宗教の空しさと富の空しさ[コヘレトの言葉4:17-5:19]

コヘレトの言葉
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聖なる神と罪人との間には越えることのできない断絶があります。

宗教の空しさと富の空しさ[コヘレトの言葉4:17-5:19]

宗教の空しさと富の空しさ[コヘレトの言葉4:17-5:19]

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聖書箇所:コヘレトの言葉4:17-5:19

4:17 神殿に通う足を慎むがよい。悪いことをしても自覚しないような愚か者は/供え物をするよりも、聞き従う方がよい。
5:1 焦って口を開き、心せいて/神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。
2 夢を見るのは悩みごとが多いから。愚者の声と知れるのは口数が多いから。
3 神に願をかけたら/誓いを果たすのを遅らせてはならない。愚か者は神に喜ばれない。願をかけたら、誓いを果たせ。
4 願をかけておきながら誓いを果たさないなら/願をかけないほうがよい。
5 口が身を滅ぼすことにならないように。使者に「あれは間違いでした」などと言うな。神はその声を聞いて怒り/あなたの手の業を滅ぼされるであろう。
6 夢や空想が多いと饒舌になる。神を畏れ敬え。
7 貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。なぜなら/身分の高い者が、身分の高い者をかばい/更に身分の高い者が両者をかばうのだから。
8 何にもまして国にとって益となるのは/王が耕地を大切にすること。
9 銀を愛する者は銀に飽くことなく/富を愛する者は収益に満足しない。これまた空しいことだ。
10 財産が増せば、それを食らう者も増す。持ち主は眺めているばかりで、何の得もない。
11 働く者の眠りは快い/満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。
12 太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている。
13 下手に使ってその富を失い/息子が生まれても、彼の手には何もない。
14 人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。
15 これまた、大いに不幸なことだ。来た時と同じように、行かざるをえない。風を追って労苦して、何になろうか。
16 その一生の間、食べることさえ闇の中。悩み、患い、怒りは尽きない。
17 見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。
18 神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。
19 彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。

【ノート】
4章でコヘレトは虐げを目撃し、競争心を燃やした必死な労働を目撃し、孤独な人を目撃し、政治革命を目撃した。それらはいずれも空しいもの。無価値なもの。希望がないものだった。しかし、空しくないものが一つ見つかった。それは二人で歩む人生。仲間や配偶者と共に働き、共に生きていくことはすばらしいことだ。もし、それが人生の幸福のすべてなら、コヘレトは4章で筆を置いただろう。しかし、二人で歩む人生にも欠けているものがある。太陽の下では、この悪魔の支配下にある世では、その二人の関係も永続することを期待できない。罪が二人の間を引き裂いてしまうかもしれない。私たちにはもう一種類の関係が必要だ。それは、神との関係である。私たちは隣人と共に歩むと同時に神と共に歩まなければならない。それは十字架でいうところの縦棒と横棒。横棒が隣人との愛の関係。縦棒が神との愛の関係だ。そして、罪からの救いは神との関係に見出すことができる。

そこで、コヘレトは礼拝について論じる。ところが、コヘレトはほかの事象については、「わたしは見た」ということができたのに、礼拝については机上の空論で終わってしまう。いままでのコヘレトのやり方であれば、実際に神殿に足を運んで、神を礼拝するべきだろう。そして、あらゆる方法で神に近づこうとし、その結果がどうだったかを伝えるべきだろう。もし、コヘレトがそれをしたなら、コヘレトの言葉は書かれなかったに違いない。コヘレトは真の幸福をそこに見出し、人生の空しさを払拭できたに違いないのだ。「わたしはついに神の栄光を見た。これこそわたしが求めていたものだ」と告白したことだろう。

コヘレトは神殿に行こうとしなかった。4:17節。コヘレトはソロモンだ。ソロモンは偶像崇拝の罪を犯し、神から離れてしまった。ソロモンは悪いことをした自覚があった。自分のような者が神殿に行ったら、神に打たれるかもしれないと考え、神殿に行くことができなかった。これは罪びとの典型的な反応だ。アダムが神の御顔を避けて園の木の間に隠れたように、ソロモンは神殿に行くのを避けた。かつてソロモンは神殿で神の栄光を見たが、久しく見ることも体験することもなく、もう遠い記憶のかなたに失われていた。
新共同訳では「神に近づく」ということが訳されていないが、ここでは神の近づく方法が比較されている。神に近づくというのは、礼拝を意味する。私たちは礼拝をささげるとき、神の御前に進み出るのだ。愚か者は悪を行った自覚もなしに神への供え物をもって神に近づこうとする。それよりも優れているのは、神に近寄って神に聞き従うことだ。神に聞き従うことは供え物をささげるよりも優れている。神に聞き従わない者は神を礼拝してはならない。厳しい警告だ。しかし、真実な警告ではある。もし牧師が「神に従順しない人は礼拝禁止」ということにしたら多くの人が教会から追い出されてしまうだろう。いや、牧師を含めてすべての人が教会から出ていかなければならないかもしれない。

