罪を徹底的に悔い改める

悔い改め
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祝福のメッセージです!\(^o^)/

罪を徹底的に悔い改める

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【ノート】
今回のメッセージは非常に不愉快なものだ。誤解のないように言うが、あなたを攻撃したいからするのではなく、あなたが祝福を豊かに受けるためにする。ほかのすべてのメッセージもそう!
クリスチャンは、最低限、イエス・キリストを信じて受け入れるときに、一度、悔い改める。それまでの自己中心の生き方を罪であると自覚し、イエス・キリストを信じて生き方を方向転換する。自己中心の道からキリスト中心の道に切り替えるのだ。罪の自覚とキリストへの方向転換、悔い改めには最低限この二つの要素が含まれるのだ。ルカ9:23。すべてのクリスチャンは悔い改めを経験して、クリスチャンになった。すべてのクリスチャンは、最低一度は自分の生き方全体を否定しているのだ。自分の生き方の全否定!多くの人は怖くてそれができない。自分が否定されるのが怖い!神に変えられるのが怖い!それで、悔い改められない人は「神を信じるというのは弱い人間がわらをもすがる思いですることだ」とうそぶく。

実際には、悔い改めというのは、恥ずかしいことではない。弱い人のすることではない。むしろ、自分の間違いを認めることのできる人、キリストにあって強い人に違いない。
それでは、悔い改めは一回だけでいいのか?一回の悔い改めで完全な人になることができれば一回でよい。でも、そんなことはまずない。罪を完全になくしてしまうまで何回でもしなければならない。 ヨハネの黙示録では、イエス・キリストは七つの教会に対してメッセージをされている。良い教会に対しては励ましを与え、悪い教会に対しては悔い改めを命じられた。教会に対して悔い改めを命じたということは、クリスチャンが悔い改めなければならないということ。

しかし、多くの教会、多くのクリスチャンがイエス・キリストから悔い改めを要求されているにもかかわらず、応じようとしていない。見せかけの悔い改めをする人なら大勢いる。マタイ3:7-8。イエス・キリストの道備えをしたバプテスマのヨハネは、悔い改めのしるしとして人々に水のバプテスマを授けていた。ファリサイ派やサドカイ派の人々が水のバプテスマを受けにきたのに、「蝮の子らよ!」としかりつけた。蝮の子らというのは悪魔の子という意味だ!バプテスマのヨハネは彼らの悔い改めが見せかけのものであって、彼らが実際には全然救われていない悪魔の子だと言っているのだ。彼らは全然悔い改めず、「とりあえず水のバプテスマさえ受ければ天国に行けるならこんなおいしい話はない」という思いでヨハネのもとに行ったのだった。いまでも水のバプテスマを受けようとする人の中に蝮の子らがいるかもしれない。そんなことはあってはならない! 真の悔い改めは悔い改めにふさわしい実を結ぶもの。つまり、生活が変わり、言動が変わっていくものだ。そこまでできて、初めて悔い改めとしてカウントすることができる。

悔い改めるふりをする人はたくさんいる。あるクリスチャンは悔い改めが必要だということを知っているので罪を告白する。しかも、御言葉に基づいて罪を告白する。Ⅰヨハネ1:9。罪を告白すれば清くなると確かに約束されている。それは正しいことだ。しかし、彼の動機は間違っていた。彼は罪を告白すると罪意識から解放されるのを知っているので、重苦しさから解放されるためにだけ罪を告白する。そして、心の奥底では、「やった!これで罪を告白するという義務を果たしたぞ!また罪を犯そう!」と思っているのだ。彼は「主よ、私の罪をゆるしてください。ゆるしてください」と祈る。その言葉を額面通りに受け取るとさも罪を悲しんでいるかのように見える。しかし、実際には「私が罪を犯すのをゆるしてください。私が罪を犯すのをゆるしてください」という意味で祈っているのだ。こんなものは悔い改めではない!清くなることを求めていない!相変わらず罪にとどまり、キリストに従おうとしていない!

