インマヌエル

神の麗しい御名と称号
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大きな慰めを与える御名です。

インマヌエル

インマヌエル

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【ノート】
神には様々な麗しい御名と称号がある。それは神が偉大であり、一つや二つと名前だけでは十分にその偉大さを表すことができないからだ。クリスマスに最も馴染み深い神の御名はインマヌエルだ。それは「神はわれらと共におられる」という意味だ。

最初にこの御名が与えられたのは南ユダ王国の王、アハズの時代だ。ソロモンの子、レハブアムの時に、イスラエルは二つに分裂した。ユダ族とベニヤミン族とレビ族が中心の南ユダ王国とその他の部族の北イスラエル王国だ。北イスラエル王国は最初の王ヤロブアムが南ユダ王国とは独自路線をとるために金の子牛二体を造って偶像崇拝をした影響で、最後の王に至るまで全員が主に背く悪い王だった。対する南ユダ王国の王は、ダビデのように主の御心に適う良い王と北イスラエル王国と同じように偶像崇拝をする悪い王にわかれる。アハズ王は悪い王にあたる人。彼がどういうことをしたのかは歴代誌下28:1-4に書いてある。アハズ王は主が禁じる偶像崇拝を積極的に行った。子供を火の中を通らせるというのは、アンモン人がモレク神に子供を生け贄としてささげる儀式の中で行われていたもの。火で熱せられたブロンズ像に自分の子供を投げ入れて殺してしまった。これは律法の中ではっきりと禁止されている。レビ18:21。アハズ王はこういうことを行っていた背教者だ。

アハズが熱心に背教をしていたとき、アラム、いまでいうシリアの王レツィンと北イスラエル王国の王ペカが同盟を結んだという知らせがきた。同盟軍が攻めてきたら南ユダ王国はひとたまりもない。王も民衆も動揺し、恐れおののいた。そこへ預言者イザヤが神からの御言葉をアハズ王に与えた。神は背教した王にすら憐れみをかけて、救いの手を差し伸べてくださった。主はアハズが恐れた二人の王のことを「二つの燃え残ってくすぶる切り株」といった。もうほんのわずかの時間燃えたらなくなってしまう儚い存在!人間が恐れるものは主の目にはみすぼらしい。この二人の王の計画は決して実現しないので、ただ主を信じて頼るように主はイザヤを通して命じた。アハズがこの御言葉に従って主を信じれば、あらゆる脅威から救われただろう。しかし、人間は頑固なので御言葉を聞いてもなかなか主を信頼しようとしない。主もそれをよくご存知なので、さらに主はアハズ王が救いを確信できるように、しるしを求めるように言われた。ということはしるしを与えてくださるという約束だ。イザヤ7:11。ここで主はアハズ王の不信仰を見越して、しるしの内容について制限をしていない。深い陰府の方にでも高く天の方にでも良いということは、「どんなしるしでも望むままに求めるが良い」ということ。主はここまで人間の不信仰に配慮してくださっている。主にはそんな必要はない。むしろ人間の方がしるしなしでも主を信じる必要がある。にもかかわらず、主があえてしるしを与えてくださろうとするのは、不信仰で頑なな私たちをも愛して、救いに導きたいからだ。

ところが、頑なな人間は主の愛の御手をはねのける。自ら救われたくないと叫ぶ。イザヤ7:12。アハズ王はまるで敬虔な信仰者のような言葉を使って、「主を試すようなことはしない」と言っている。しかし、裏で主に背いて自分の子供を偶像の生け贄にささげている。だから、この言葉はただの言い訳だ。本当はアハズ王はアッシリアと同盟することを決めていたので、自分のプランを優先して神の計画を退けたのだ。私たちは不従順の言い訳に御言葉を持ち出してはならない。神が命じられることには素直に従わなければならない。神の計画よりも自分の計画を優先してはならない。神の計画の方が常にずっと優れている。残念ながら、アハズ王は不従順によって神の救いに預かることができなかった。南ユダはアラムと北イスラエルに散々攻撃された挙句、同盟を求めたアッシリアにも蹂躙され、属国となってしまった。神の計画を選んでいたら、すべての敵に対して大勝利することができただろう。
しかし、神は与えようとした救いをそのまま引っ込めるわけにはいかない。神は自らしるしを与えて別の人々が救いに預かるようになさった。イザヤ7:13-14。主はもどかしい思いをなさっておられる。主は憐れみ深い方であって、罪深い人間であっても本人が求めさえすれば救うことができるのに、多くの人が主を求めようとしない。しるしを求めようとすらしない。私たちも私たちの国もそうではないか。