さらにコヘレトは、祈ることについても警告する。5:1節。「神の前に言葉を出そうとする」というのは祈りのこと。コヘレトいわく、祈りは言葉数を少なくしなければならない。なぜなら、「神は天にいまし、あなたは地上にいる」からだ。神は遠く離れたところにおられる。神と人間との間には、距離がある。両者の間には超えることのできない断絶があって、その断絶を超えて交わりを持つことはできない。神はあまりにも偉大な方であって、とるに足りない人間の祈りに耳を傾けることはない。それであれば、神に聞き従わない罪びとならなおさらのこと、どれだけ手を広げて祈ったとしても、その祈りは無意味なのだ。罪によって神から断絶していたソロモンは、痛いほど神との隔たりを感じていた。2節ではコヘレトは格言によって持論を裏付けている。忙しいと夢を見るように、愚か者は祈りの言葉が多くなる。ここで夢が否定的なものとされている。神が預言者に与える啓示としての夢であれば、それは価値あるものだ。しかし、神を知らない者が見るこの世的な夢というのは何の価値もない。ただの妄想だ。そのくらい神から離れた人が長く祈ることは意味がない。

最後にコヘレトは、3-4節で、誓いについても警告する。誓いというのは、神に対しての約束だ。それは神に喜ばれるためにする。特に、神に何かを願い求める上で、「このことをしますので、この願いを叶えてください」と誓うことがある。預言者サムエルの母親であるハンナがそうした。サムエル上1:11。この祈りは見事に答えられた。そして、ハンナは誓った通りにサムエルを主にささげた。こういう成功例を見ると誓いというのは非常に効果があるように思われる。しかし、コヘレトは警告する。誓ったことは絶対に果たさなければならない。もし誓いを果たすことを遅らせるなら、神に喜ばれるどころか、逆効果だ!誓い果たさないなら、最初から誓わない方がよい。沈黙の方がよい。詩編や箴言でも同様の警告がなされている。誓うときというのは果たす自信があるからするのだ。しかし、実際には誓い通りにするのは結構難しい。それだけ人間は意思が弱くて不誠実なのだ。ろくに約束を守ることができない。私たちは守れない誓いはせず、誓ったら果たさなければならない。あなたは神に対してした約束や決意を果たしているか?もし約束しておきながら先送りにしていることがあるなら、罪を悔い改めて約束を果たすことをおすすめする。

祈りや誓いの言葉で過ちを犯したらどうなってしまうのか?5節。礼拝における使者というのは祭司のことだ。祭司に対して「あれは間違いでした」と間違いを認めなければならない。彼は恥をかくことになる。それだけでなく、彼がそういう事態から抜け出すためには、律法の規定では従って賠償の献げ物をささげる必要がある。たいへんな出費まで発生してしまうのだ。それですめばまだ良いが、神は言葉で過ちを犯した人に対して怒り、災いをこうむるかもしれない。いや、これは旧約聖書の話であって、いまの私たちとは何の関係もないのではないか、と思われるだろうか?アナニアとサッピラが神を偽ることによって打たれて死んだのは新約聖書の話だ。私たちは気をつけなければならない。

6節。コヘレトは、口は災いのもとだという。沈黙した方が良いと。そして、神を畏れ敬えというが、コヘレトのいう神は遠く離れたところにおられ、祈りは無意味、口で過ちを犯すものなら災いをもたらす神。そのような神だったら、「触らぬ神に祟りなし」だ。礼拝も祈りも誓いも、ほどほどにした方が良い、いや、むしろ避けた方が良いということになる。コヘレトが言っていることは間違っていない。聖なる神と罪ある人間との間には遠大な距離がある。その距離が埋められなき限り、神に近づこうとするすべての努力は空しいし、非常に危険なものとなる。宗教というのはすべて神に近づく人間の努力だ。すべての宗教は空しいし、私たちに害を与えるものとなりかねない。