これは大昔からある人間の勘違いだ。箴言には姦淫の罪を犯す女性が出てくる。その人が何といっているか?箴言7:14。神への献げ物をした!宗教的義務を果たした!だから、姦淫の罪を犯しても大丈夫だといっている!神を喜ばせたからこれでちょっと罪を犯しても怒られないという発想だ。人間の罪深い心理には良いことをしたら帳尻合わせのように悪いことをしてもいいという思いがある。これはあらゆる宗教的義務の履行について言える。
もしかしたら私たちもこの姦淫の女のように宗教を利用して罪を犯しているかもしれない。私は教会に行っている!私は献金をささげている!私は聖書を読んでいる!それらはすばらしいことだ!ぜひとも続けることをおすすめする。しかし、どれだけ宗教的義務を果たしたとしても「だから少しくらい罪を犯しても大丈夫だ」ということにならない!神はそんな汚れた宗教的行為は一切認めない、受け取らない、お喜びにならない。その人たちは一度も悔い改めをしてはいないのだ。イエス・キリストを信じて罪がゆるされているということも、罪を犯していい理由には全然ならない。イエス・キリストは姦淫の現場で捕らえられた女性を罪に定めなかった。しかし、一言いわれた。ヨハネ8:11。聖書中どこにも神が罪を犯していいと言われることはない。逆に、罪がどれほど深刻なものかということは山ほど書いてある。

結局のところ、多くの人が罪を犯すことの深刻さがわかっていないのだ。申命記29:18。なぜ大丈夫だと思うのか?もしあなたが思いや言葉や行動において罪を犯した瞬間に警察がその現場に踏み込んできてあなたの手に手錠をかけ、あなたが拘置所に連れていかれ、警察からあらゆる罪についての尋問を受け、裁判所でもすべての罪が読み上げられ、有罪判決が下るなら、あなたは大丈夫だとは思わないだろう。
しかし、見た感じ、罪を犯しても何も変化がないように見える。占いや偶像崇拝の罪を犯したり、人の悪口や陰口を言ったり、嘘をついたり、思い上がったり、姦淫の罪を犯したりして、悔い改めのメッセージを全部聞き流して神に喜ばれないあらゆる悪いことをしても、別になんてことないように見える。でもそれは世の中の犯罪者についても同じだ。犯罪者の背後では警察が着々と捜査を続けていて、ある日突然逮捕に至る。それでは、私たちが罪を犯す背後でどんなことが進行しているのかを考えてみよう。

罪の影響の第一は、神との交わりによる喜びと平和の喪失。これは罪を犯す直後に現れる影響だ。ダビデ王はあるとき自分の部下の奥さんと姦淫の罪を犯したあげく、その部下を戦場の最前線に送って殺してしまうという罪を犯した。そのときのダビデの状態が詩編に書いてある。詩編51:12-14。ここでダビデは聖霊様による神様の臨在を失った。その結果、神様との交わりによる喜びと平和を喪失してしまった。神様との交わりは使徒パウロがほかのすべてのものを損失とみなすほどすばらしいと断言したものだ。神様との交わりは最も価値のあるもの。私たちが罪を犯しても悔い改めないなら、最も高価な代償を払うことになる。悔い改めないなら心に喜びも平安もない!しかし、悔い改めるなら、私たちは回復することができる。この詩編にある祈りに神は答えてくださる。

罪の影響の第二は、祈りが聞かれない。もし私たちが罪を悔い改めていないのに、祈りが答えられたら、私たちは錯覚してしまう。「そら見ろ!私はこのように祈りが答えられるのだから、罪を悔い改めなくても神に喜ばれている!」神はそういう間違ったメッセージを与えないために、頑なに罪を悔い改めようとしない者の祈りは聞かれない!詩編66:18。逆に、神の御心を行う人の祈りは聞かれる。Ⅰヨハネ3:22。何でもこたえられる!もし、「祈っても全然答えられない」と思っている人がいれば、それは神に祈りに答える力がないからではなく、その人は「自分に悔い改めていない罪があるからではないか」と御言葉に照らして自己点検してみる必要があるだろう。
罪の影響の第三は、天が赤銅になる。申命記28:23。赤銅というのは、青銅や真鍮と訳されることもある言葉が使われているが、どちらにせよそれは合金であり、かたーい金属だ。その人の上で、天がかたーい金属のように閉じてしまっているのだ。その人はどこにいっても一切の恵み、一切の祝福を受けることができない。これが罪を悔い改めない者が陥る状態だ。神の御心だけを行われたイエス様が水のバプテスマを受けられたとき、これと逆のことが起こった。マタイ3:16。イエス様の上には常に開かれた天があった。聖霊様が共におられた。私たちは罪を悔い改めて、イエス様のように開かれた天の下で生きるものとなろう。

