原罪から学ぶ罪対策

悔い改め
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原罪は現在の私たちに大いに関係しています。

原罪から学ぶ罪対策

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【ノート】
原罪は最初の罪のこと。アダムが犯した罪のことだ。原罪について触れるとき、「はるか昔にアダムが犯した罪が、私たちと何の関係があるのか?」と思う人がいる。原罪は現在の私たちと大いに関係ある。なぜなら、私たちはみなアダムの子孫だからだ。親の性質は子供に遺伝する。それは肉体的な性質だけでなく、霊的な性質をも含む。アダムは罪を犯す前どういう存在だったか?アダムという名前は人間という意味だ。アダムの経験は人類を代表している。人間はもともと神に似せて造られた。人間の内面の人格、霊性は神に似ていたので、人間は神と交わりを持つことができた。神の愛に満たされて、人間はびっくりするくらい幸福だった。人間は神の栄光をまとっていたので裸であっても恥ずかしがりはしなかった。人間には肉体的な死も、苦しみ、病もなかった。しかし、神に背いて罪を犯したことによって、アダムの内にあった神の形が捻じ曲げられてしまった。人間は神との交わりが断たれて、霊的に死んだ。神との交わりによる幸福を失い、人間の心には不安、恐れ、怒り、情欲などのあらゆる悪い思いが入ってきた。人間は神の栄光を受けられなくなった。そして、罪による呪いとして、人間は生みの苦しみ、労働の苦しみ、あらゆる病気、悪魔からの支配を経験するようになり、肉体的には死ぬようになった。霊的に死んだまま肉体的に死ぬと、人間は神から離れたまま永遠を過ごすことになる。それが永遠の火の地獄だ。自然界も人間の罪によって影響を受けた。もともと神がよしとされた完全な環境だったが、虚無に服するようになり、美しさは損なわれ、人間に対して敵意を示すようになった。動植物だけでなく土といった無生物も含めて、被造物世界全体がうめき、苦しむようになった。アダムが最初の子供を産む前に罪を犯したので、アダムに刻まれた罪の影響は全人類が受けるのだ。ローマ5:12。人間は霊的に死んだ状態で生まれてくる。神に背き、悪魔に従う性質が生まれながらにあるので、生まれながらの人間には神の御前で正しいことは何もできない。生まれながらの人間は罪を犯すことしかできない。テトス1:15。生ける神を信じない生まれながらの人間は何もかも汚れている。

原罪は、最初の罪だ。最初のことは最後まで貫かれるというのが聖書の原則だ。原罪は罪の中でも最も根本的なものであり、聖書に書いてあるすべての罪に関連している。いわば罪の根だ。罪を根こそぎにするためには、罪の根をたたかなければならない。私たちは原罪を犯すに至った経緯から罪を未然に防ぐ方法を学ぶことができる。原罪の内容から、私たちが悔い改めるべき罪を知ることができる。また、罪を犯した後の人間の間違った反応を反面教師として罪を犯した後にとるべき対処を知ることができる。
まずは原罪を犯すに至った経緯だ。
第一に完全な環境があった。人間が創造される前に天地万物は完成されていた。自然法則も、空気も、水も、食べ物も、人間が生きていくうえで必要なものはすべて備えられていた。そして造られたものはすべて良いものだった。人間に至っては極めて良かった。創世記1:31。人間は住む場所としてエデンが与えられ、園を耕し守るという仕事を与えられ、助かる者として配偶者が与えられた。神からの祝福として、産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよというミッションも与えられていた。至れり尽くせりだ。これらのうち人間が自分の努力で勝ち取ったものは一つもない。すべて神から恵みとして与えられたものだ。神がいかに良い方で、私たちに良いものを惜しまずにお与えになるかがわかる。罪を未然に防ぐためには、私たちは神が常に良い方であるという正しい神観を覚えること、神からいただいた恵みの数々を日々思い起こして神に感謝すること。

