神の御業の極めがたさ[コヘレトの言葉8章]

コヘレトの言葉
スポンサーリンク

私たちに光を与えてくださる賢者はイエス・キリストです。
※インターネット礼拝のメッセージだけの切り抜きです。

神の御業の極めがたさ[コヘレトの言葉8章]

神の御業の極めがたさ[コヘレトの言葉8章]

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

聖書箇所:コヘレトの言葉8:1-17

1 「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる。」賢者のように、この言葉の解釈ができるのは誰か。
2 それは、わたしだ。すなわち、王の言葉を守れ、神に対する誓いと同様に。
3 気短に王の前を立ち去ろうとするな。不快なことに固執するな。王は望むままにふるまうのだから。
4 王の言った言葉が支配する。だれも彼に指図することはできない。
5 命令に従っていれば、不快な目に遭うことはない。賢者はふさわしい時ということを心得ている。
6 何事にもふさわしい時があるものだ。人間には災難のふりかかることが多いが、
7 何事が起こるかを知ることはできない。どのように起こるかも、誰が教えてくれようか。
8 人は霊を支配できない。霊を押しとどめることはできない。死の日を支配することもできない。戦争を免れる者もない。悪は悪を行う者を逃れさせはしない。
9 わたしはこのようなことを見極め、太陽の下に起こるすべてのことを、熱心に考えた。今は、人間が人間を支配して苦しみをもたらすような時だ。
10 だから、わたしは悪人が葬儀をしてもらうのも、聖なる場所に出入りするのも、また、正しいことをした人が町で忘れ去られているのも見る。これまた、空しい。
11 悪事に対する条令が速やかに実施されないので/人は大胆に悪事をはたらく。
12 罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が/なお、長生きしている。にもかかわらず、わたしには分かっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり
13 悪人は神を畏れないから、長生きできず/影のようなもので、決して幸福にはなれない。
14 この地上には空しいことが起こる。善人でありながら/悪人の業の報いを受ける者があり/悪人でありながら/善人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいと、わたしは言う。
15 それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって/飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の/日々の労苦に添えられたものなのだ。
16 わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに努め、
17 神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない。

【ノート】
7章の最後でコヘレトは人間が屁理屈ばかりこねることを見出した。コヘレトは屁理屈にはだまされない。屁理屈では満足できない。そこで、コヘレトの探究は続く。私たちも決して世の屁理屈にだまされないようにしよう。
1節は賢者の所在。この訳はあまり優秀ではなく、実際には「だれが賢者のように物事を解釈できるだろうか」という問いかけ。2節のはじめで「それは、わたしだ」とコヘレトが自分を賢者のように思っているかのように書いているが、この訳もよくない。なぜならコヘレトは7:23で自分が賢者とは程遠いと認めたばかりだからだ。コヘレトは繰り返し誰が「教えてくれよう」といい、自分の無知を認めている。新改訳では、2節のはじめを「私は言う」となっているがこちらが適切。人間は皆屁理屈ばかりをこねて物事を正しく解釈できない。大多数の人々はそうだが、一握りの賢者と言われる人はどうか?そこで、コヘレトは解釈できる賢者を探すけれども、物事を解釈できる賢者を見出すことができない。世の中で賢者と言われる人たちが誰も悟っていないのだということを8章の最後の17節でも触れている。「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる」というのは当時よく使われていた格言だろう。そういう格言はあるものの、実際に物事を解釈できる賢者は誰もいないではないか。だから、これは空しい格言だという痛烈な皮肉。学校の勉強で、難しい問題がなかなか解けなくて、悩んだことは何度もあるのではないだろうか?勉強でも私たちは悩み、顔を曇らせることがある。それでも、勉強には普通正解が用意されているので、正解を見れば一応解決する。ところが、人生の重要な問題については答えが出ない。しかも、正解を教えてくれる賢者が誰もいない。そのことは人間を深刻に悩まし、顔を曇らせる。

コヘレトの探していた賢者を私たちは知っている。物事を正しく解釈できるのは、偉大なコヘレトであるイエス・キリストだ。イエス・キリストは神御自身なので、御自分が造った世界を正しく解釈できる。イエス・キリストは神御自身なので、神の御業をすべて極めることができる。イエス・キリストは神の国についての教えによって、太陽の下のことだけに限られたコヘレトの言葉で疑問とされていることに答えてくださっている。私たちはイエス・キリストの教えによって光を得る。人の知恵は顔に光をもたらさない。臨在の幕屋の中で神と語り合ったあと、モーセの顔が輝いたように、神の知恵であるイエス・キリストこそが私たちの顔に光を与え、固い顔を和らげる。

