弁護者イエス・キリスト[Ⅰヨハネ2:1-11]

ヨハネの手紙一
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私たちにはイエス・キリストがついています。

弁護者イエス・キリスト[Ⅰヨハネ2:1-11]

弁護者イエス・キリスト[Ⅰヨハネ2:1-11]

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【ノート】
1:6-10で三つの告白についてみてきた。第一は「神と交わりを持っている」で吟味が必要。第二は「自分に罪がない」で常に嘘。第三は「自分の罪を公に言い表す」で適切な告白。2:1-11ではさらに第四の告白から第六の告白までが登場する。すべての告白は自分の内面の状態について。それらの告白は外面に表れなければ嘘であり勘違いだ。その告白が出る前に、神についての重要な真理が1-2節で打ち立てられている。
1節。「わたしの子たちよ」と呼びかけている。ここには神の家族としての親愛の情が込められている。それと同時に、権威者として教えようとしていることでもある。古代社会では父の権威は絶対。子が父に従うように、私たちはヨハネの持つ使徒としての権威に聞き従わなければならない。

ここにヨハネの手紙の目的の一つが宣言される。「これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」私たちは罪を犯さないようになることができるし、罪を犯さないようにすることが命じられている。これは聖書全体が教えていること。聖書ではどこを読んでも罪に対しては断固とした禁止と厳しい警告があるだけで、罪を犯しても良いということが全く書いていない。少しの回数ならいいとか、小さな罪ならいいということも書いていない。全面的にNGだ。罪に対しての私たちが取るべき態度は全く罪を犯さないことを目指すということ以外にない。親は自分の子供の幸福を望む。「わたしの子たちよ」と私たちに語り掛ける使徒ヨハネと父なる神が罪を禁止する理由は単純で、罪は私たちを不幸にし、従順、聖なる生活、神と人への愛が私たちを幸福にするからだ。私たちは態度を明確にしなければならない。主イエス・キリストの御名ですべての罪に対して、私たちははっきりと「ノー」と宣言しよう!高慢の罪にノーといい、偶像崇拝にノーといい、性的な罪にノーといい、憎しみにノーという。それらの罪が私たちの中に居座ることを許さないようにするのだ。罪を犯し続けるなら悪霊に対して扉を開くことになり、悪霊は私たちを合法的に攻撃できるようになる。ひとたびクリスチャンが罪を悔い改め、聖霊様に満たされるなら、悪霊に対する扉は閉ざされ、手出しできなくなる。そして、私たちは聖霊様の力によって罪を犯さなくなることができる。

しかし、罪を犯すまいと決意し、信仰によって聖なる生活を歩もうとする中で、何らかの罪を犯したらどうすればいいのか?1節の後半「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」。罪を犯しても、イエス・キリストに頼ることができる。私たちはこういうメッセージを何十回も聞いたことがあるように思うかもしれない。福音伝道ではこのようなメッセージがよく語られるからだ。なんだか聖書のあらゆる箇所に「罪を犯しても、イエス・キリストがおられる」と書いてあるように思うかもしれない。しかし、実は聖書全体で、罪を犯しても、イエス・キリストに頼ることができるということが直接書いてある箇所はこの一箇所しかない。なぜこの一箇所しかないのか?罪を犯す人がこのことに付け込まないためだ。人間の根深い罪性は罪を正当化することを見つける天才だ。イエス・キリストは罪と死と悪魔を滅ぼすために来られたのに、真逆に罪を犯しても良い理由としてイエス・キリストを使おうとする。そういうことがないために、この一箇所しかなく、この箇所の直前にはちゃんとこの書簡のすべての内容は「罪を犯さないようになるため」だと明言されている。では、なぜここには書いてあるのか?罪と戦う決意をしつつも罪を犯した人が絶望してしまわないためだ。イエス・キリストがおられるので、私たちには絶望はない。私たちは罪を犯しても、主にあって敗北ではない。私たちは信仰を持ってさえいれば、罪との戦いは必勝の戦いだとわかる。

イエス・キリストは弁護者。ここでの弁護者は原語のギリシア語ではパラクレトスという言葉が使われている。そこには執り成す方、助ける方、慰めてくださる方という意味がある。イエス・キリストは罪に打ちひしがれそうな私たちが倒れてしまわないように助けてくださり、慰めてくださり、罪に定められないように弁護してくださる。