第二に広範な許可と一つの禁止があった。創世記2:16-17。園のすべての木から食べてよかった。食べ物に事欠くことは全くない。ただ一つ、善悪の知識の木の実を食べることだけが禁止されていた。善悪の基準は神だ。善悪の知識の木の実を食べると神から離れて人間が勝手に善悪を判断するようになる。
つまり、神中心ではなく、神から離れて自己中心の道を歩むようになるのだ。神はこれを禁止した。神が善悪の基準なのだから、神がこれを禁止することは正しいことであり、人間がこの掟を破って実を食べることは悪いことだ。神は人間に神こそが主権者であり、中心であり、基準であるという覚えさせるために善悪の知識の木を園の中央に置いた。この神による禁止を破って実を食べるなら必ず死んでしまう。これが最初の掟だ。
罪とは、自己中心のことだ。本来は神中心であるべきところ、自己中心になることが罪の本質。そして、罪とは、神の戒めに背くことでもある。罪を犯すことが悪いのは、神に背くことだからだ。Ⅰヨハネ3:4。その罪固有の悪い性質もあるが、すべての罪に共通しているのはそれが神の掟を破り、神に背くものということ。そして、罪の支払う報酬は最初も今も変わらない。死だ。ローマ6:23。もう一つの選択肢として、神の賜物はキリスト・イエスによる永遠の命とある。園の中央にはもう1本木があった。創世記2:9。命の木だ。その木の実から食べるなら人は永遠に生きる者となる。この命の木はキリストの十字架を象徴している。いまでも善悪の知識の木と命の木は私たちの目の前に置かれている。私たちは神に背いて自己中心に生きるか、キリスト中心に生きるか、選択しなければならない。キリストは神なのでキリスト中心と神中心は同じ。罪を未然に防ぐには、神こそが善悪の基準であると神の主権を認め、キリストの十字架を人生の中心に据えて生きることだ。

第三に誘惑する者がいた。創世記3:1-5。蛇はサタンの化身だ。サタンのことを悪魔と呼ぶこともある。サタンは人を誘惑し、嘘をつき、罪を犯させて、破滅させようとする。サタンはなぜ人を破滅させようとするのか?サタンは神に敵対する者だ。しかし、サタンは神御自身に対抗することは絶対にできない。そこで、神が愛しておられる被造物である人間を道ずれに滅ぼすことによって、神を悲しませようとする。サタンの動機は激しい憎しみであり、それで休むことなく人間を誘惑して地獄に道ずれにする。それでは、神はなぜ誘惑をゆるされたのか?もし人間が神を愛し、神に従うことしかできなければ、人間はロボットのような存在だ。ロボットとは人格的な愛の関係を築くことはできない。神はロボットからは愛を感じない。神は人間に自由意思を与え、選択肢を与えた。神を愛し神に従うことも、サタンを愛しサタンに従うこともできるようにされた。それでこそ、神と人間は真に人格的な愛の交わりが可能だ。誘惑する者は選択肢を明確にさせるために許容された。サタンの誘惑の手口を見てみよう。まずサタンは御言葉に対する疑念を起こさせた。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」この問いかけによって御言葉に対する信頼に揺さぶりをかけた。続いて、サタンは罪を犯しても死なないといった。むしろ、罪を犯すと非常においしい思いをするという。サタンはそのように善悪を逆転させ、罪が良いもので、罪の結果は大したことはないと思わせる。「目が開ける、神のようになる」という誘惑は、現代でもサタンの常套手段であり、ドラッグによって目が開けるとか、仏教によって悟りを開いて仏になるとか、ニューエイジによって神になるということに通じる。もちろん、クリスチャンも神に似た者になることを目指すが、それは人格的な神を退けてなろうとするのではなく、神に従ってなろうとする点で全然違う。最後に、サタンはエヴァの神観を攻撃する。神が嘘つきであり、人間にとって良いものを与えようにするいじわるな方だと吹き込んだ。私たちが罪を犯すことを未然に防ぐためには、誘惑する者が存在することを認識して戦いに備えて霊的に武装することが必要。神の御言葉に親しみ、サタンの嘘を見破り、正しい神観をもって神にいつも全幅の信頼を置くことだ。