2-9節は専制君主に対する無力さ。2節。王に従うことは、神に対する誓いと関連づけられている。王の家臣になるときには忠誠を誓う。忠誠の誓いは、どの国にもたいてい存在する。国や王に仕える役職に任命されるときには、忠誠の誓いをすることが定まっており、誓いの言葉を宣言しなければならない。コヘレトは5章で神に願をかけたら果たさなければ、身を滅ぼすことになると警告している。それをいま王についてもあてはめている。王への忠誠を守らなければ滅びると。神と人間の王には似た性質があるということだ。神は王の王だ。神の国は民主主義ではなく王政だ。神だけが絶対的な力を持つ。だから、人間の王の性質を観察することによって、神の性質も知ることができる。
3-5節は王の性格。王は専制君主であって、望むままにふるまう。王が悪いものだと決めた者は誰であってもただちに滅ぼすことができる。王の言葉自体が法律であって、力があるからだ。誰も王に対して責任を追及することができない。王の前では、家臣たちは無力なのだ。そこで、コヘレトは災いを避けるために、忠告する。3節、王の前では、気短に立ち去ろうとしてはならない。たとえば裁判のときに気短に立ち去ろうとするなら、王から嫌疑をかけられるかもしれない。「待て。何か後ろめたいことでもあるのではないか?」「不快なことに固執してはならない」とあるのは、別訳で「悪事に加担してはならない」だ。まずい態度をとらないだけでなく、実際に悪いことをしないようにするということ。積極的な忠告としては、5節、「命令に従っていること」だ。
そうすれば王による災いを避けることができる。賢者は王に対するときに、どうふるまうべきか、ふさわしい時を心得ているので、災いに遭うことはない。
このように、王は恐ろしい存在であって、王の前では人間は無力だ。王は、細心の注意を払って接しなければならない相手だ。神についても同じことが言える。罪人にとって、神は恐ろしいお方だ。神の御言葉は法として絶対的な権限を持つ。神は逆らう者を永遠の火の地獄に投げ込む。イエス様は「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われた。
コヘレトによると、賢者であれば、王に適切に対処することができるという。しかし、王の王である神に対しては賢者もなすすべがない。賢者は神からの不幸についてはどうすることもできないことを知っている。6-7節。王が望むままにふるまうことについては、賢者ならある程度予測できるが、神による不幸は予測不可能だ。その予測不可能でどうすることもできない不幸の事例をコヘレトは4つ挙げる。
8節。人間は霊を体にとどめて死なないようにすることはできない。だから、死ぬ日も支配することができない。王から徴兵されたら戦争を免れることはできない。そして、戦争では戦死はつきものであって、それを逃れることもできない。また、神に逆らって悪を行うことによって、神によって与えられる死の裁きから救われることもありえない。神に対するクーデターの成功率はゼロだ。

9節は結論。専制君主による支配によって、人々は苦しむ。人々は専制君主に対して完全に無力であり、黙って従うことしかできない。しかし、コヘレトはそれに対して抗議をしない。むしろ、より力ある専制君主である神が、もっと予測不可能な支配をしているのだから、人間にこの構造を変えることはできない。コヘレトは専制君主による苦しみを是認していた。コヘレトはソロモン。ソロモンは専制君主としてイスラエルを支配していたが、ソロモンは神も専制君主だとみなしていた。ソロモンの神観がソロモンの王としての統治に影響していた。神が専制君主として統治するのだから、私も専制君主として望むままに統治しようということ。私たちも霊的には王として、たてられている。神は王の王だが、王は私たちを指している。黙示録1:6。ダビデは王になるはるか前にサムエルから王として油注ぎを受けた。私たちも今はまだ王のように見えなくても、御国においては王として立てられている。私たちの神観によって、私たちの統治の内容は決まる。確かに神は専制君主であり、イエス・キリストが言われたように、地獄で罪人を滅ぼす権威を持つ方として恐れなければならない。しかし、私たちにはイエス・キリストを通して、神のもう一方の面を見ることができる。神は罪人をも愛して、イエス・キリストの十字架を通して罪を赦し、永遠の命を与えてくださるお方だ。人間にはどうすることもできない死からも、神はイエス・キリストにあって救い出してくださる。神の御心は人を苦しめることではなく、苦しみから救うことだ。私たちはこのようなお方として神を知っている。だから、私たちは気ままな専制君主ではなく、神の愛による支配を広げる王としてふるまわなければならない。マタイ20:25-28。これが私たちの支配の方法だ。こうすれば、人間が人間を支配して苦しみをもたらす構造に一石を投じることができる。