人間はしるしを求めなかった。神は人間が求めなかったしるしを御自らの御心に従って定めて与えてくださる。それだけ神は人間を救いたいと願っておられるのだ。しかも、これは救いをあくまでも拒んだアハズ王に与えられたしるしではなく、私たちに与えられたしるしだ。神が救いを確信させるために私たちにお与えになったしるしは何か?それは、「おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」だ。ここでいうおとめにあたる原語の言葉は処女のことではないのではないかと、その意味を勘繰る人がいるが、それはナンセンスだ。神はこれをしるしとして与えられた。しるしというからにはそこには驚くべき現象が伴うということ。普通に女性が子供を身ごもるだけなら何の驚きもない。しかし、おとめが身ごもるなら、前例のない奇跡だ。インマヌエルは「神はわれらと共におられる」という意味だ。神がわれらと共におられるならどうなるのか、イザヤ8:9-10。神がわれらと共におられるなら、諸国の民が連合しても、武装しても、戦略を練っても、決定をしても私たちを脅かすことができない。逆に恐れおののかなければならないのは、諸国の民の方だ。世がこぞって私たちに敵対しても、神がわれらと共におられる限り、私たちは常に勝利者だ。
果たして、背教の王に対して語られた預言は、約700年後にすべてイエス様を通して実現した。おとめであるマリアが聖霊様によって身ごもった。おとめが身ごもるというのは突拍子もなく起こったことではなく、イザヤによって預言されていたことだった。マタイ1:23。イエス様こそインマヌエルなるお方なのだ。このことからわかることを3つお伝えする。

第一に、インマヌエルなるイエス様は救いのしるしだ。罪深い人間はなかなか主なる神からの救いを信じない。救いについてのしるしも求めない。そんな人間に、神が御自ら定めて与えたしるしがイエス様の誕生だ。クリスマスだ。イエス様を見れば神の救いを確信することができる。イエス様を見れば神がいかに私たちを愛しおられるかを知ることができる。それはただおとめから生まれたからすごいということではない。神である御子があえて天の栄光を捨てて人間となってこの世に来てくださったからだ。しかもその目的は人間の罪のために死ぬためだ。神がそこまでしてくださったからには、救いは確実だ。神を全面的に信頼できる。次に物事がうまくいかず、落胆して不信仰に陥ることがあれば、しるしであるイエス様を見て、神の救いについて、神の計画について、神の愛について確信を取り戻そう。

第二に、インマヌエルなるイエス様はいつも私たちと共におられる。イエス様がインマヌエル預言の成就であるということは、イエス様こそが私たちと共におられる神だということ。もともと罪深い人間と聖なる神との間には罪による大きな隔たりがあり、自由に顔と顔を合わせて交わりを持つということができなかった。神の御顔を見るなら、人間は打たれて死んでしまう。しかし、それでも神はどうしても私たちと交わりを持ちたかったので、人間となられた。それが、イエス・キリスト。イエス・キリストは人々と親密な交わりをお持ちになった。特に弟子たちには御自分のことを証しされた。イエス・キリストは十字架にかかって死んで三日目に復活し、その後、天に昇られた。では、イエス・キリストは私たちと共におられなくなってしまったのか?決してそうではない。イエス様がインマヌエルという御名をお持ちになったということは、共におられることがイエス様のご性質。
「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」と書いてある。イエス様は天に昇られる前に約束された。マタイ28:20。イエス様がインマヌエルであり、共におられるという約束で始まったマタイによる福音書は、イエス様が世の終わりまでいつも共におられるという約束で終わる。あのマリアの胎に聖霊様を通してイエス様が宿ったように、イエス・キリストを信じるとき、聖霊様を通してイエス様が私たちの心に宿る。私たちはイエス様といつまでも共にいることができる。どこにいっても、何をしていても、私たちのいるところには、イエス様も共にいる。このことは大きな慰めだ。

第三に、インマヌエルなるイエス様は世をおののかせる。インマヌエルは外国からの軍事的な圧迫に勝利する存在として預言されている。イエス様が共におられる神の教会に対して、今まで多くの軍事的な圧迫が加えられた。ローマ帝国からの容赦ない迫害、イスラム教の侵入、進化論の提唱や共産主義勢力の台頭など。そのたびに、教会は今度ばかりは滅亡するに違いないと不信仰な人々が予測した。情け容赦ない迫害者に対してクリスチャンは「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えられている。これでは一方的な虐殺にあってしまいそうだ。しかし、教会を攻撃しようとしておののいたのは、教会の方ではなく、世の方だった。クリスチャンは攻撃を受けても逆に増え広がり、教会は火に油注ぎを受けたかのようにますます信仰の炎が燃え上がった。なぜ教会を倒すことができないのか?その理由は簡単だ。神がわれらと共におられるからだ。そして、世の終わりにイエス様が再臨される時には、反キリストのすべての計画は挫折し、諸国の民が裁かれることになる。イエス様が共におられるということは、どんな状況でも私たちが世に対して圧倒的な勝利者であるということだ。
恐れてはならない。安心しよう。イエス様があなたと共におられる。メリークリスマス!

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