続いて罪の内容。原罪には大きく二つの罪が包含されている。人間は、神から「食べると必ず死んでしまう」と言われていたのに、食べてしまった。なぜか?もし御言葉を信じていたら食べなかっただろう。死ぬとわかっていて誰が食べるか。「食べると必ず死んでしまう」と言われていたのに食べたのは、神の御言葉を信じなかったからだ。むしろ神の御言葉ではなく、サタンの言葉を信じて従った。原罪は不信仰の罪だった。
御言葉を信じなければ、御言葉で命じられていることをすべて行おうとしなくなってしまう。信じなければ従わない。不信仰の罪はあらゆる罪の入り口なのだ。
そして、人間が実を食べたのは、神を退けて、神のようになりたいと願ったからだ。それは神に対する反逆だ。反逆は、人間に定められている被造物の地位を逸脱してよりも高みに行こうとする高慢によるものだ。原罪は高慢の罪だった。クーデターというのはどの社会でも最も厳しく罰せられる。国家転覆をもくろむ内乱罪は日本でも極刑だ。高慢は最悪の罪の部類だ。高慢は罪を悔い改めることを不可能にする。高慢な人はいつも自分が神のように正しいと確信しているので、罪を認めることができない。それで、罪を容認してくれるサタンの言葉に耳を傾けるようになってしまう。
不信仰と高慢のこの二大罪が原罪の正体だ。この二つを抱いている限り、サタンのとりこだ。この二つの罪を捨て去らなければならない。救いは逆に、へりくだって罪を認め、救い主であるイエス・キリストに対する信仰を持つときに得ることができる。御言葉を全面的に信頼しよう。謙遜になり、自分の罪を認めて救いの恵みに豊かにあずかるものとなろう。

最後に罪を犯した後の人間の間違った反応。
第一に誘惑する者になった。アダムを誘惑したのはサタンではなくエヴァだ。創世記3:6。罪びとはサタンと同じように他の人に罪を犯させようとする。ここに罪の伝染性を見ることができる。私の罪は私個人にとどまるものではない。自己責任という言葉で片づけることはできない。私が罪を犯すことによって、私の家族、私の友人知人、私とかかわるすべての人が影響を受けて苦しむ。最大で全人類が苦しむことになる。罪には波及効果があるから。罪びとが持つ霊的な汚れがほかの人に影響を与える。仮にその人が何もしなくてもその人は存在しているだけで悪影響を及ぼす。しかしたいてい何もしないどころか積極的に他人を誘惑する者となる。その人が話す言葉やとる行動のすべては罪に導かれるものなので、常に毒をまき散らすような状態となる。Ⅰコリント5:6。パン種とは罪のこと。人間の目にわずかに思える罪が全体に影響を与えてしまうのだ。私たちの行動は多くの人を巻き込むことになるということを心得なければならない。責任ある言動をとり、責任ある人生を生きなければ。悪影響を与えるのではなく、地の塩、世の光として人々に良い影響を与える者となろう。

第二に恥ずかしがった。創世記3:7。人間は罪の結果、神の栄光を受けられなくなった。自分を何かで覆わなければ、人前に立つことすらできなくなった。それである人は学歴、ある人は職業、ある人は会社での役職、ある人は肩書、ある人は資格、ある人は特技や能力、ある人は外見の美しさなどで自分を覆って見栄えを良くしようとする。それが現代版のイチジクの葉だ。もちろん実力を身に着けることは大事だ。しかし、それがないと恥ずかしくて人前に立てないのは問題だ。もし会社での地位やすばらしい能力など、強味にしていたものを失ったらどうするのか?恥ずかしくて生きていくことができないのか?そもそも、イチジクの葉を綴り合せたところで、人前ではうまくとりつくろえたとして、神の御前に何の役に立つのか?ヘブライ4:13。神の御前では、その人の学歴や肩書なんて何の価値もない。イエス・キリストを信じている人は神の栄光の輝きを回復することができる。クリスチャンにはイチジクの葉は必要ない。クリスチャンは優れた者、能力ある者である前に神の子だからだ!クリスチャンは常に神の子として神の御前にも人前に堂々としていることができる。神の子であることをいつも自分のアイデンティティの第一にしよう。

第三に神を避ける。創世記3:8。罪びとは神の御顔を避ける。罪を犯す前までは神と何の妨げもなく交わることができていたが、罪を犯してからは、神が急に自分の罪を裁く審判者であるということがわかるからだ。罪を裁かれることを恐れて神から逃げようとする。偶像崇拝も逃避行動。罪深い人間には完全な神、聖なる神、人格を持つ神は正視に耐えない。そこで、生ける神よりもはるかに低レベルな偶像を造って拝む。偶像は話せないし聞けない。偶像なら人格的な関係を持つ必要はない。自分の罪深い願望を認めてくれる。その人は結局悪魔を崇拝している。
はたして、それで神から逃げることはできるか?それは不可能だ。アダムも不可能だった。すぐに神につかまり、裁きが始まった。私たちも神から逃げることは不可能だ。逃げ回っていればいるほど、私たちにとって不利になる。やがて死んだ後、神の御前に立つときに、追及させることが多くなる。罪を犯しても、神から逃げるのはやめよう!むしろ、仲介者であるイエス・キリストの御名において祈り、神の御前に進み出て、罪を告白し、憐れみを求めよう。罪の重荷を全部主の御前におろそう。祈り。教会。

第四に罪を認めずに責任転嫁する。創世記3:12-13。アダムは神と女のせいにした。私たちが自分の罪を環境や状況のせいにするなら、それは結局のところすべての環境や状況を与えてくださっている神のせいにしている。そして、私たちはすぐ隣にいる愛すべき隣人のせいにもしようとする。罪は神との関係と隣人との関係を破壊してしまうのだ。そして、エヴァは蛇のせいにした。しかし、二人とも醜く自分の罪を認めずに責任転嫁したが、それで罪の罰を免れることができるか?むしろ逆である。もし、私たちが素直に罪を認めるならその分憐れみを受けることができるが、見苦しく責任転嫁すればするほど、裁きは過酷になる。
責任転嫁してしまうのは、罪を犯させる要因は確かに自分以外にもあるからだ。自分だけが悪者にされたくない!自分だけ全責任を負いたくない!そして、責任転嫁してしまうのは、責任があまりにも重いからだ。罪の責任は重すぎて負いきれない。だから、誰かのせいにしたい!そういう私たちには頼れる味方がいる。自分は罪を一度も犯したことがない、自分がなんであるか体験したこともないにもかかわらず、私たちの罪の責任をすべて負ってくださる方だ。それが私たちの救い主であるイエス・キリストだ!私たちの場合は罪を犯したのに自分で責任を負いたくない。イエス・キリストの場合は本当に罪がないのに、私たちの責任を負ってくださった。イエス・キリストは私たちのすべての罪の責任を背負い、十字架にかかって、罪の罰を身代わりに受けてくださった。このイエス・キリストが原罪をはじめとするすべての罪を引き受けた。キリストの十字架による救いは原罪の後すぐに予告されている。創世記3:15。お前はサタンだ。女の子孫は誰か?聖書の登場人物は皆男の子孫。唯一女の子孫はおとめから生まれたイエス・キリスト。イエス・キリストがサタンの頭を砕く。サタンに致命傷を与えて、人間を罪の奴隷から解放。イエス・キリストもかかとを砕かれる。ダメージを受ける。これは十字架。彼の打たれた傷によって私たちは癒される。やがて、イエス・キリストが再臨し、王として統治されるとき、原罪によって被ってすべての呪い、悪魔の支配、病気、罪、死、地獄、自然界への悪影響はすべて回復される。イエス・キリストは言われる。あなたの罪の責任は私がすべて背負った。あなたが厳しく罰せられることはない。だから、あなたは罪を素直に認めて悔い改めなさい。

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