10-15節は正義の欠如について。10節。悪人が葬儀をしてもらえる。コヘレトは死後について何の知識もないので、人生の総決算は葬儀ということになる。葬儀のときに、多くの人が参列して、悪人を偲び、悪人のために涙を流すのだ。そして、悪人が聖所に出入りすることができる。本来は聖所から出入り禁止されなければならない人、神に打たれてもおかしくない人が、聖所を自由に出入りできる。逆に、正しいことをした人が聖所から出入り禁止となり、町でも迫害されて忘れ去られ、葬儀もしてもらえない。人々から忘れられてしまうということは、特別な不幸だ。応報の教理というものがある。善い行いをした人は祝福され、悪いことをする人には厳しい罰が下る。神の支配による秩序の維持は、旧約聖書全体に示されている教えだ。
ところが、現実はそうなっていない。コヘレトに言わせれば、応報の教理は幻想に過ぎない!11-12節の前半でコヘレトは二つの事例をあげて、論を深める。なぜ人間は大胆に悪事を働くのか?それは応報の教理に従って悪を罰するための条令がすみやかに施行されないからだ。人間は応報の教理が行われない現実を見て、「悪人が罰せられるというのは、こけおどしに過ぎない。罪を犯しても大丈夫だ」と高をくくっている。法律の抜け穴を利用して悪事を行う者は、今も昔もたくさんいるのだ。しかし、法律に不備があるという一つの事象を、応報の教理を否定するものとまで一般化してよいものか?そこでコヘレトは、今度は罪を数多く犯している人が、長生きしているということを指摘する。これについては、一度だけ観察できる例外的事象ではなく、数えきれないほど発生する事象だ。
12節の後半から13節の内容はコヘレト自身の考えではない。「一般論としてはこういうことが言われていることについては、私ももちろん知っている」ということ。コヘレトはあえて自分の立場とは反対の応報の教理を擁護する一般論を真ん中に置いて、両側に応報の教理を否定する論を置いて挟み撃ちにすることで、よく説かれる一般論がいかに薄っぺらいもので実情に合わないものかを浮き彫りにしている。
14節。この説の4行は巧みな構成になっている。最初と最後の行で空しいと断じていて、その間の二行がいかに空しいのかを強調している。真ん中の二行は善人と悪人が交差するように配置されている。この巧みな詩的構成によって反対論を骨抜きにしてしまう。
15節が正義の欠如についての結論。神を知らない人々が太陽の下で経験しうる唯一の楽しみは、快楽。飲み食いして楽しむ以上の幸福はない。人生=飲み食い。その楽しみを与えるのは神だ。コヘレトにとって、神は予測不可能な運命をもたらすお方だ。神が楽しみを与えるなら、それはいつ取り去られるかもしれないもの、何の保証もされていない不安定なものであり、飲み食いして楽しむという結論には常に漠然とした不安がつきまとう。

コヘレトの主張は、無神論者が有神論者を攻撃する材料としてよくあげることだ。無神論者は、コヘレトのように、神が正しいものを救ってくれなかったように見える事例や神が悪を放置しておられるように見える事例をあげる。そして、「神がいるならこんなことが起こるはずがない!」と結論づける。私は伝道するときにそんな神に対する典型的反論、古典的反論を何度も聞いた。あなたも伝道するときそういう反論を聞いたことがあるかもしれないし、聞くことがあるかもしれない。私たちはコヘレトや無神論者に反論できなければならない。コヘレトの限られた知識による間違いを指摘できなければならない。
コヘレトは悪人が人々から覚えられ、聖所に迎え入れられ、正しい人が忘れ去られるという。この世での宗教施設に信仰のない人々が我が物顔で出入りするということは確かに起こる。しかし、神殿やシナゴーグや教会に出入りできるから神に受け入れられているとは限らない。神殿を守っていた祭司長たちは神に敵対する立場の人々だった。信仰のない悪人たちは人間の手で造った聖所に入ることができたとしても、決して、真の聖所には入ることができない。それはイエス・キリストの血によってのみ入ることが可能だ。ヘブライ9:24、10:19。イエス・キリストはサマリヤ人の女に礼拝する場所はどこか聞かれたときに、サマリヤ人が聖地としていたゲリジム山でもエルサレムでもない場所で父を礼拝する時が来ると言われた。私たちがささげる神に受け入れられる礼拝は霊と真理による礼拝だ。霊と真理による礼拝でなければ、そこが神殿や教会であったとしても神に受け入れられることは不可能だ。そして、世の人々が忘れ去ったとして、正しい行いの人、神に従う信仰者のことを覚えていてくださる。ヘブライ6:10。葬儀を盛大に行ってもらったとしても、いずれは時間の経過と共に人々から忘れられてしまう。しかし、神に覚えられている人は永遠に忘れ去られることはない。

