聖なる方から油を注がれている[Ⅰヨハネ2:12-28]

ヨハネの手紙一
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油が注がれています!(^O^)

聖なる方から油を注がれている[Ⅰヨハネ2:12-28]

聖なる方から油を注がれている[Ⅰヨハネ2:12-28]

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【ノート】
1-2:28までは神は光だということについてが中心。2:29から最後までは神は愛であるということが中心。
29節と3:9には神から生まれるということが合計3回出てくる。生まれるというのは不可逆的な現象だ。ニコデモがイエス様から、新たに生まれなければ神の国を見ることはできないと言われたとき、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と言った。肉体の誕生はもとに戻るということができない。霊的な誕生もそうだ。霊的な誕生ももとに戻るということはない。霊的に新たな誕生は永久的なものだ。神の子供とされた者はその立場が永久に保証されている。そして、自分がした良い行いによって、生まれることができたという人は誰もいない。自分が最高の人格を持ち慈善活動をして、神の召命を全うしたから生まれてくることができたという人はいない。生まれるときはゼロだ。すべての人は良い行いなしに生まれる。生まれることは一方的に与えられる恵みであり、全面的に神から賜ることだ。

29節。神の子であるイエス様が正しい人であれば、義を行う者も神から生まれた神の子だということ。クリスチャン以外に義を行う者はいない。世の中にも道徳的に正しい生活を送っている人ならいる。しかし、世の中のいい人は、神を愛し、神の掟や導きに従うことはできない。神を知らないから。クリスチャンであれば、神から義の性質が与えられる。神を愛し、神に従うことができる。義を行う者は皆クリスチャンだ。

3:1節。考えなさい。とある。私たちはふだんどういうことを考えているだろうか?私たちはあまり考えない方がいいことを考えていることが多いかもしれない。不満や不安なことについて、昔あった苦い経験について、自分の弱さや足りなさ、みじめさについて考えていることがあるかもしれない。そういうことが思いを占めるときは主の御前に進み出て告白し、聖霊様に癒していただこう。そして、悪い考えに対して最も優れた薬となるのは神の愛だ。父なる神がどれだけ大きな愛で私を愛しているか、これこそが、私たちが考えを巡らすべきことだ。あなたは御父がどれほど大きな愛で自分を愛してくださっているか考えたことがあるか?考えれば考えるほど、私たちは神の愛のすばらしさに驚かされ、喜びに満たされる。使徒ヨハネは驚くべき神の愛について、多くのことを語っていない。もしその広さ、長さ、高さ、深さを知ろうとするなら、この手紙を書き終えることができなくなる。それを考える楽しみは、私たちが各々経験しなければならない。

しかし、ヨハネはその愛を特にどの点に見出すことができるのかを示す。神の子と呼ばれることだ。神の子は人間が持ちうる称号の中で最高のものだ。もともと神の子と呼ばれるような特徴は何もなかった。もし私たちの行いで私たちの身分を決めるなら、悪魔の子であり、反逆者、心のにぶい者、頑なな者だ。そして、神の子と呼ばれるのは、私たちの努力や行いによるのではなく、神の愛による。神は私たちをご自分の子として愛してくださり、良いものを与えてくださる。私たちは、名ばかりで神の子と呼ばれることはない。事実、その通り神の子。神が与えてくださる称号は驚くべきものて事実だ。
世の人々は、クリスチャンを理解しないし、尊重しないし、愛さないのは、神の子であるクリスチャンの父なる神を知らないだ。
2節。クリスチャンはイエス・キリストの再臨のときに新しい栄光の体に変えられる。このことを栄化という。栄化について私たちが知っているのは、それが朽ちない体であり、死ぬことがなく、聖別がなく、罪を犯すことがないということなどがあげられるが、「まだ示されていません」とあるように、私たちが知らないことが多くあるに違いない。
実際に栄化されてみないとわからず、この世の言葉には存在せず、説明できないことがあるだろう。五感以外の新しい感覚がいくつも与えられるかもしれない。第六感どころか第七感、第八感をも備える。多くの情報を様々な方法で入手する。新しい能力を得るかもしれない。空を飛んだり、瞬間移動したりするのは難しくないだろう。新しい自然法則の中で生きることになるかもしれない。新天新地は滅びない世界なのだから、何から何までこの古い世界とは違うに違いない。

大きな変化を経験することになるに違いないことは、「御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。御子をありのままに見るからです」と書いてあることからわかる。使徒ヨハネはイエス様と一緒に生活して、寝食を共にした。山之上でイエス様の姿が真っ白に輝いたのも見た。なのに使徒ヨハネは御子をありのままに見ていなかった。使徒ヨハネは復活したイエス様の姿も見た。その体は古い体と同じように触れることができるし、魚を食べることもできる。しかし、突然消えたり現れたりすることができ、明らかに普通の体とは違う特徴を備えていた。にもかかわらず、使徒ヨハネは御子をありのままに見ていなかったので、御子のようになるということが正確にわからなかった。使徒ヨハネは黙示録の啓示を受けたとき、神としての性質を色濃く持ったイエス・キリストのすさまじい姿を目の当たりにした。足まで届く長い衣に金の帯をし、白い羊毛のような髪、燃え盛る炎のような目、精錬された真鍮のような足、太陽のような顔を見た。しかし、使徒ヨハネは御子をありのままに見ていなかった。古い肉体の目では、ありのままに見ることができない!
新しい体を得て御子に似た者となって初めて、私たちは顔と顔を合わせて、はっきりとイエス様を見ることができる。このために再臨を熱望しよう。私たちが経験する栄化のすばらしさは、自分の体の変化も去ることながら、愛する御子イエス・キリストをありのままに見ることができるようになるという点にある。愛するイエス・キリストと良く似た者となるという点にある。
再臨を待ち望む人は、ただ栄化されるのを口をあけて待つだけということはない。
3節。再臨を待ち望む人は、この世で古い体に宿って生きている間にも、御子と限りなく似ていくことを追い求める。御子のように完全に清い者となることを追求する。