ところが、救いは、神が人間に近づくための最大限の努力によって成し遂げられた。神は仲介者イエス・キリストを与えてくださり、神と人との間の罪による隔たりを取り除いてくださった。このイエス・キリストの御名によって、私たちは大胆に神に近づくことができる。霊と真理をもって礼拝をささげ、神と交わることができる。イエス・キリストの御名によって絶えず祈ることができる。むしろ絶えず祈りなさいと命じられている。そして、イエス・キリストの御名によって祈るなら、その祈りは空しくない。神は聞いてくださる。ヨハネ16:23-24。イエス・キリストにあって初めて、神を畏れ敬いつつ、礼拝と祈りをすることが喜びとなり、真の幸福となる。私たちはコヘレトが見ることのできなかった神の栄光を目撃することができる。

コヘレトは7-8節で、礼拝で奨励されている沈黙を、社会の悪についても適用するように勧める。それは社会構造上仕方ないのだと。貧しい人が虐げられ、裁判で不正が行われ、正義がなされていないのは当然のこと。身分の高い者が、身分の高い者をかばあっていて、さらに身分の高い者の高い者が両者をかばいあっているから。コヘレトはそれに対して何の抗議もしようとしない。そして、益になるのは、王が耕地を大切にすることだという。そうすれば、搾取されている弱い者たちも食べ物にありつくことができるかもしれない。

いや、ちょっと待て!コヘレトであるソロモンよ、身分の高い者の頂点にいるのは王であるあんたじゃないか!あんたが社会悪の元凶じゃないか!それなのに王だけは貧しい人の味方であるかのように装っているのはおかしい。本当に貧しい人の味方になられたのはソロモンより偉大な伝道者イエス・キリスト。イエス・キリストはソロモンと違って貧しい者になられた。この方が王の王として支配される国は完全な正義によって統治される。イエス・キリストの統治についての預言を見てみよう。イザヤ11:1-5。この世の為政者の政治は空しいもの。このイエス・キリストの統治にこそ弱い人は希望を置くことができる。

9-19節は富について7つのことが論じられている。2章では愚かさの実験の中で富が登場したが、ここでは、富自体に焦点があてられている。富、つまりお金は、私たちの生活と切っても切れないもの。お金と全く無縁の人とか使ったことない人は誰もいまい。コヘレトは多くの人が価値を見出す富の中に空しくないものがないか様々な角度から見極めようとした。
第一に、富は満足をもたらさない。9節。お金は所有者を決して満足させない性質を持っている。お金を愛する者は、お金に満足しない。どれだけ稼いでも、十分だと言わない。実際、きりがない。年収がいくらなら完全に満足できるか、貯金がいくらなら完全に満足できるか。いくらでも満足できない。目標としていた額に到達すればもっとほしくなる。そして、お金を愛していればいるほど、満足ができない。お金はそのようにして、人間を金銭欲の奴隷にしてしまう。それがどれだけよくないことか。テモテへの手紙Ⅰ6:10。すべての悪の根!さらには、お金は神に仕えることを不可能にするものだ。マタイ6:24。お金を愛する者はお金を神として崇拝してしまっているのだ。人は金を愛しつつ、同時に神に仕えること不可能だ。それくらいお金は人間をとりこにする。そしてお金のとりこになるということは、自分の魂の滅ぼすことだ。金が人間を地獄に突き落とす。お金にはそれ自体価値をもっているが、その価値は、お金が人間を奴隷にする点で相対的にものになってしまう。お金の価値は人間を貪欲にしてしまう性質に照らすと無価値であり、空しいものだ。

第二に、富が増えれば浪費が増える。10節。これは不可避な現象だ。浪費は様々な原因によって発生する。お金をたくさんもっていればプライベートな生活では、それを付け狙う友人や親せきが現れるし、大きな事業をしていれば、仕事上でも従業員をそれだけ雇わなければならないので、経費がかさみ、結局自分の取り分は少ない。富の所有者ができることは、ほかの人たちが自分の富に群がっているのを、指をくわえて見ているだけなのだ。

第三に、富は不眠をもたらす。11節。労働者と資本家が出てくる。労働者は汗水流して働くので、疲れによって心地よく眠りを楽しむことができる。食事が貧しかろうが、たくさん食べようがそれは変わらない。しかし、資本家は眠れない。労働者のように体を動かさないので、運動不足のまま、食べてばかりいるので眠れないのだ。また、富への欲望やいつか富が失われてしまうかもしれないという不安もまた資本家をますます眠れなくする。
眠りというのは、神からの愛のプレゼントだ。詩編127:1-2。私たちは主に信頼して、眠ることができる。主を信頼して眠るなら、私たちが眠っている間に主が働いてくださり、すばらしいことを行ってくださる。私たちの神はまどろむことも眠ることもないお方だ。

第四に、富は不幸な出来事によって失われうる。12-13節。こういうことは往々にして起こる。富は火事や盗難や戦争によって失われうるし、事業での不祥事や間違った判断して会社が倒産し多大な負債を抱えるということはありうる。長年かけて一生懸命築いた財産が一夜で水の泡になることはある。子供たちに遺す財産は何も残らない。これはどんなに注意深く富を管理していても、どんな方法で管理していても発生しうることなのだ。富は一瞬にしてなくなりうる点で、富は頼りにならない。
第五に、富は死後の世界に持っていくことができない。14-15節。富の所有という観点でいえば、死ぬ日と生まれる日は同じだ。両方とも何も持たない。コヘレトは死後の世界について、「誰が見せてくれよう」言ったが、少なくともお金を死後の世界に持っていくことができないことは直感していた。その直感は正しい。人が死んでしまえば、富を収集するためにしてきた労苦はすべて何の役にも立たない。それがすべての人間に定められている悲劇だ。もし死によってすべてを失うなら、富も富を集めるための労苦も死によって無意味になる。

このように、富は不確かであり、死後の世界に持っていくことができない。ところが、ソロモンより偉大なコヘレトであるイエス・キリストは、富について絶対になくならないようにする完全に安全な保管方法を教えてくださっている!しかも、この方法は死後の世界で使えるように死後の世界に送金するという方法だ!マタイ6:20。富を天国に貯金すれば絶対になくならない!天国には悪魔や泥棒がいないし、災いが一つも起こらないので、失われる心配は皆無だ!そして、天国銀行に入れておけば、天国に行ったときにその富にあずかることができる。でも、天国銀行にお金を預けるにはどうすればいいのか?そんな銀行検索しても出てこない。どうやって口座を開設すればいいのか?あなたがクリスチャンならもう口座が開設されているだろう。その口座への送金方法は神の国と神の義のためにお金を使うこと。神の御心に適った方法でお金を使うこと。献金することもしかり、福音宣教をしたりサポートしたりするのもしかり。教会を建て上げること、家族を養うこと、親孝行をすること、人助けをすることなどなど、神が喜ばれるお金の使い道はいっぱいある。

第六に、金持ちは暗闇の中で食べる。16節。金持ちが富を得るために仕事で負うことになるストレスやいらだちは、富から良いもの得ようとすることを暗くする。仕事によって経験するマイナス面が大きすぎて、富を楽しむどころではなくなってしまうのだ。このことも富の価値を喪失させる。

第七に、富はパァーと遊んで使って楽しむべき。17-19節。コヘレトは富についての空しい面を六つも指摘した上で、こんなあてにならない富であれば、人生は短いのだから、つらいことはみんな忘れて、働いた後、お金をパーッと使って、宴会でも開いて飲み食いして楽しめ!それが唯一の富の利点だとコヘレトは確かにいう。コヘレトいわく、人生の日々も富も、神の賜物であり、神がそれを楽しむにように与えてくださったものだ。「彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない」。過去のことは忘れて、刹那的に短い人生を楽しむ生き方が理想の生き方。それは神を人格的に知らない人が選びうる最高の生き方であることは間違いない。

神を知る人はもっと優れた道を知っている。コヘレトは富をあくまでも自己中心的な目的で使うものとしてとらえていた。コヘレトのいうように、確かに富は神からの賜物であり、確かに神は私たちの人生を喜びと楽しみで満たしてくださるお方だ。私たちは自分のことのために富を使っていい。人間は自分の衣食住のために神からいただく富を使う必要がある。しかし、それと同時に、その他のすべての賜物と同じように、富は神と人に対する奉仕のために使うものでもある。もし富を自分のことのためだけに使うなら、あの陰府で苦しむことになった金持ちのように、私たちは責任を問われることになる。富をいっぱい持っていれば持っているほど、その責任は大きくなる。イエス・キリストを知っている人はその責任を自覚しよう。御国のために富を豊かに稼いで、富を豊かに与え、天に富を豊かに蓄える者となろう。そうする者にとって、富は本当に有益なものとなる。

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