすべきだ。

17-34節は聖餐について。まず17-22節で問題が指摘される。ここでも自由を主張して自己中心にふるまう人々が問題となった。礼拝でのかぶり物の場合はほとんどの信徒たちが使徒の教えを守っていたが、聖餐については、全然だめだった。17節。集会を開くとかえって悪い結果を生んでしまい、集まらない方がましなくらい聖餐についてはひどかった。
初代教会の集会では、いくつかのことが行われた。使徒2:42。使徒の教え、つまり御言葉が語られ、交わり、祈りがあり、パンをさくというのは聖餐を意味する。そして、聖餐は礼拝の中でも、主が定めた礼典であって、礼拝の中では最高の位置にある。しかし、初代教会の場合は聖餐とは別に、一緒に食事をするということも重要だった。使徒2:46。この食事のことをユダの手紙12節ではアガペーと書かれていて、日本語では愛餐と呼ぶ。信徒たちが食べ物を持ち寄って楽しく食卓を囲んだのだ。親睦を深める食事だ。愛餐は初代教会の中で大切にされた。それは、愛の実践の重要な機会であり、富んでいる者は貧しい者に喜んで分け与えた。それは貧しい者にとって助けになった。実際、教会に集う奴隷たちの中には、愛餐が週のうちにまともに食べられる唯一の食事ということもあったくらい貴重だった。このすばらしい食事の交わりはほとんどの教会ではなくなってしまった。現代でも愛餐を実践する教会はある。私はそういう教会にいくつか行ったことはあるし、池袋マナ教会は愛餐を実践する教会だ。しかし、多数派ではない。いまは食事を一緒にするということがなかなかしにくいかもしれないが、教会はもともと食事を愛の実践の機会の中心においていたということを覚えよう。大きい教会だと愛餐をするのは難しいかもしれないし、あなたの教会では愛餐はないかもしれない。そうだとしても、個人単位でも初代教会に倣って、一緒に食事をしてはどうか。お金のない兄弟姉妹に食事をごちそうしてあげてはどうか。

愛餐と聖餐は一つの集会の中で行われた。もともとははっきりとした区別もないくらい愛餐と聖餐はむずびついていた。それはどちらも一致を促すものだ。ところが、コリントの信徒たちの場合は愛餐に愛がなく、聖餐が聖なるものではなかった。彼らは一応二つの行事のために集まるは集まるが、そこに親密さも交わりもなかった。18節には「お互いの間に仲間割れがある」と書いてある。問題はやはり分派にあった。ある者は「私はパウロにつく」、ある者は「私はアポロに」、ある者は「私はケファに」、ある者は「私はキリストにつく」と言ったあの分派だ。19節。適格者とある。新改訳では本当の信者と訳されている。お互いに自分たちだけが本当の信者であって、ほかは偽物だと牽制しあっていた。教会には確かにこういうところがある。醜い争いは食事の席まで続いた。それで食事はかえって愛ではなく自己中心を際立たせるものとなった。そこには、食事をわけあって、みんなそろって祈って食べるのではなく、自分で持ってきた弁当を各自が勝手にがつがつ食べて、ある者は満腹し、ある者は他の人が山ほど食べているのをひもじい思いで眺めるということがおこった。中には酔っぱらって酩酊状態になっていて、そのまま陪餐、つまり聖餐にあずかろうとする人までいた。こんな教会あるか?コリントの信徒たちと比べたら、どんな教会もある意味慰められる!こんな集まりも神が教会と認めてくださるなら、私たちも間違いなく神の教会に違いないと。私たちの教会はまだましだと。私たちはコリントは反面教師とし、初代教会をめざし、さらにはもっと優れた教会をめざしていこう。
22節。食事を分け合う愛餐ができず、ただ勝手に食べて神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせるくらいなら、自分の家で食べなさいということ。それとは別に、聖餐は必ず教会で執り行う。食事での醜さによって聖餐まで汚してはならない。

23-26節は聖餐の意味。よくわきまえていただくなら、聖餐ほど恵みを豊かに受ける手段はない。コリントの信徒たちが聖餐を軽んじたのは、聖餐をよくわかっていなかったからだ。23節。「あなたがたに伝えた」とある。すでに使徒はコリントの信徒たちに伝えたことを繰り返す。何度も伝えなければ、人間はわからない。伝えた内容は、主からパウロが直接啓示されたことだ。それは主が裏切られ、引き渡される夜の緊迫した状況での出来事、闇が力をふるっていたときの出来事だ。しかし、主は食卓でパンをとられた。悪魔が総力をあげて私たちを圧迫しようとしても、聖餐を妨げることはできない。詩編23:5に「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしの食卓を整えてくださる」と書いてある通りだ。
24-25節。主は感謝の祈りをささげられた。主はどんな食事にも感謝された。しかし、世界の暗さがどれほどであっても、特にこの主のパンと杯には感謝が尽きない!その食事は暗い世に対する勝利が約束されている。そのパンと杯は主の死の記念である。私たちが、私たちのための主の死を深く心に刻むためのものである。しかし、単なる記念ではない。主は「これは、あなたがたのためのわたしの体である」と言われた。そのパンは主の体だった。こういわれたとき、主は体を持っておられた。だから、そのパンは物質的な意味での主の体ではなかった。しかし、そのパンには主の御体が霊的に臨在されていたのだ。聖餐のパンには主が霊的に臨在される。私たちは主の内にある永遠の命の力をいただく。パンは私たちの中に吸収される。主は私たちの一部となる。私たちは主と一体となる。やがては主は私たちの全存在となる。

杯の中身は、私たちの罪の赦しのために流された主の血が臨在するものだ。そして、その杯は主の血によって立てられた新しい契約だ。聖餐により、私たちは主との契約を締結する。古い契約は、モーセのときに雄牛の血によって結ばれた。それは、神の民となり、神が定めた律法を守るという約束だった。しかし、イスラエルは律法を守ることができなかった。誰もできない。旧約は正しい者は一人もいないということ、私たちがみんな罪人であるということを教えてくれる。新しい契約は、ただイエス・キリストが私たちの罪の身代わり死なれたことにより、神の一方的な恵みにより罪から救われるというものだ。大きな代価が支払われている。大きな愛が示されている。聖餐はその恵みの深さを受け取るものだ。その杯の血潮をいただくとき、主からの贖い、赦し、清め、祝福を信仰によって受け取る。

26節。聖餐は主が再臨されるまで、主の死を告げ知らせる。聖餐が教会史からなくなったことはない。聖餐が繰り返されることによって、主の死には特別な意味があること、主の死は私たちのためであることが告げ知らされ続ける。最も貴い真実が失われることがない。

このような恵み深い聖餐をいい加減にしてよいはずがない。27-34節は聖餐の資格だ。27節。資格のないものが聖餐にあずかってはならない。それは主の体と血に対する罪だ。どういう人に資格があるのか。第一に、聖餐は主の死を自分のものとして受け取るものであり、主との契約にあたるから、必然的に聖餐にあずかる人は少なくとも、すでにイエス・キリストを信じて、新しく創造されたクリスチャンでなければならない。そのほかに必要な資格が28-29節。「自分をよく確かめ」と「主の体のことをわきまえ」と書いてある。このことから、第二に、聖餐にあたっては自己吟味が必要だ。無感覚に、半ば自動的にパンと杯に手を伸ばすようではいけない。自分を確かめなければならない。それは、もし罪を犯すことがあれば、聖餐を受けられないということではない。主の体と血は罪人のためだ。罪を犯す人は主の食卓に招かれている。しかし、もしその人が主と主の御言葉によって罪を指摘されていながら、へりくだらず、罪を悔い改めようとしない、むしろ、悔い改めたくないと頑なな態度をとるなら聖餐を控えなければならない。また、コリントの信徒たちに見られたように、一つとなる上で妨げとなる仲間割れがあり、神の教会の中で赦せない人、受け入れられない人がいるのであれば、その人も聖餐を受けてはならない。だから、聖餐を受ける前によく祈り、悔い改めていない罪があれば告白し、赦していない人がいれば赦し、和解するようにしなければならない。自己吟味は聖餐のときにあわててするのではなく、集会に出席する前に完了していることが望ましい。第三に、主の体と血のことをよく理解していなければならない。そうすれば、酩酊状態で参加してよいものではないし、普通の飲食と同じ感覚で臨んでよいものではないことがわかる。聖餐のときというのは、クリスチャンが一番厳粛な心持ちでいるべき場だということがわかる。
聖餐は恵みの手段であって、本来は非常に良いものだ。しかし、礼拝というのはもともと命がけのものであり、最高の礼拝である聖餐を軽んじるならば、良いはずのものが、私たちに裁きを与えるものとなる。コリントの信徒たちの中で弱い者や病人がたくさんいて、多くの者が死んだのは聖餐をめちゃくちゃにしてしまったからだ。ちゃんと自分をわきまえて聖餐にあずかるなら、裁かれることはない。仮に裁かれることがあるとすれば、それは私たちを滅ぼす裁きではなく、私たちが滅びないために与えられる懲らしめだ。
33節。聖餐をするなら、各自が勝手に食べるのではなく、待ち合わせをしてちゃんと全員そろってパンと杯を分けて良い交わりを持つようにというすすめ。34節。聖餐だけでは空腹を満たすことができないので、空腹な人は自分の家で食べるようにというすすめ。どちらのすすめも裁かれるための集会にならないようにするためだ。「その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう」とある。ほかにもコリントの信徒たちからの質問はいろいろあった。しかし、さまつな内容について全部手紙で答えていたらきりがないので、あとはコリント教会を訪問するときに直接話すことにした。この11章までが肉的な事柄を取り除く。悪いものを取り除くための手術。あなたは自分の肉的な部分に対して、しっかりと対処できただろうか?もしまだためらっている部分があるならば、肉を悪いものだと認め、肉を十字架につけよう。
12章からの第二部は霊的事柄について。より建設的な内容に入っていく。

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