私たちは法廷に立ち、サタンが検察官として山ほどの罪状を読み上げている。イエス・キリストが私たちを弁護するとき、「確かにこの人は罪を犯したけれども、教会に毎週通っていたし、神にたくさん奉仕をささげた。いろいろ良いところがある。本人はいま深く反省しているようだし、見逃してほしい」ということはない。世の中の弁護士はそういうだろう。しかし、もし、それであれば私たちの正しさによって罪の責任を逃れられることになるが、それは不可能だ。そこに平安はない。正しくないから罪を犯したのに、正しさによって逃れられるとは信じられない。それに、もしイエス・キリストがそのように弁護するのであれば、イエス・キリストは神の義を曲げてしまうことになる。

では、イエス・キリストはどのように弁護してくださるのか?「私に免じてゆるしてほしい」。イエス・キリストは正しい方。目的、考え、行動のすべてにおいて父なる神の御心通りになさるお方。この方の正しさであれば確実だ。そして、罪の赦しには根拠がある。敏腕弁護士イエス・キリストが次に言われることは何か。2節。「私がこの人や全世界の罪のために死にました。私に免じてゆるしてください」。罪を償う生け贄と書いてある。罪の罰は死だ。その罪を償うためには命が必要だ。そこで、旧約聖書では牛や羊や山羊を生け贄にささげてその血によって罪を償った。イエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、私たちの罪のための生け贄として血を流して死ぬためだ。その打たれた傷によって私たちは癒された。そして、私たちだけでなく、イエス・キリストは全世界のために死なれた。まだイエス・キリストのことを聞いたことがないすべての人のためにも死なれた。キリストの十字架はすべての人のためだ。だから、私たちはまだキリストの死の意味を知らない人々のためにもこのグッドニュースを知らせなければならない。

3-6節は神を知っている人の特徴について。神を知っているかどうかは外見だけではわからない。神についての知識だけでも全くわからない。神を知っているというのは、神についての表面的な知識を持っているということではない。神と交わりを持ち、神を人格的に知っているということを指す。そういう人は3節。神の愛が心に注がれ、神のすばらしさを知っている人は、神の掟である心を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛したいと心底願い、実践する。だから、神の掟を守ることが神を知っていることの最大の証拠だ。ここでの守るは継続的に守るという意味。神の掟を守ることが習慣化。

一方で、口だけの人もいる。4節。第四の告白は「神を知っている」という偽り者の告白。この偽り者が神を知っているというのはミッション系の学校で聖書の授業を受けたからかもしれない。その学校には敬虔なクリスチャンもいるだろう。しかし、この偽り者は知ったかぶりをしているだけで神を全く知らない。家がクリスチャンホームで聖書の話を聞く機会が多かったからかもしれない。その人のご両親はクリスチャンかもしれない。しかし、本人はクリスチャンになっているつもりのだけで、神を全く知らずに地獄に向かっている。学問的な関心から神学書を読んだり、YouTubeでおもしろい聖書講義の動画を大量に観たりしたからかもしれない。聖書はおもしろい。だから、神を人格的に知らなくても知的好奇心から神学の博士号をとることはできるし、神に逆らう生き方を邁進していても、聖書マニアになることはできる。その人はその知識を自慢する。
神についての知識は趣味のようなもの、アクセサリーのようなもの、しかし全部その人の外のものであって、その人の内に真理はない!その人はイエス・キリストを通して神との人格的な愛の交わりを体験したことがない。変えられた人生がない。全部偽物。まがいもの。救いはなく、救われていないことに無自覚なだけもっと悪い。頭だけ大きくなっても意味がない。ある人がイエス・キリストを信じたら、私は喜ぶが、完全には安心しきることができない。その人に新しく生まれた人として永遠の命の脈動が御言葉の実践を通して見られない限り、祈りが必要だ。

では、どういう人は安心か。5節。喜んで神の御言葉を守る人だ。神の掟が神の御言葉に変わっている。神の掟というとき、旧約聖書に613ある律法や新約聖書に1050ある命令のみをさす。神の御言葉を守るというときは、もっと範囲が広い。直接命じられていなくても、聖書に示されている神の御心をもそこに含む。その人には、イエス・キリストをお遣わしになった神の愛の計画が確かに全うされていることがわかる。

6節が第五の告白。第五の告白は「神の内にいつもいる」。神の内にいつもいるというのは、神との命の交わりを保ち、恵みにおいて成長している状態にとどまっていて、確かに救われている人。「救いの確信がある!」「神といつも親密な交わりがあり、クリスチャンとして成長している!」という告白に等しい。その人はイエス・キリストの模範に倣って従順と献身の道を歩むことによって自分の状態を証明しなければならない。歩むというのは、生活の中で日毎に進歩していくということ。それは「なければならない」とあるようにクリスチャンとして義務であり、重荷であり、十字架だ。