4-10節は「自分を清める」ことについての内容や程度、また自分を清めた人の特徴について。4節。清めるというのは、曖昧なものではない。罪を犯さないようにすることだ。そして、罪とは法に背くことだ。ここでは、神の子たちについての話をしているのだから、法というのはこの世の法ではなく、神の法のことだ。具体的には、聖書に書いてあるすべての掟をさす。十戒や山上の説教などに書いてある一つ一つの内容に取り組む。神に従順する。もし法に背いている部分があれば、悔い改めてイエス様に血潮によって清めていただく。そして、もう罪を犯すことのないようにしよう。
罪を犯さない方法は5-6節。御子は罪を除くために来た。罪を犯さないようにするには罪のない御子の内にいつもいるようにすることだ。御言葉によって教えられ、聖霊様の力と導きによって生活することが、御子の内にいつもいることだ。そうすれば、罪を犯すことがなくなる。自分を清める人は最終的に罪を犯すことがなくなる状態まで清くなることができる。これが私たちの古い肉体のまま達することができる最終到達地点だ。

しかし、中には御子が罪を除く力を疑う人がいる。しかもけっこうたくさんいる。そういう人々は「御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません」とはっきり書いてあるのに、御言葉にいろいろと付け加えて、罪を犯しませんというのは、罪深い生活をしない、習慣的に罪を犯さない、罪をたまにしか犯さないととらえる。そして、罪を時たま犯すのは仕方のないことだという考えを植え付けて、清さについて妥協させてしまう。再臨への備えを中途半端にしてしまう。実際にはただ「罪を犯しません」と書いてあるので、神学的なメガネをかけなければ習慣的にという言葉を追加することはできない。誰が何と言おうと私たちはそういう話に惑わされてはならない。7節。義とされたクリスチャンの目指すところは、あくまでも御子イエス・キリストのように義を行う義人だ。もちろん、クリスチャンになっても罪を犯すことはある。御子の内にいないとき、御言葉や御霊の導きから心が離れるときに罪を犯す。Ⅰヨハネ2:1-2で弁護者イエス・キリストによる罪の償いが必要だ。だからといって、クリスチャンが罪を犯さない状態になることができないわけではない。「御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません」とある。キリストの再臨を熱望し、御子のように自分を清める人は、罪を犯さなくなることができる。

8節。罪を犯す人は悪魔に属し、悪魔の性質をその人の内に持っていることを示している。キリストは悪魔の働きを滅ぼすために来た。キリストは三年半の公の生涯で悪魔の支配に風穴を開け、悪霊どもをコテンパンにした。同じキリストの御霊が私たちの内で働いて、悪霊によってもたらされた罪の束縛を断ち切る。悪霊の影響を完全に取り除いていく。キリストが私たちの内ですべての悪魔の働きを滅ぼし、私たちを完全に統治するようになるには、私たちの協力が必要だ。私たちはキリストを客間に閉じ込めて、ほかの箇所を触らせないようにしてはならない。あるいはこの部屋だけは入らないでほしいというプライベートゾーンをつくってはならない。キリストを私たちのすべての領域に迎え入れ、明け渡さなければならない。私たちの礼拝だけでなく、仕事、お金の使い方、時間の使い方、人間関係、性的関係、夢やビジョン、感情、考え方、過去の傷や痛み、コンプレックスに至るまで、全部イエス・キリストに明け渡す。大雑把には行うことはできないだろう。自分に明け渡していない領域がないかを探り、ひとつひとつを神の御前で告白し、キリストの支配に明け渡す。「イエス様、この領域をあなたに明け渡します。あなたが治めてください!」キリストは悪魔の働きを滅ぼし、私たちを癒し、清め、私たちの内側を御国に変えてくださる。

9節。これが神から生まれた人の召しだ。神から生まれた人は本来、御子の内にとどまり、御子に治めていただき、神の聖なる性質を内にいつも持っていて、罪を犯したくないし、犯すことができない状態になる。これが本来神から生まれた人があるべき姿だ。

10節は神の子たちと悪魔の子たちの見分け方。悪魔の子たちの特徴は罪を犯すこととクリスチャンを愛さないこと。神の子たちの特徴は義を行うことと自分の兄弟を愛すること。神の子たちは神の家族の中の自分の兄弟に対して関心を持ち、慰めと励ましを与え、進んで助けを与えようとし、喜んで時間を割いて、必要なときには援助を惜しまない。あなたはどちらによくあてはまるか?神の子かそれとも悪魔の子か?もし私たちの特徴がどっちつかずであれば、まだ私たちの内で悪魔の働きが滅ぼされずに残っているに違いない。キリストにすべての悪魔の働きを滅ぼしていただき、御子のように自分を清める者になろう。アーメン。

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