罪の影響の第四は、神からの懲らしめを受ける。懲らしめは愛の鞭だ。黙示録3:19。別訳では鍛えたりが懲らしめたりになっている。イエス様はなかなか罪を悔い改めようとしないクリスチャンをも愛しておられる。だから、その人がなんとか悔い改めるように、叱ったり、懲らしめたりする。次々と困難に陥るようにして、その人の目を覚まさせようとするのだ。叱られたり、懲らしめられたりすると悲しい。その悲しみが私たちに悔い改めをもたらす。Ⅱコリント7:10。罪による懲らしめは神からの愛のメッセージだ。私たちはそのメッセージをしかと受け取って悔い改めなければならない。

罪の影響の第五は、滅びる。罪を際限なく犯し、少しも悔い改めようとしない。罪と戦おうとしない。むしろ罪を愛してキリストと関係ないかのように生きる人はどうなるのだろうか?ルカ13:3。悔い改めなければ滅びる。これは神学的な問題ではない。もちろん、イエス・キリストの十字架の贖いは完全にして永遠だ。しかし、もしあるクリスチャンと呼ばれる人が、サタンの言葉に耳を傾け、サタンの言いなりに罪を犯し続け、サタンを愛しにサタンに従って歩み、キリストを無視して生きているとする。その人はキリストに結ばれている人だろうか?いいえ。その人はキリストと何の関係もない。その人はサタンに従って地獄まで行くことになる。悔い改めなければ滅びる。

しかし、ある人は言うかもしれない。「私は罪の影響を知らないわけではない。真剣に罪を告白して悔い改めようとしているが、なかなか変わらないのだ。なかなか罪を断ち切ることができない。」そういう人は心配しなくていい。神は憐れみ深いお方だ。私たちを悔い改めに導くのは、神の憐れみなのだ。ローマ2:4。神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじず、罪と戦い続ける人はキリストにある人。その調子で励み続ければ最終的には勝利することができる。再び罪を悔い改めて、再び罪に戦争を宣言しよう。主イエス・キリストに対する信仰によって戦い続けよう。必ず勝利することができる。しかし、その人が「いや、でもこれだけあらゆる努力を尽くしても罪を犯すのをやめられないのだから、罪をやめることは不可能に違いない。」言うかもしれない。すみません、あなたは神よりも自分を信頼しているようだが、私はあなたよりも神を信頼する。神はできると言われている。ヘブライ12:4。罪に負け続けているうちは、まだ罪に対して十分に抵抗していないと。血を流すくらい罪との対決で犠牲を払っていないと。誘惑になるものを根こそぎになくせばいいのに、それを放置してしまっている。神の御言葉は絶対に、「もう十分がんばった。精一杯やったね。だから、もう悔い改めなくていいよ」とは言わない。厳しいね。でも認めよう!自分の経験や感情や肉の弱さではなく、神を信頼しよう。イエス・キリストは悔い改めなさいと言われる。実際的な生活の変化が起こることを前提で悔い改めなさいと言われる。変化は起こる!私たちは変えられる!たいてい神の力によって劇的に変えられるが、ゆっくり変えられることもある!とにかく変えられる!イエス・キリストは不可能なことを命じるような理不尽な方ではない。ということは、私たちはふさわしい実を結ぶ悔い改めをすることができる。私たちの内にはイエス・キリストの霊である聖霊様がおられる。イエス・キリストの復活の力が私たちの内にはある。私たちは罪に打ち勝つことができる。徹底的に悔い改めて、罪に完全勝利しよう!聖霊様による喜びと平和で満たされて生きる者となろう。何でも祈りを聞いていただける者となろう。開かれた天の下で生きる者となろう。いま、決断しよう。

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