7-11節は新しい掟について。7-8節では、一見すると矛盾しているようなことが言われている。新しい掟ではなく古い掟だが、新しい掟として書いている。どっちなの!?正解はどっちでもあるということ。まずこの掟とは何かというなら、10節に「兄弟を愛する」とある通り、愛の掟だ。愛の掟は神の民に初めから古い掟で与えられている。つまりキリストよりも1500年も前の旧約聖書の律法書の中で与えられている。レビ19:18。この掟はイエス様もパウロも引用しているように、この愛の掟は新約聖書の中でも度々引用されている。
ただし、クリスチャンが実践する兄弟愛には、古い掟に新しい意味が加わっている。「そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実」。真実=現実。イエス様は現実に、命を捨てる新しい愛の模範を見せてくださった。私たちクリスチャンの中にも現実にも、イエス様に倣う新しい愛が実現している。それらは古い掟が語られたときには全然見られなかった。もともとは自分のように愛するということが不可能であり、現実的でなかった。世界は完全に罪と死の闇に閉ざされていたからだ。しかし、いまやイエス・キリストの到来によって、闇が去って、まことの光が輝きつつある。人々は命の光によって新しく創造された者とされ、愛を実践することができるようになっている。まことの光を受ける人が体験する新しい命はその人にとっては常に新しい。だから、イエス様の愛の掟も何千年経っても常に新しい意味のある新しい掟だ。まだ闇が完全に消え去り、光だけになってはいない。まことの光の輝きは増し加わっていき、キリストの再臨によって極致に達する。
新しい掟には新しい対象がある。レビ19:18の隣人という言葉に対しては律法学者が「それでは、隣人とは誰ですか」とイエス様に尋ねたように、誰がそうなのかは人によって違う。対象は10節で「兄弟を愛する」とあるように、信仰によって家族になった兄弟姉妹。
ヨハネが7節の初めで「愛する者たち」と呼びかけているように、クリスチャンはまず互いに愛し合い、その愛の対象がその他の人々にまで拡張していく。どこまで拡張するのか?互いに愛し合うクリスチャンにとって、隣人は敵をも含む全人類。すべての人のためにキリストが死なれたからだ。

10節、その人にはつまずきがない。つまずきというのは信仰が挫折し、弱まること。その人の中にはつまずきとなるものは一切ない。その人は自分がつまずかないだけでなく、ほかの人をつまずかせる要素を何も持たない。愛は隣人からのつまずきから私たちを守り、隣人につまずきを与えることからも私たちを守る。光の中にいる人は、道にあるつまずかせるものをよく見ることができるので、避ける。御国に入る日までその人はわなに陥ることがない。私たちは愛においてこのような無敵の信仰を持つことができる。
9節が第六の告白。第六の告白は「光の中にいる」。この人は最低限、イエス・キリストについての信仰告白をした人にあたる。「私はイエス・キリストを信じています」にもかかわらず、兄弟を積極的に愛さないだけでなく「憎む」。ユダヤ人は異邦人と一切交際を持とうとしなかった。一緒に食事もしない、ろくに会話もできない、汚れたものとみなした。もし、信仰を同じくするはずの兄弟姉妹たちをそのようにみなすなら、信仰告白は真実ではなく、その人は救われていない。その人は福音の光を拒んでいて、信仰告白を口にするその瞬間もまだ闇の中にいる。
11節。闇の中にいる人は闇の中を歩む。彼の霊的な状態の証拠は彼の行いによって見ることができる。「自分がどこへ行くかを知りません」。彼は永遠について何の知識も持っておらず、自分が天国に行くのか地獄に行くのかもわからない。闇によって、彼の心、思考、霊の全領域が覆われいるからだ。

あなたの告白は外面の表れる事柄と一致している真実か。それとも何ら根拠のない空しい言葉に過ぎないか、どちらか。もし神の掟を守ることに躊躇があり、イエス・キリストの模範に倣おうとせず、兄弟を愛していないところがあるならば、その罪を告白し、ただちに神に従う決断をしよう。そうすれば、弁護者イエス・キリストがあなたのために立ち上がってくださる。あなたの闇は消し去られ、まことの光が輝くようになる。

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