コヘレトは悪事に対する処罰がすみやかに行われず、悪人が生きながらえているので、応報の教理は機能していないという。確かに、神はすみやかに裁きを行われないことが多い。神はなるべく裁きを先延ばしにし、ぎりぎりのところまで、遅らせられる。なぜなら、神は憐れみ深く忍耐強いお方だからだ。神の御心は悪人を裁くことではなく、悪人が悔い改めて救われることだ。Ⅱペトロ3:9。ペトロがイエス・キリストの再臨について語ると、信仰のない人々の中にはあざける人がいた。「何年もイエス・キリストが再臨して世界を裁くと言っているけど、一向に来ないではないか?世の中のことは天地創造の初めから、何一つ変わらないではないか?」世界が何も変わらないというのは、コヘレトに通じる。そこで、ペトロはイエス・キリストがまだ再臨しない理由について説明する。「それはあなたたちが悔い改めるのを待っているからだ!」すみやかに罰せられないのは、悔い改める機会を与えるためだ。それを勘違いして、応報の教理は幻想だとして悪事を行うことは大きな間違いだ。

コヘレトは善人が悪人の報いを受け、悪人が善人の報いを受けることがあるという。しかし、それで応報の教理が機能していないことにはならない。不当な仕打ちを受けることは良いことだ。Ⅰペトロ2:19-20。イエス様の御名のために苦しむことは良いことだ。マタイ19:29。地上での人生よりも死後の人生の方がはるかに長い。地上でどうだったかよりも、死後どのような報いがあるかの方がずっと大事なのだ。新約聖書全体はそのことを私たちに教えている。神は最終的にすべての状況を鑑みて、各々に公平な裁きを下してくださる。神によって正義がなされる。

16-17節は見極めがたい神の御業について。コヘレトはここで再び自分に課した課題を語る。16節。コヘレトは知恵を深めて、心を尽くして、この地上に起こることを見極めようと必死に努力した。コヘレトは昼も夜も眠らずに努力した。昼も夜も眠らずに努力したという。夜眠らないというのならわかる。眠れないのが問題になるのは夜だからだ。しかし、昼も眠らないとなると、コヘレトは全く眠らずに、休息をとらずに探究を続けたということがわかる。全然眠らなかったら疲れ切ってしまい、頭がおかしくなってしまう。コヘレトはそれでも探究をやめることができなかった。自分が拠り所とできるものが何も得られないままでは、不安で眠ることもできなかったのだ。しかし、コヘレトは自分の努力が無駄な努力であることを知っている。どれだけ努力しても悟ることはできないことを告白している。そこには神の御業があるからだ。17節。神の御業の神秘が、地上で起こることを見極めることを不可能にしている。コヘレトはすべてのことを悟ることは、世的な知恵によっては決して悟ることができないと認めた。どれだけ熱心に追求したとしても、人間の無能力さを打破することはできない。賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟っていない。もし、世の中の哲学者の中で「私は悟った」という人がいれば全部嘘つきだとコヘレトは断言している。噓つきが書いた哲学書を読んだことがあるか?それが嘘であれば偽り者の父である悪魔が書いたのと同じだ。コヘレトはソクラテスが生まれる500年も前に無知の知についてここで書いているのだ。自分が無知であることを知っているという点で、コヘレトはほかの偽者の賢者よりは優れていた。

コヘレトは人間の知恵による成果物をすべて破壊してしまった。破壊した後に残るのは、巨大な真空だ。それはコヘレト自身も耐え難い真空なので、なんとか満たそうと無駄な努力とわかりつつも不眠不休の探究をやめることができなかった。コヘレトは求めていたものをつかめなかったが、コヘレトの努力は、私たちに人間の知恵の空しさを教え、神からの天的な知恵や神からの啓示を求めさせるという点で無駄ではなかった。人間の哲学によってはどれだけ努力しても神を知ることはできないが、神が御自身を啓示してくださることによって神を知る。そして、イエス・キリストを通して神を知るなら、真空は満たされ、私たちの魂に安らぎを得ることができる。マタイ11:27-28。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋では教会と聖書勉強会の集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/t
i/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました